11_回帰

 エレクトラの歌声で目が醒めた。鳥の鳴き真似ではなく、綺麗な旋律の歌。かつて父さんが教えてくれたものだ。よく知っている発音なのに、意味は全く判らない音の連なり。

 あの女は酷くこの歌が嫌いだった。だからエレクトラは滅多にこの歌を歌わなくなった。

 僕も聞くのは随分久し振りだ。目を閉じて、耳を澄ます。

 懐かしい。あの庭を思い出す。あそこでは全てが自由だったから。

 ──ミシッ。

 足音が唐突に調和を乱す。不調和の足音が階段を上り、廊下を進み、エレクトラの部屋の扉を開ける。

「歌うのを止めなさい」

 あの女の甲高い声が耳障りに響く。エレクトラは歌うのを止めない。

「止めろって言ってるでしょう──」

 金切り声がヒステリックに高くなる。エレクトラは歌うのを止めない。旋律があの女の声と不協和音を奏でて歪む。

 目を開けると天井が見えた。外が明るい。窓から白い光が射し込んでいる。

 今は朝だろうか、昼だろうか。判らない。怠い。体が重くて仕方ない。それでも左手を持ち上げると、骨と皮でできたような掌が視界に入る。

 エレクトラが鋏で切り裂いた傷はない。

 左手を握る。開く。何もない。

 ──ああ。

 これで僕は十三回、エレクトラを掴み損ねた。

 今度は一体何日間眠っていたんだろう。この怠さからして、一日や二日でない事は確かだ。

 頭を少し動かすと、酷く甘い香りがした。林檎の匂い。もう少し頭を動かして机の方に向けると、半分茶色くなった赤い実に、蛾の様な虫が留まっている。

 甘い甘い、爛れた香り。もらった直後よりずっと甘くて美味しそう。

 だけど、残念だな。もう躰が動かない。

 枕に顔を埋める。鬱陶しい光を遮断する。甘い香りは消えない。

 シリウスはどうしているだろうか。

 まだ毎朝あの木の下で僕を待っているのだろうか。それとももう学校に来るのは止めただろうか。それとも何事もなかったかのように、領主の息子をやっているだろうか。

 まあ、どうでもいい。

 薄く目を開けると、林檎の側に影が居た。蛇の目をした猫。蛾の翅がゆっくりと開閉するのをぼんやりと眺めている。

 どうでもいいけれど、僕は一応、シリウスがここまで僕を探しに来ない事を祈っておいた。

 あの影は病だ。ヒトの心を渡る病。

 最初はあの女から、次はエレクトラへ。エレクトラが居なくなったから僕へ。逃れる為には、父さんの様にこの家から逃げ出す他になかったのに。

 それをしなかった、のは。

 ──僕は知っている。本当に「小鳥」を籠に縛り付けていたのが何なのかを知っている。あの「小鳥」は一度外へ出たのに戻ってきてしまった。「マリア」を助ける為に、自ら恐るべき魔女の前に。

 そうして命を落とした。

 「マリア」を見捨てれば自由になれたのに。

 「マリア」がいなければ縛られたまま生き続ける事もなかったのに。

 なんて、馬鹿なんだろう。

「ねぇ、姉ちゃん」

 僕はどこで間違えたんだろう。籠の鍵は本当に初めから開いていたのだろうか。澱に溺れていただけで、そもそも檻なんてなかったのか。本当は何も間違っていないのかも知れない。これが正しい形だとしたらどうだろう。エレクトラがいない、あの庭が亡い、可笑しな今が。

 エレクトラがいない。

 いや──そうか。

 そんな筈がないんだ。

 だってエレクトラは隣の部屋に居る。父さんの歌を歌っている。赤い瞳の魔女。あれがエレクトラでなくて何だって言うんだ。

 だから僕は何時まで経ってもエレクトラを捕まえられない。そもそも居なくなったエレクトラなんて居ないから。エレクトラは居なくなってなんかないから。頭が可笑しくなってしまっただけだから。庭はもう亡いのだから逃げ込む事なんてできない。鋏がなかったのだってきっと、気に喰わなくて何処かへ捨てたせいに違いない。エレクトラはずっとあそこに居る。僕の知らない姿であそこに居る。

 ──だから。

 僕は繰り返し夢に見る。僕の庭、僕の影、僕のエレクトラ。初めから、僕の世界にエレクトラはいなかった。だから居なくなる筈がない。僕のエレクトラが居ただけ。それが少し崩れただけ。でも大丈夫だ。すぐに元に戻る。

 ちゃんと気付いたから。

 一番最初から、僕の世界には僕一人しかいなかったんだ。

 エレクトラの庭にはエレクトラ一人しか居ないのと同じ。僕はずっとあの裏庭を僕とエレクトラの二人のものだと思っていたけれど、本当はそうじゃなかったんだ。僕と──僕の──エレクトラ。一人ぼっちの人形遊びを、ずっとしていただけ。

 それはきっと、エレクトラも同じだ。

 だから多分、これでいいんだろう。だって、これまでそれで上手く行ってたんだから。

 目を開けると酷く眩しかった。窓から入る白い光。赤い林檎。光に透ける蝶の翅。奇妙に鮮やかな色彩。しばらく見詰めていると、やがて見慣れた暗い部屋に戻る。

 ふと、右手の近くに銀のナイフがあることに気付いた。僕はそれを拾って胸元に持ってくる。

 エレクトラの歌はもう聞こえない。飽きたのか、あの女に何かされたのか。続きが聞けないのは残念だけど、これはこれで丁度良い。

 影が枕元にうずくまる。眠りにつく前の猫の様だ。蛇の金の瞳がゆっくりと閉じ、動かなくなる。

 ──さぁ、僕ももう終わろう。僕の庭へ帰ろう。このまま眠れば、きっともう目は覚まさない。

 僕を起こさないでね、エレクトラ。

 魔女の歌声でも届かない程深く、この澱に沈もう。そうして、やがて、その裏側で、僕は僕のエレクトラに出会う。あらゆる季節の花が咲く、あの忌まわしい庭で。庭の周りには黒い柵があり、入り口には錠があるけれど、それには鍵が掛かっていない。

 エレクトラ。

 お願いだからもう二度と、僕を起こさないで。

 林檎の甘い腐臭の中で目を閉じる。意外なほどあっさりと闇が降りてくる。

 赤い林檎の残像が魔女の色彩を作り、やがてそれが消える頃、白く光る道が見えてくる。

 体が酷く重い。いや、軽いのだろうか。よく判らない。躰の感覚が曖昧になってくる。僕は今呼吸をしているのだろうか。よく判らない。頭のてっぺんまで澱に沈んだのなら、きっと息は止まっている。

 白い道に沿って森を抜ける。空を覆っていた木の葉が途切れ、酷く明るい場所に出る。黒い柵に鍵は掛かっていない。庭の中央の一番明るい場所に誰かが座っている。僕は光に耐えきれずに目を閉じる。黒いドレスと白い花の輪が、かろうじて見えた。

「いらっしゃい、アルベール」


 閉じた瞼の裏側で、猫の目をした蛇が笑った。

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