10_魂の双極
這うようにして部屋に戻って、ベッドの上に躰を投げ出す。林檎の甘いにおいが机から漂ってくる。
痛む腕を持ち上げ、銀のナイフを胸の上で握ると、エレクトラが喰い破った右手の傷が引き攣れて痒い。
じっと天井を睨んでいると、やがてそれは痛みに変わる。
さぁ、エレクトラを迎えに行こう。
今は亡いあの庭に戻ろう。
僕自身はそこへ至る道を知らないけれど。
瞼の裏で嘲う影は、裏庭への道を知っている。
「ようこそ、アルベール」
目を開くと、酷く暗い森の中だった。斜め前の樹の枝で、蛇の目をした猫が笑う。
足元には白い石を敷き詰めた道があり、ずっと向こうまで続いている。緑の闇の中で、白い帯だけが不自然に光っている。
「可哀想に。君も気が違ってしまったんだね」
「僕は可笑しくなんかなってない」
影の言葉にむっとして言い返し、歩き出す。視界の端から影が消え、前方の樹の上に再び現れる。
「何を言ってるのやら。ここに来る奴は皆気違いさ。お前も、私も、エレクトラも」
「僕は可笑しくなんかなってない。姉ちゃんだって僕が連れて帰る。可笑しいのはお前だけだ」
「認めないのは勝手だけどさぁ」
甲高い笑い声が森の中で響く。男とも女ともつかない子供の様な声。
僕は立ち止まって、樹上の影を見る。蛇の目をした猫は笑うのを止めて、金の瞳を僕に向ける。
「ねぇ、お前は何」
「影だよ」
影は短く答える。それから笑みを消して言う。
「好きな名で呼べば良いさ。そうすればその名の通りになる」
訳が判らない。眉を顰めていると、影の輪郭が崩れ始める。
「私は影だから……名付けられた通りに……空を渡る舟を喰らい……大いなる海に死ぬ……」
声は徐々に小さくなり聞こえなくなる。黒い躰が霧の様になって森の闇に溶けていく。最後に金の眼球が残り、ぼとりと落ちる。地面に落ちて潰れると赤く変色し、腐る様に土に染み込む。
すると、森が開けた。
木が疎らになり、辺りが少し明るくなる。僕は白い道の上を明るい方と歩いていく。道の終わりを示す黒い柵を開けると、その先には野原があり、色とりどりの花が咲いている。周囲を背の高い木々に囲まれている所為で、そこから見上げる空は意外な程狭く昏い。
少し湿度の高い風が花の匂いを運んでくる。酷く懐かしい、裏庭の感覚だ。
あの庭と、少し違うのは。
屋敷があるべき位置に、瓦礫の山がある事。崩れた煉瓦の下から僅かに見える朽ちた右手が誰のものかはあまり考えたくない。
そして。
庭の中央に、エレクトラが一人で居る事。
久しぶりに見るエレクトラは、美しい黒のドレスを着ていた。野原に座って花の冠を作っている。花冠はもう殆ど出来上がっていて、一本鎖の両端を繋げる所だった。
僕はしばらく、エレクトラの手がひらひらと動くのを眺めていた。
花の輪が完成すると、エレクトラは顔を上げ、僕を見て笑った。
「いらっしゃい、アルベール」
僕はエレクトラの傍まで歩く。足元に咲いている花は季節も色もバラバラで、顎を上げていなければ目が眩みそうだった。
エレクトラが立ち上がって花冠を差し出す。僕はそれを受け取って、昔よくそうした様にエレクトラの頭に載せた。
エレクトラが微笑む。
「上手くできたでしょう」
「うん」
僕が頷くとエレクトラは嬉しそうにくるりと回る。黒いドレスの裾がふわりと広がって主の元へ戻る。
エレクトラは誇らしげに両手を広げる。
「ね、綺麗でしょう。あたしが作ったのよ。あの庭は亡くなってしまったから。ここなら誰も入ってこないわ。だって、この世界はここが全てだから」
あの裏庭で。
──世界がここだけだったら良かったのに。
エレクトラはしばしばそう言い、僕はそうだね、と答えた。その度にエレクトラは満足そうに笑った。
限りなく内側へ閉じていく夢。
「姉ちゃん」
ああ。
可哀想なエレクトラ。可哀想な「マリア」。どちらも外に世界がある事を知らない。こんな腐った場所に閉じ籠る必要なんてないのに。
