第8話 王の縄張りで
大きな音を立てて扉が開く。
「おい、起きろ! イルラナ!」
いきなり名前を呼ばれ、イルラナは眠りに落ちた姿勢から、弾かれたように顔を上げた。
呼ばれた方向に顔をむける。外の光が戸口で四角く切り取られていた。その中に、三つの人影が浮かび上がっていた。
「赤!」
「国王付き!」
辺りがざわついた。確かに、中央に立っている兵の胸に縫われたマークは赤い。
「なんだってわざわざ国王付きが、奴隷の収容所に……」
役人は、両端に立っている番兵と、青い役人の案内で真っすぐイルラナの所に近付いてくる。
(ああ、もう! 眠るつもりじゃなかったのに!)
イルラナは密かに踵を浮かせ、靴の底からナイフを取り出した。
「来い!」
青の役人がイルラナの肩に手を伸ばす。
イルラナは男の手に斬り付けた。
「ぬおっ!」
血を飛び散らせながら、役人は手を引っ込めた。
すきをついてイルラナは走り出した。
「この!」
イルラナの横にいた役人が足を伸ばす。足を引っ掛けられ、イルラナはつんのめった。 もう一人の役人が、イルラナの背を突き飛ばすようにして床に押さえ付けた。のしかかってくる役人の体重で息ができない。
髪をつかまれ、立たされる。
「ったく、このやろう!」
手を切り付けられた役人が、腹いせにイルラナの顔を殴り付けた。脳がしびれるような衝撃をうけ、イルラナは床に転がった。思わず手放したナイフが床をすべっていく。頬にぬるりとした感触があるのは、イルラナの血か、それとも兵の手の甲の血だろうか。
また襟首をつかんで立たされる。そのまま引きずられるように建物の外へ連れ出された。
奴隷の区画を離れ歩いて行くにつれ、段々と辺りの様子が整って行く。いつの間にか剥出しの土は舗装されて道になっているし、玉ネギのような屋根を持つ建物や、見たこともない獣の彫像が並べられている。
イルラナはそれを不思議な気持ちで眺めていた。きっともっと淋しく不気味な所に向かうのかと思っていたのに。こいつらは私をどこに連れていくつもりなのだろう?
王の支配する湖に近いせいか、街では見られなかった種類の鳥が木の影を歩いていた。自分の後と両脇に見張りの兵と役人がいなければ、駆け出して色々と見てまわりたい所だった。
役人はある建物の前で足を止めた。切り株のような形をしたその建物は、壁になんの彫刻も飾りもなかった。ただ、所々窓があるだけ。なんの飾りもないの造りが、なんだか不気味に思え、イルラナは胸がぎゅっと痛くなる気がした。
石の扉が重い音を立ててゆっくりと開く。
「入れ」
こづき入れられたのは、闘技場のようだった。入ったとたんに血の臭いが鼻を突いた。
砂を敷気つめた広場があり、イルラナはその端(はし)に立っていた。そのまわりを階段状の観客席が取り囲んでいる。闘士を逃げ込ませないためだろう、広場と観客席にはかなりの高さがある。広場にいるイルラナから見ると観客席の下はちょっとした壁のようで、ハシゴでもないと上がるのは無理だ。
夜でも使われることがあるのか、観客席には燭台が規則正しく並べられていた。席の間に所々美しく塗られた箱が置かれているのは、客に出す酒のビンや器を保管したり、荷物をあずかっておくためだろう。きっとこの観客席に王侯貴族達が座り、下で動物達や奴隷達が殺しあう様を楽しむのだ。
観客席の一角に、薄絹で作られた天幕のようなものが張られていた。薄い絹ごしに、金糸銀糸で飾られた豪華なローブをまとった誰かが座っていた。体型から男だろう。そして、極彩色に塗られた木彫りの面。四角い緑色の板に、金地に赤いら旋の描かれた半球形の目が二つ。赤い一本の口からはみ出た牙が一対はみ出している。稚拙な仮面だが、それだけに原始的な力が宿っているように見えた。こんな特等席に座れる仮面の男など一人しかいない。――ディサクス王――噂が正しければ、悪魔に憑かれた王。
その両脇に、赤い役人が二人立っていた。
「エリオンの知り合いだそうだな」
右側の男が重々しく口を開いた。
おそらく、隣でささやく王の言葉をそのまま彼が伝えているのだろう。王は軽々しく下々の者にその声を聞かせたりしないということか。
「あの錬金術師はこの辺りをこそこそと嗅ぎ回っていた。一体何を探っていた?」
(おかしい)
王の言葉に、心の隅が違和感を訴える。けれどエリオンのことが気掛かりで、それをじっくり分析する余裕はなかった。
「やっぱり、あなたはエリオンのことを知っているのね? エリオンはどこ! それを教えてくれないと、こっちだって何を教えない!」
イルラナの言葉に、王だけでなく周りの男達も意味ありげに笑った。
「それならそれでいい。ただの好奇心であり、本来はもうどうでもいいことだからな」
ディサクスは両手を鳴らした。
イルラナが入ってきた出入口と向き合う形に作られたから扉が開き、引きずるような音がした。そしてかすかなうなり声。
顔に黒い布を巻き付け、腰布一枚の男が闇の中から現われた。その男の右手には、長いムチが握られている。左手には、太い鎖。鎖の先は首輪に繋がり、見たこともない獣がいましめられていた。
金色の地に赤茶の縞模様(しまもよう)の毛皮。鋭い爪が生えた大きな四足は、歩くたびに砂地をサクサクと鳴らした。餌を与えられていないのか、口の端からはよだれが垂れ、剥き出された真っ黒な歯茎から牙が伸びている。餓えているにもかかわらず長い尾の動きは優雅だった。
