一日目(2)

 乙軒島の土を踏んだ五人は、改めて島の風景を眺めた。


 船着き場の桟橋の左右には白い砂浜が広がり、緑に覆われた島の周囲を、丸い額縁のようにぐるりと縁取っている。

 桟橋の側には小さなログハウスが建っていた。錦野によると、ここは屋外での作業に使う細々とした用具のための物置として使われているらしい。

 船着き場から島の中央までは一本の砂利道で繋がっているが、特に目を引くのは、砂利道の左右に広がる菜園だった。

 都内ではトマトやキュウリ、ナスなどが旬の夏野菜として売り出されているが、本州と気候が異なる沖縄では、栽培される野菜も大きく異なる。ゴーヤやスイカ、オクラなどは辛うじてわかったものの、本州ではほとんどお目にかかれないような珍しい野菜も数種類栽培されていた。


「へぇ~、ここって、家庭菜園もやってるんだね!」


 鈴なりに生った野菜を見て嬰莉が歓声を上げると、仄香は小さく頷き、素早く手を動かしながら答えた。


「うん、そうなの。パパとママが、ここにいる間はなるべく自然に触れながら自給自足の生活を送りたいからって、土を耕して畑を作らせたんだ。私も何度か農作業を手伝ったことがあるよ。まあ、私たちが乙軒島に来るのは一年のうちほんの数週間ぐらいだから、実際にはほとんど管理人さんにやってもらってるんだけどね……。こっちに来れない時期には、採れた野菜をうちまで送ってもらったりすることもあるよ。本州とは旬がずれてて、冬とか春先に採れたてのトマトが食べられたりするから、結構助かってるんだ……あっ、そうだ」


 仄香は何かに気付いたようにハッと目を見開くと、前を歩く錦野に声を掛けた。


「あの、菜園の作業って、今は錦野さんがやっているんですか?」


 錦野はその場で立ち止まって振り返り、はにかみながら答える。


「ええ、今は私がやらせてもらっております」

「でも、錦野さんってパパの会社で働いてた社員さんなんですよね? 今までは、プログラミング? とか、全然違う仕事をしてたんじゃ……」

「いえ、私はエンジニアではなく、営業部門だったのですよ。それに、生まれは東北で、実家が農業をやっておりまして……小さい頃はよく家の仕事を手伝わされたものです。上京して都内で働くようになってからも、盆に実家に帰った際には、両親の農作業を手伝ったりしておりました。ですから、農作業の経験はそれなりにございます」

「あ、そうなんですか……」

「実家では昔は米も作っておりましたし、野菜は色々なものを育てております。私がここの管理人を任されたのは、畑仕事が得意だということが社長の耳に入ったからでして。孤島の別荘――この乙軒島のことですな――の管理人が、最近体調を崩して辞めたがっている。後任を探しているのだが、興味はないか、と言われましてな……」

「それで、この島に?」

「はい。会社にはどんどん若い社員が入ってきますし、最近では業界を取り巻く環境の変化に追いつくのがやっと――いや、もう追いつけなくなってきておりましたな。私もそろそろ身の振り方を考える時期かと考えておりましたところで、渡りに船の提案でございました。幸か不幸か、私には家族もありませんし、会社勤めの頃より報酬も弾んでいただけるとのことでしたので、一も二もなく引き受けたというわけでございます」

「そうだったんですね……でも、都内からこの島にやってきて、退屈じゃありませんか? 私が言うのも何ですけど、この島、本当に何もないから……」


 すると、錦野はゆったりと手を振りながら菜園のほうを眺めた。


「いえ……まあ、お嬢様たちのようにお若い方なら退屈に思われるかもしれませんが、年を取りますと、こういう田舎暮らしが恋しくなってくるものでございます。気候も温暖ですし、食べ物も新鮮でおいしい。都内で会社勤めをしていた頃と比べたら、悠々自適に、随分健康的な生活を送れています。ですから、社長には心から感謝しておるのですよ」


 そう言いながら青々と繁る菜園を見渡す錦野の眼差しはとても穏やかだった。

 物理的にも情報的にも外界から隔絶され、緩やかな時が流れる乙軒島。錦野の表情から滲み出る穏やかさは、もちろん錦野本人の性格によるものではあるだろうけれど、乙軒島での素朴な生活も少なからず影響しているはずだ、と仄香は思った。彼女自身も、この島に滞在する度に、心が洗われるような思いをしているからだ。


 錦野から沖縄特有の島野菜に関する説明を受けながら、菜園の中を縫うように伸びる砂利道を進む。一歩近づくごとに、視界を覆い尽くすような洋館の巨大さをまざまざと実感させられた。


「近くで見ると、めちゃくちゃ大きいんだね、このお屋敷」

「ほんとほんと。なんか別荘っていうより宮殿みたいな感じ」


 霞夜と綸の言葉に気をよくした仄香は、あからさまな照れ笑いを浮かべた。


「そんな、宮殿はちょっと褒めすぎだよ。でも実際、建てるのは結構大変だったみたい。材料とか重機も全部陸地から運んでこなきゃいけないし……だから最初は、ママも『無駄遣いはやめて』って反対してたんだって。今では、ママも含めて、みんな乙軒島とこのお屋敷のことが大好きだけどね」