僕はエレクトラの方を掴んだ。
「家に帰ろうよ」
エレクトラはきょとんとした顔で僕を見た。僕は赤い瞳を見返して言う。
「こんなの偽物じゃないか。戻ろうよ。戻って、外に出よう。そうしたらきっと、もう魔女だなんて呼ばれない。誰も僕たちを虐げない。あんな場所に居るから酷い目に遭わされるんだ。外に出ようよ。そこで庭を作ればいいじゃないか。そうすればもっと広くて明るくて綺麗な庭が手に入る」
エレクトラは答えない。
「家に帰ろうよ、姉ちゃん」
考え込む様に、エレクトラが俯く。エレクトラは僕より背が高いから、そうしても僕からはエレクトラの顔が見える。
鼓動一つの間を置いて、エレクトラが無表情な顔を上げた。
白い面が、にっこりと笑う。
「嫌」
──ブ ツ リ。
左腕の肩が熱い。酷く熱い。奇妙に思って顔を向けると、エレクトラの右手が握る銀の鋏が根元近くまで突き刺さっていた。
「あっ……」
喉が奇妙な音を立てる。僕が手を伸ばす前に、エレクトラが鋏を握り直し、真っ直ぐに僕の腕を切り裂いた。噴き出した魔女の色が僕のシャツとエレクトラの手と鋏を汚す。次いで吐き気を催す激痛が脳髄を駆け上がる。
「あああああああああああああああああああああっ」
熱い痛い熱い痛い痛いいたい。躰に力が入らない。ぐにゃりと膝が折れる。視界が歪む。いたい。痛い。赤い斑の浮く世界の中で、エレクトラが両腕を広げて回る。廻る。まわる。
「あははははははははははははははははははははは」
エレクトラの白い指先が真っ赤に染まっている。熱い。赤い指が銀の鋏を振ると、赤い滴がその上を滑って中に舞う。
痛い。痛い。エレクトラが回るのを止める。黒い裾が細い足に纏わり付いて動きを止める。熱い。何か。熱を冷ますものを。
ベルトに挟んだ銀のナイフを右手で抜いて、動かない左手に握らせる。冷たい。消えた分の熱が痛みに変わる。大丈夫。痛いのなら、平気だ。
顔を上げる。揺れる視界の中でエレクトラが赤い指に舌を這わせて、笑う。
「意気地なしのくせに」
鋏を僕に向けて、エレクトラは唇を歪める。
「あたしに勝てると思ってるの」
「煩い」
ああ、耳鳴りがする。自分が何を言ったのかよく判らない。倒れ込む様に走り出す。エレクトラが僕に向き直る。エレクトラの声だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
「踊りましょう、アルベール」
足を踏み出すたびに躰が揺れて左腕が痛む。傷口が脈打つ様に熱い。まるで心臓がもうひとつあるみたいだ。だからきっと、片方はやられても大丈夫だ。
エレクトラに向かってナイフを振るう。目が眩む様な痛みが左腕から全身に回る。エレクトラの赤い唇が笑う。
「裏切者」
ステップを踏む様に、エレクトラは優雅にナイフを避ける。踵の高い靴でふらつきもせずに色とりどりの花を踏みしめ、迷いなく鋏を突き出す。僕は重力に逆らわず、黒いドレスに肩から突っ込んだ。
「きゃあっ──」
短い悲鳴。エレクトラと一緒に草原に倒れ込む。地面にぶつかった瞬間、左腕に酷い痛みが走り、頭の中が真っ白になった。
躰が勝手にのたうち回る。草の匂い。花の匂い。目が開けられない。くそ。エレクトラはどこだ。
「裏切者」
声が降ってくる。右手を突いて躰を転がす。銀のナイフを掴み直して、無理矢理に上体を起こす。石か何かで切ったのか、花を踏み折った膝が少し痛んだ。
地面に銀の鋏を突き立てて、エレクトラが僕を睨んでいる。笑みを消して、エレクトラが叫ぶ。
「裏切者。あたしだけがあんたの味方だったのに。あんたはあたしを裏切った」
「煩い」
銀のナイフを左手で握る。痺れて感覚がない掌に冷たさだけが浸み込む。僕のアセイミ。エレクトラがくれた魔女の短剣。そう、これなら魔女も殺せる。
「裏切ったのはあんたの方だ。父さんみたいに逃げ出したりしないって言ってたくせに」
頭がぼうっとする。目が霞む。右手を握る──小さな痛み。近付いてくるエレクトラ。
