09_家族

 傘を差して家へ帰る。既に濡れてしまったのであまり意味はないが、雨の日には傘を差すものだから仕方ない。

 冷えた指が大袈裟に震える。鍵を取り落とさないよう回すために、多大な労力が必要だった。躰が上手く動かない。雨で関節が錆びたみたいだ。

 傘を畳んで、家の中に入る。今日はあの女は眠っているらしく、追い駆けては来ない。

 部屋の扉を閉め、鍵を掛ける。傘は適当に転がしておく。床が濡れるがまあどうでもいい。クローゼットからタオルを出して被ると、陳ねた匂いが鼻につく。ごわごわとした布地で躰を拭くと、引っ掻いたような跡が肌に残る。

 ──ああしまった、制服を濡らしてしまったのか。

 ちゃんと乾くだろうか。確証はないが、洗濯紐に吊るしておく。部屋着に替えて、ベッドに腰を下ろす。

 入り口近くに転がった黒い傘の周りの床板は、雨水で濡れて黒く変色している。そのうち腐るかも知れない。

 ふと思い出して、鞄から林檎を取り出す。

 机の上に置くと、鮮やかな赤が目につく。甘い香りが雨の匂いを払う。

 ──そうだ、エレクトラの所に行かなくちゃ。

 鞄の中から銀のナイフを出し、ベルトに挟む。鍵を持って部屋を出る。自分の部屋の鍵を掛け、エレクトラの部屋の鍵を開ける。

 エレクトラはベッドに座って、退屈そうに足を揺らしていた。鍵を閉める音にも反応しない。

 僕はまっすぐにエレクトラの元まで歩く。正面に立つと、俯いているエレクトラの顔は見えない。

「姉ちゃん」

 エレクトラは答えない。僕は少し屈んで、その顔を覗き込む。

 白い面の中で魔女の赤が際立っている。瞳と唇。すっと筋の通った鼻。長い睫毛は瞬きもなく肌に影を落としている。

 僕達はあまり似ていない。その代わり、親の片方だけにあまりにも良く似ている。

 まるで、あの女の胎から二人がもう一度生まれてきたみたいだ。性と、魔女の名を取り替えて。

 僕はエレクトラの頰に手を伸ばす。エレクトラは動かない。気付いた素振りさえなく、じっと虚空を見詰めている。

 ねぇエレクトラ、裏切ったのはあんたの方だ。

 いつもいつも、自分は父さんの様にはならないと言っていたくせに。魔女のくせに、影なんかに負けて。

 エレクトラの頰に触れる。白い肌は柔らかく、少し力を入れると抵抗なく指が沈んだ。

 エレクトラは動かない。

 今頰に埋まっているのが指ではなく銀のナイフだったとしても、反応はないのだろうか。

 だとしたら、今、僕にはエレクトラを殺す事さえ容易い。

 魔女のくせに。

 早く戻っておいでよ。

 エレクトラ。

「姉ちゃん」


 ブツリ。


 皮膚を突き破る音がした。

「あはっ」

 エレクトラが笑う。

 口が開いて、僕の指が解放される。熱い。痛い。どうして。エレクトラの歯が喰い破った傷口からぼとりと血が垂れる。痛い。慌てて手を引っ込める間に、魔女の色がエレクトラの頰を汚す。赤い舌でそれを舐め取って、エレクトラが笑う。

「あははははははははははははははははははははは」

 右手の傷を押さえて、僕は呆然とエレクトラの哄笑を聞いた。傷自体は小さいのに血が止まらない。右の親指から流れた血が、左手で作った受け皿に小さな水溜りを作っていく。指の隙間から赤い滴が点々と床に落ちる。痛い。

 ––––ミシッ。

 床が軋む音。冷水を浴びせられた様な感覚で我に返る。

 ––––ミシミシミシミシミシ。

 あの女が来る、あの女が来る逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ駄目だもう間に合わない。

 ––––隠れなきゃ。

 でもどこへ。この部屋には殆ど隠れる場所なんかない。クローゼット。机。ベッド。

 ––––ミシミシミシミシミシ。

 僕はエレクトラが座るベッドの下へ潜り込む。黴と埃の匂いが鼻につく。急に動いたせいで呼吸が速くなるのを手で押さえる。血の匂いが混ざる。苦しい。気持ち悪い。だけど呼吸を抑えなければ気付かれる。

 ––––ミシッ。

 足音が止まる。鍵の回る音がして扉が開く。床からシーツの下端までの狭い視界の中を、あの女の足が歩いてくる。鼓動が速くなる。呼吸が苦しい。掌で押し留められて、心臓の音が躰の中で反響して耳を塞ぐ。苦しい。痛い。あの女の足がベッドの傍で止まる。

