第9話 彼(か)の者の名は

 一瞬目の前がぐらぐらと歪んだ気がした。

「どうして? どうしてあなたが王様になってるの?」

「さあ、なぜかな」

 王はにっこりと微笑んだ。

 悲鳴があがった。

 アレヴェルの短剣が、側近を貫いた。

 流れた血の臭いに興奮したか、下の広場でレオードが吠える。

 どかどかと遠くで足音が響く。

 侵入者の知らせが届いたのだろう、槍を持った兵達がなだれこんでくるのが見えた。

「その女を殺せ」

 もう一度王が側近に命じた。

 イルラナの後に控えていた側近が、今度こそ虜(とりこ)を殺そうと剣を振り上げる。柄を握ったその手に、石が直撃した。

 側近は剣を取り落とす。それを拾うより先に、イルラナは男を蹴りつけた。

 昏倒した側近に目もやらず、アレヴェルのもとへ走る。二人は別の出入口へと走り出した。

「行くぞ!」

 並んだ石のイスの間を駆け抜ける。

 目指す出口からも兵達が湧き出てきた。

「まずい、挟まれる!」

 アレヴェルに言われなくてもわかっている。両端にいる兵達はまだ遠いが、そのうち逃げ場は無くなるだろう。

(何か、何かないか、何か!)

 武器でもなんでも、とにかく役に立ちそうな物はないか。イルラナは忙しく辺りを見回した。

 観客席の隅に、抱えるほどの木箱があった。塗料で美しく模様が描かれている。

 イルラナは箱に駆け寄った。持ち上げようとしてみたが、大きい木箱は意外と重く、動かせない。

「何をするつもりだ!」

「広場に落とす!」

 それだけで何を狙っているのか分かったらしい。アレヴェルは引きつった笑みを浮かべながら、箱の端を持って動かすのを手伝い始める。

「えぐいことするな」

「このまま捕まって死ぬよりましでしょ! 生き残る確立は増える!」

 二人は「せーの!」と声を合わせ、箱を客席から広場へ落とした。箱は二、三枚板を飛び散らせ、砂地の上へ落下した。

 広場からぐるる、と唸り声がした。

 レオードは箱を中心に円を描くようにして、いきなり降ってきたこの物体が危険な物かどうか調べているようだった。

 その間に、兵達はイルラナに槍が届きそうなほどに距離を詰めた。

 ようやく無害だと判断すると、レオードは砂を蹴りあげ走り出す。

「お、おい」

 猛獣使いが焦った声を出すが、指示を出す鞭は高い燭台に絡み付いたままだ。

 血の臭いに興奮している獣は、箱に飛び乗り、それを足掛かりに客席へと飛び込んだ。

「バカ、やめろ!」

 猛獣使いが悲痛な悲鳴をあげた。

「うわ!」

 レオードに気づいた兵が声をあげる。前が急に止まったので、隊の後にいた兵が尻餅をついた。

「一体どうしたんだ!」

「レオードだよ! 闘技場からあがって来たんだ!」

 潮が引くように後退する兵達に紛れ、二人は走る。

「おい、侵入者と奴隷が逃げるぞ!」

「それどころじゃないだろう!」

 それでも命令に従順な者はいるようで、二人は伸ばされる手を払い除けなければならなかった。

 獣は跳ねた。兵の一人が押し倒され、喉を噛み切られる。

 兵達の何人かは、槍をかまえレオードを囲んだ。

「さあ、ノンキに見物している場合じゃないだろ」

 またアレヴェルに手を取られる。

 また獣が跳ねる。レオードが着地した場所から兵は後退り、さっとスペースが空いた。

 二人は申し訳程度に向かってくる槍を避け、兵達の隙間を塗って闘技場から走り出た。


 今までの戦いと流された血でハイになっていたのか、アレヴェルは笑い声を立てていた。

イルラナの手を取り、神殿の庭を駆け抜ける。

「ハハハ! まさかお前にまた会えるなんてな! さっき俺達いいコンビだったよな!」

 ちらりとこちらを振り返ったアレヴェルの目は、面白がっているように輝いている。王を、人間を殺そうとしていて、さっきも側近の一人を殺したというのに、なんでそんなに無邪気でいられるのだろう。