「珍しいか? レオードという動物だ」
(ああ、アレヴェルが言っていた、あの)
現実逃避気味にそんなことに考えながら、イルラナは思わずあとずさった。そしてここが砂地の理由がなんとなく分かった気がした。大量の血が流れたとき、砂岩ではしみ込んでシミになるし、タイルでは洗い流すのに貴重な水が必要になる。砂ならば新しい物と入れ替えればすむ。
恐怖で足が震える。手製のナイフは収容所に落としたままで、丸腰もいいところだった。もっともナイフがあったところで大した役にはならないだろうけど。
猛獣使いが首輪から鎖を外した。やわらかい砂地でどうやったのか、人の背丈の二倍もありそうな長さのムチが地面を打ち、鋭い音を立てた。
獣は身を伏せた。獲物に襲いかかろうと、爪が砂を蹴り上げる。
イルラナは逃げ出した。必死に足を動かすが、砂は爪先から逃げ、力が入らない。
前脚がイルラナの両肩をとらえようとする。
パン! と破裂音にも似た大きな音が鳴り響いた。
ムチの指示と間違えたのか、それとも驚いたのか、体勢を崩したレオードは跳躍の勢いを一気になくし、その場に着地した。
それでも爪に引っ掛けられ、イルラナの服が破れ、背中の肌に赤い血の線が引かれる。
「こっちだ!」
聞いたことのある、誰かの声が呼ぶ。
とにかくレオードから離れながら、その声のもとに視線を向けた。
観客席にアレヴェルが立っていた。ベルトを手にしているところを見ると、それで音を立ててレオードを混乱させてくれたようだ。
「あなた、なんでこんな所に!」
「いいから!」
アレヴェルは観客席からベルトを垂らした。これを使って観客席まで上がって来いということだろう。
イルラナは彼のもとへ走る。幸い、アレヴェルからさほど距離はなく、彼の真下すぐたどりつけたものの、客席までは結構な高さがあり、小柄なイルラナでなくてもベルトに触れることもできそうになかった。
「またお前か。そうとう私が憎いらしいな」
王の言葉を側近が伝える。
右端の一人が、抜いた剣を煌(きら)めかせ、アレヴェルに向かって走り出していた。
「憎い? 当たり前だ!」
アレヴェルが吠えた。
「何度でもお前の命を狙ってやる!」
そしてベルトを投げ捨て、腰の短剣を抜く。
(ちょっと! 私の救出は!)
思わずそんなことを考えるけれど、アレヴェルだって自分の命を守らなければならないのだから、責めるのは酷だろう。
「俺の家族はお前に殺されたんだ。生き残ったのは俺だけだ!」
王は軽やかな笑い声を立てた。
「殺した人間のことなど一々覚えておらんよ!」
「だろうな!」
側近の剣とアレヴェルの短剣が噛み合った。アレヴェルは剣を弾き返す。追うように振り回される剣をかいくぐりながら、アレヴェルは叫んだ。
「この国じゃよくある話だ、珍しいもんじゃない。俺の姉は辺りじゃ評判の美人でな。王が噂の美女でちょっとばかり遊ぼうとした。だが、誇り高かった姉は、好きでもない相手に玩(もてあそ)ばれるのをよしとせず、自ら命を断った」
相手の蹴りを喰らい、アレヴェルの物語は少しの間中断した。
「っ! 自分の顔に見事に泥を塗られた王は、姉の両親と弟を処刑しようとした」
「そして一人生き残ったのが弟のお前というわけか」
仮面の奥で王が嗤った。
「悪いね。そこまで説明されても思い出せない。なにせ、長く生きているもので」
「くっ!」
アレヴェルが悔しそうにうめき声を上げる。
獣のうなり声が間近にした。気がつくとすぐ傍にまでレオードが近付いてきている。アレヴェルを心配している余裕はなかった。さっきはアレヴェルがスキをついて獣の気を引いてくれたが、今はもうサポートを期待できない。
外へ続く闘技場の扉が目に入ったが、辿り着く前に捕まってしまいそうだ。どうせそれに外側から鍵がかけてあるに違いない。
とにかく逃げなければ。獣に背を向け、イルラナは走った。
「ガッ!」
背中に痛みが走り、うつぶせに倒れこむ。なんとか体を捻って仰向けになり、レオードと顔を突き合わせる形になった。両の前脚が、イルラナの首を挟むように両脇の砂地に埋まる。すぐ目の前に歯を剥き出すレオードの口があった。生臭い息が頬にかかる。イルラナは、両手でレオードの顔をつかんで自分から少しでも遠ざけようとする。しかし、レオードの力は強い。じりじりと牙が近付いてくる。
(このままじゃ……)
イルラナはとっさに手の力を緩めた。そしてわざと体を起こすようにして、自分の顔をに近付ける。そして、思い切り相手の鼻面に噛み付いた。
レオードの血と、鼻水の塩辛い味が広がる。
その反撃はレオードに取っても意外だったらしい。レオードは猫のような悲鳴をあげ、両の前脚で顔を擦った。
イルラナは走った。獣ではなく、猛獣使いに向かって。
獲物の思わぬ攻撃方法に気を取られていた猛獣使いは、イルラナの接近に少し驚いていたようだった。だが気を取り直すとムチを振るう。
肩に衝撃と激痛を感じ、イルラナは一瞬目の前が暗くなった。だがここで立ち止まったらもうスキを突くことはできないだろう。
つんのめりそうになりながら、イルラナは走り続けた。痛みで息がつまり、力を入れて呼吸をしないと息ができない。思い切り猛獣使いに体当たりする。
「ぐっ!」
猛獣使いが悲鳴をあげ、よろよろと地面に倒れこむ。
イルラナは鞭を奪い取ると、倒れた猛獣使いの上に飛び乗る。
(客席に避難しないと!)