 エレクトラはもう笑うのをやめている。

 血の痕はどれくらい残っただろう。ああどうかあの女が、エレクトラがいつものように暴れて自傷したと考えますように。

 空気が足りない。苦しい。頭がぼうっとする。早鐘を打ちすぎて心臓が痛い。

 早く。早く出て行け。

 あの女の足元の床に、先程垂れた血の痕がある。エレクトラの怪我だとしたら、明らかに不自然な位置。

 気付くな。気付くな。気付くな。

 苦しい。

 あの女の足が動く。ベッドから離れる方向にゆっくりと踵を返す。

 安堵して目を閉じる。そうだ、早く行ってしまえ。

「……」

 おかしい。

 足音が聞こえない。

 目を、開けると。

 翠の瞳と、眼が合った。

「──っ」

 逃げようとする前に腕を掴まれた。ベッドの下から引きずり出される。途中で頭がベッドの脚にぶつかり視界が揺れる。熱い。くそ。痛い。

 無理に引っ張られた肩の関節が、嫌な音を立てて軋む。当然それを主張して止まってくれるような相手ではなく、強引に部屋の外へ引きずられる。

 どうにか立ち上がって躰をあの女の方に向ける。肩の痛みが緩む。扉をくぐる前に振り向くと、エレクトラはまた退屈そうに俯いていた。

「姉ちゃん」

 扉が閉まる。鍵が掛かる。エレクトラが見えなくなる。

「あの子に何をしたの」

 向き直る前に視界が揺れる。頭を殴られたらしく思い切り体勢が崩れる。転ばないようにたたらを踏む。一歩。二歩。三歩目を踏み出した先には床がない。

「ひっ──」

 階段を落ちる。反射的に眼を閉じて、慌てて開く。壁に肩からぶつかって躰を支える。一拍遅れてあちこちが痛くなる。どこを打ったのかもう判らない。

 あの女が階段を降りてくる。僕は階段を駆け降りて逃げる。足を踏み外した時にぶつけたのか、足の裏が痛んでうまく走れない。

 階段を降り切って躰ごと振り向くと、目の前にあの女がいる。

「あの子に何をしたの──」

 振り上げられた右手を見る。素手。なら。大丈夫。眼をやられないように腕で庇う。

「あの──を、何──の」

 殴打の音の合間を縫ってあの女の声が聞こえる。声はヒステリックに高くなり耳鳴りの様になって聞き取れなくなる。煩い。煩い。煩い。

 突き飛ばされて転びそうになる。足を引いて躰を支えるのさえ面倒臭い。でも転んで腹を蹴られて吐いたりするとまた後片付けが大変だから我慢しなければならない。

 ああくそ、早く終われよ。

 怠い。熱い。痺れが腕と頭から全身に浸みていく。怠い。呼吸をするのも面倒だ。くそ。気持ち悪い。

 唐突に打撃が止んだ。耳鳴りの様な音も消える。

 腕の隙間から外を見ると、少し離れた所にあの女が突っ立っている。僕を殴っている内に痛めたのか右手が赤い。赤い右手と白い左手で顔を覆って啜り泣く。

「貴方の所為で」

 左手が顔から離れる。薄茶色の猫毛で縁取られた顔の中に翠の眼球が埋まっている。

 髪が腰まである事を除けば、まるで鏡を見ているような気分だ。どちらが鏡像かを僕は知らない。

「貴方の所為で」

 ふらりと白い躰が揺れる。倒れ込むように、食卓の椅子の背に両手を突く。比較的軽い椅子の脚が宙に浮く。

「貴方の所為で貴方の所為で貴方の所為で貴方の所為で貴方の所為で──」

 声が耳鳴りに変わる。椅子が振り上げられる。僕は背中を丸めて、首と頭を守るように痛む腕を上げる。

 ──衝撃。躰が揺れる。痛い。痛い。痛い。目を開けられない。躰が揺れて支えられない。痛い。衝撃。痛い。立っていられない。床に倒れ込むと、また衝撃が降ってくる。痛い。痛い。痛い。躰を丸める。痛い。

「ごめんなさい」

 痛い。自分が何を叫んでいるのか判らない。また衝撃。痛い。痛い。もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

「ごめんなさいっ──」

 衝撃が──止む。ガラン、と椅子が床に落ちた音が空虚に反響し、残響が消え、世界に音が戻る。

 啜り泣きが聞こえる。

 目を開ける。血で斑になった右手が見える。ようやく血がとまったらしく、乾いてくすんだ色が掌に張り付いている。熱くて痛くてぐにゃぐにゃする腕を突いて、躰を起こす。歪んだ視界の中であの女の背が揺れている。

 薄気味悪い程痩せて、白い服を身に付けるとまるで病人の様な背中。吐き気がする程僕に似ている。啜り泣く幽鬼がゆらゆら揺れる。

 ──殺してやる。

 ベルトに挟んだ銀のナイフを掴む。冷たい。熱が冷める。くそ。痛い。まだ、あの女は殺せない。

 あの女はなぜか、ここの住人からはそれ程拒絶されていない。あの女を殺せば、僕はもうここにはいられない。そうして外へ出ても、まともに生きていく事などできないだろう。僕の様な子供ができる仕事など限られている。働けなければ野垂れ死ぬ。

 僕はそんな終わり方は御免だ。必ず生きてここから出てやる。その為の方法だってちゃんと知っている。

 エレクトラを呼び戻さなければ。

 「マリア」がいなければ物語は成立しない。あの女への報復はその後でいい。

 あの女の背が廊下の向こうへ消えていくのを睨む。

 そう、まだ、あの女は殺せない。

 起き上がろうとして、体のあちこちが痛むのに顔をしかめる。諦めて床にうずくまる。冷たい床が気持ち良い。床に頰をつけて、僕はようやく頰が濡れていることに気付いた。

 目を開けているのが辛くなって、目を閉じる。そうすると躰が震えた。頰からぼたぼたと水滴が落ちて右手に当たる。

 喉が震えて嗚咽の様な音を立てる。

 ぼやけた視界の中で右手を開く。先程より少し綺麗になっている。

 ──こんなに痛いのに。

 どうしてか、流れ出る血に色はない。

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