「おまけに一人でレオードから客席に逃げ出して、今度はレオードに兵士を襲わせて……ただモンじゃないよお前は!」

「ちょ、ちょっと速い速い! もっとゆっくり走って!」

 鞭で打たれたところがまだ痛む。

「アホ、ゆっくり走ってたらつかまっちまうだろ!」

 ようやく王家の敷地を抜け、ひとまず安心できる街中(まちなか)まで逃げてきて、ようやくイルラナは一息つくことができた。

 王の近くであれだけのドタバタがあったのに、街は騒ぎにもなっていない。

 来たばかりの時はどこか暗く、恐いようなイメージがあったが、豪華なだけでどこか寒々しい王宮のよりはよほどマシに思えた。

「ほら」

 近くの屋台から、アレヴェルが果実のジュースを渡してくれた。他の国ならともかく、ここでは結構高価(たか)いだろうに。

 素焼きの器は飲みおわったら店に返さないといけないらしく、イルラナとアレヴェルは道端に仲良く座ってジュースを飲むことになった。

 正直、果汁はカラカラの喉にチリチリとしたが、ちびちび飲むのはぐちゃぐちゃに混乱した心を整理するのにちょうど良かった。

「なあ」

 真剣な顔になって、アレヴェルがイルラナの顔をのぞきこんだ。

「あの王が仮面を外したとき、顔を見たか」

 その言葉にイルラナは身をすくませた。

「……った」

 毅然とした態度を取ろうとしたけれど、声が擦れてしまった。もう一度はっきりと言いなおす。

「あれは、エリオンだったよ」

 両手で石の器を強く握る。

「あの目、あの髪、私が見間違うはずない!」

「エリオンって……」

 イルラナは、自分がこの国に来た目的をアレヴェルに告げた。帰りが遅い幼なじみを探しに来たことを。

「お前、それだけのために今までのことを? 殺されてもおかしくなかったんだぞ!」

 アレヴェルは、なぜか怒っているようだった。

「分かってるよ。私も無茶なことしたって思ってる。でもおかしいの。エリオンだったら私が殺されそうになるのを黙って見ているわけはないもの」

「あの側近が嘘を言ったんじゃなければ、黙って見ているどころか『殺せ』と命じてたよな」

 思わず睨みつけると、アレヴェルは意地悪な笑みを浮かべていた。

「アイツは替え玉だよ。俺が知ってるディサクスはジジイだった」

 アレヴェルは、ちらりと自分の右手に目を落とした。

「巣穴の中でも言ったろ。俺はディサクスに短剣を突き刺した。即死じゃなかったが、致命傷だ。手当てしても遅かれ早かれ死んだはず」

 イルラナの頭に、側近を刺し殺し、兵達の槍を逸らせた短剣の煌(きら)めきが甦った。

家族の中で一人だけ生き残ったとアレヴェルは王の前で言っていた。天涯孤独になったのはきっとアレヴェルがまだ幼いころだったのだろう。砂漠で合図をくれたペンダントはたぶん姉か両親の形見だ。

 何も守ってくれる者がない子供が、刃で人を殺し、身を守る術(すべ)を身につけて青年になった。その間、どんな過去があったのだろう。イルラナには想像がつかなかった。ただ、大変だったんだろうな、と思う。そして、アレヴェルはどんなに辛くても自分のおかれた状況から逃げなかったのだろう、とも思った。

「でも、エリオンは暴君に手を貸す性格じゃないわ。政治に興味ないし、ただ実験器具をいじれて、時々クルミのクッキー食べられたら幸せ、って人だもの」

「実は双子だったってオチは?」

「ないわ。あの子は一人っ子よ」

「弱味でも握られてるのか、それとも洗脳でもされてるのか」

 アレヴェルは溜息をつくと、立ち上がって器を店主に返しに行った。イルラナもあわてて後を追う。

「送ろう。どこか寝ぐらはあるんだろう? 宿か何かが」

 そう言われて、思い当るのはフェレアの所しかなかった。

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