客席の燭台に向かって、鞭を振るう。うまく巻き付けば、それにぶら下って観客席に上がれるはずだ。黒い先端は、燭台をかすめて下に落ちる。自分の身長以上の鞭は、振るうだけでも難しい。次の一撃は、燭台にも届きもしなかった。
レオードが砂を蹴立てる音が近付いてくる。
うめき声をあげ、猛獣使いが立ち上がろうとする。足元がぐらぐらと揺れた。バランスを崩しながらも、イルラナは鞭を振るう。
ようやく先端が燭台にからみついた。
ぶら下がった鞭をよじ登る。客席と広場の間の壁を蹴って勢いを付けようとするが、肩が痛んでなかなか思うように体が動かない。
「うう……」
ようやく片手が客席の床に触れた。何とか体を持ち上げ、客席へはい上がる。
飛び掛かったレオードが、虚しく宙に噛み付いた。
その場に座り込み、イルラナは息を整えた。ある程度安全な場所に上がって余裕が出たからだろう、いまさらながら獣の鼻面を噛んだときの、血の塩辛さと生臭さがまだ口に残っているのを感じてイルラナは唾を吐き捨てる。
アレヴェルがまだ側近の一人と斬り合っているのが見えた。ディサクス王は考え事をしているようにイスの肘掛に頬杖をつき、余裕たっぷりにその戦いを見物している。
アレヴェルへの攻撃に加わらず、王の横を守っていた側近と目があった。そいつは一言二言王と何か会話をすると、剣を抜いてイルラナに近付いて来る。
(逃げないと!)
手足を動かした途端、鞭で撃たれた肩がまた痛んだ。手足に鉄でもくくり付けられているように体が重い。これでは自慢の足も人並み以下だ。
予想以上の速さで距離を詰められる。ぬっと側近の影が上から覆いかぶさった。大きな手がイルラナに伸びる。
(いつもならこんな奴に捕まらないのに!)
後から羽交い締めにされ、背中を膝でどつかれながらイルラナは王の前へと連れて来られた。
助けが来ないものかとアレヴェルの様子をうかがう。
アレヴェルは視線を時々こちらに向けていて、スキをついて助けに来てくれようとはしているようだった。だが襲いかかる刃がそれを許さない。
ディサクス王はイルラナが手を伸ばせば触れられそうなほど近くにいた。
「この娘をどうしましょうか、王よ。もう一度レオードの餌に?」
側近のその質問に、仮面の下からくぐもった声で王が答える。誰の声も通さない、自分自身の声で。
「殺せ」
その声に、全身が震えたようだった。聞いたことのある、ではなく聞き慣れたその声。
「その仮面っ!」
両腕をつかまれているのをいいことに、足を浮かせる。腕がもげるかと思うほど痛んだ。そして思い切り王の仮面目がけて蹴りを放つ。
爪先は届かなかったが、右の靴が飛んだ。靴は王を囲う薄絹に辺り、絡まるようにして地面に落ちる。
結局仮面を剥ぐどころかなんのダメージも与えらず、イルラナはディサクス王を睨(にら)みつけた。
仮面の下から小さな笑い声が漏れた。
「そんなに私の顔が気になるか?」
王は仮面をつかんだ。衣の袖からのぞく手が若いのにイルラナは驚いた。アレヴェルは老人だったと言っていなかったか。
仮面が外された。
黒く、男にしては長い髪。灰色の目。ほっそりとした輪郭。美しい衣を身にまとい、玉座に座っているのは今まで探していた幼ななじみ。
「エ、エリオン?」
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