裏切者。違う。だって僕は、嘘はひとつも吐いてない。それなのに。
「姉ちゃんは嘘を吐いたじゃないかっ」
右手に握ったものをエレクトラに向かって投げる。砂と草が宙に舞う。エレクトラは左手で目を庇う。その隙に僕は走る。エレクトラの肩を突き飛ばして、鋏を持つ手をつかまえる。
「姉ちゃんは逃げたんだ──」
「煩いっ」
腹に鋭い物が喰い込む。エレクトラの踵。そのまま地面に蹴り倒される。痛い──熱い。吐きそうになりながら、それでもエレクトラの手は離さない。そうすると、エレクトラも一緒に落ちてくる。
地面にぶつかる。転がる。くそ。離すもんか。ばさり、と黒いドレスの裾が空気を孕んで、落ちる。
「あたしは逃げてなんかない。捨ててやったのよ。あの場所は間違っていたから」
「姉ちゃんの嘘吐き。逃げたくせに。あの家からも母さんからも」
「煩い」
右手を振りほどこうとエレクトラが猛然と暴れる。鋏の先が頭を掠め、どろりとした感覚が頰を流れる。
僕はエレクトラを抑え込もうともがく。最早天地もわからないまま、何度も草の上を転がった。
「愚図のくせに」
エレクトラがどこかで叫ぶ。
「姉ちゃんの嘘吐き」
頭が何か硬い物にぶつかる。エレクトラの指が首にかかるのを必死で振りほどく。視界が回転する。めまぐるしく上下が入れ替わる。
「嘘吐き」
「あたしは逃げてなんかない」
「嘘吐きっ」
目茶苦茶に振り回した足が偶然、エレクトラの腹に当たる。エレクトラが呻いて動きを止める。不安定な姿勢から、地面に引っ張られて転がる。
エレクトラが下。僕が上。
「姉ちゃんは逃げた」
仰向けのエレクトラの右手を左足で押さえる。そうすればもう鋏は使えない。
「あの家から。学校から。母さんから──」
左腕が痛い。吐きそうだ。目眩がして、エレクトラの上に倒れ込む。右手を地面に突いて躰を支える。左手のナイフはエレクトラの首の上にある。
「逃げたんだ、僕からっ」
喘鳴が何か言葉の様な音を立てる。喉が痛い。まるで叫びすぎた後みたいだ。可笑しいな、僕はさっきから少しも喋ってなんかないのに。
目を開けるとエレクトラの顔があった。腕から垂れた血だろうか、白い額に赤い点が落ちていて、三つ目の眼の様になっている。
少し離れた所に、千切れた花の輪が落ちている。
僕はエレクトラに視線を戻す。エレクトラは糸が切れた様に無表情だった。
「……帰ろうよ」
ああ、疲れたな。部屋に戻ったらシリウスがくれた林檎でも食べようか。
「帰ろうよ、姉ちゃん」
僕はエレクトラに言った。
エレクトラはしばらく答えなかったが、やがて笑った。剣呑で苛烈な光を浮かべた赤い眼は、僕の見慣れたいつもの魔女だった。
「いいわよ」
魔女の声が笑う。
「あの家に戻ってあげる。あんたが本当にそうしたいなら」
言葉を合図に、野原が蠕動した。あらゆる輪郭が混ざり合い、歪曲し、千切れ、無数の極彩色の蝶となって翅を広げる。その中心でエレクトラが笑う。耳鳴りがするのに、エレクトラの声だけはいつだってはっきり聞こえる。
「あんたはあたしがいないと駄目だものね」
蝶が──飛び立つ。エレクトラが笑う。後から後から大量の蝶が空へと羽搏く。上に向かう圧力に、僕は押し流されそうになる。
極彩色の奔流に隠れて、エレクトラの姿が見えなくなる。それなのに声だけは聞こえる。甲高い笑い声。少しずつ離れていく。蝶が僕を連れて行こうとする。
まだだ、待ってくれ。まだ帰るわけにはいかない。
──エレクトラ。
「姉ちゃん」
行き着く先は知っている。あの檻の様な家──
「姉ちゃんっ」
流れに逆らって手を伸ばす。遠い。重い。白い右手と赤い左手。銀のナイフ。エレクトラの笑声。くそ。負けるものか。
目眩がする様な彩色の渦の中で、僕は確かにあの赤と黒の狂疾的な色彩を掴んだ。
◇◇◇
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