「はぁ~、なんか、庶民には想像もつかない話だなぁ」


 霞夜が半ば呆れたように言うと、仄香は両手を振ってそれを否定した。


「ちょっと、やめてよ、そういう言い方。庶民とかそんなの関係なく、私はみんなのこと、本当にいい友達だと思ってるんだから」

「はいはい、わかってますよ。こちらこそ、いい友達を持てて幸せだと思ってる。おかげさまで、こんな広いお屋敷に招待してもらえた上に、ボートまで運転させてもらっちゃったんだからね」


 もっとボートに乗りたかったのか、遠い目で浜辺の方向を眺める望。霞夜はその肩をつつきながら、


「何だかんだ言って、望はボートを使わせてもらえるのが一番嬉しいんでしょ?」


 と茶化す。望も口辺に笑みを浮かべながら肩を竦め、言外にそれを認めるのだった。

 仄香の父が所有する小型のクルージングボートは、普段は週に一、二回、最寄りの島との往復に使われるのみであるが、望の希望によって、今回は近海を自由に乗り回してもいいことになっている。仄香の親友ならと、娘の頼みを断れない仄香の父が特別に許可を与えたのだ。

 三人の会話を聞いていた綸が、横から心配そうな顔を覗かせる。


「でも、まだ免許取りたてなんでしょ? あんまり調子こいて遠乗りしないようにね」

「うん。島の近くをグルグル回るだけにしておくつもり……あ、仄香、お父さんに、ボート使わせてくれてありがとうございますって、伝えといてね」

「うん、のんちゃんが『ありがとう~』って言ってたって、ちゃんと伝えとくね」


 強い日差しと波の音に誘われて、五人の会話はビーチボールのように弾み、洋館へと続く数分の道のりはあっという間に過ぎていった。

 砂利道から続くアプローチは石畳で舗装されており、五人の賑やかな笑い声に混じって、コツコツと小さな足音が響いた。屋敷に近付くにつれて菜園はいつの間にか花畑に変わり、ハイビスカスやオオゴチョウ、ブーゲンビリアなど色とりどりの花が鮮やかに咲き乱れている。

 青い海と空を背景に、白亜の洋館と花畑のコントラストはこの世のものとは思えないほど美しく、周囲を舞う揚羽蝶や瑠璃立羽も、その風景に彩りを添えた。


「さ、着いたよ」


 まるで仄香のこの一言が合図であったかのように、そこに居た全員が一斉に屋敷を見上げる。

 洋館は二階建てだったが、膨張色のためか、それ以上に高く感じられた。鏡に映したようにシンメトリーの外観、その両端が前方に張り出しており、玄関前のポーチも大きくとられているため、頭上から見るとカタカナの『ヨ』、あるいはアルファベットの『E』の形に近い。

 暗いグレーの屋根から突き出したドーマー、そしてポーチの屋根を支える太い円柱と等間隔に並ぶアーチ型の窓が、瀟洒な佇まいに優雅なアクセントを加えている。

 しかし、最も印象的なのは、漆喰で塗り固められた壁の目の覚めるような白さだろう。まだ新しいとはいえ既に数年の風雨に耐えていることを考えれば、その白さは不気味にすら思えるほどだった。


「わ~、すご~い……」

「近くで見ると、やっぱり大きいね~……」


 ついさっきまで騒がしくはしゃいでいた四人は、玄関のポーチの前に立つと、一転して語彙を失った。ごく単純な感想を述べた後、皆一様にぽかんと口を開け、巨大な館の威容に圧倒されている。


「どう? 綺麗でしょ?」


 得意げに微笑む仄香が返答を得るには、いくばくかの時間を要した。仄香の問いに最初に気付いた霞夜が、慌てたように言った。


「う、うん。これ、ヨーロッパ風の建築様式だよね? こういうの、なんていうの?」

「え、様式……? え~と……」


 仄香は顎に手を当てて天を仰ぎ、何か考えるような仕草をしたが、すぐに元の笑顔に戻って、あっけらかんと言い放つ。


「ごめん、わかんない……パパから聞いたことがあるような気はするんだけど、忘れちゃった」


 仄香のこの返事に霞夜はしばし絶句していたが、会話を聞いていた錦野がすぐに助け舟を出した。


「たしか、フランスの、なんとかいう様式のデザインだと伺ったような気がいたしますが……」

「パリ……そう、たしかそう聞いた気がする! そういえば、こういう感じのお屋敷、パリで見たことあるかも」


 胸の前でパチンと手を打ちながら仄香が言うと、綸が素早くその言葉に反応した。


「え、仄香、パリ行ったことあるの?」

「うん……うちは毎年夏休みに家族で海外旅行に行くことにしてるんだけど、パリに行ったのは、えーと……何年前だったかな……たしか、また中学生の頃だったと思うけど」

「へぇ~、いいなあ、憧れるなあ、花の都パリかぁ。あたし、まだ一度も海外行ったことないんだよね。皆は?」


 綸が尋ねると、三人は当然のように首を横に振った。


「だよねぇ~。海外旅行なんて、うちの父さんの稼ぎじゃ夢のまた夢って感じ」


 綸が気落ちしたように肩を竦めると、それを励ますように、霞夜が声をかける。


「ま、気軽に旅行は無理でもさ、うちらも頑張ってお金貯めて、留学すればいいじゃん」

「留学かぁ~、お金がなあ……」

「お金の問題もあるけど、あたしは英語がさっぱりだぁ」


 二人の会話に割り込んだ嬰莉に、望、綸、霞夜の三人が声を揃える。


「「「それな」」」

「そんなに一斉に言わなくてもよくない?」


 頭を掻きながら言う嬰莉に、だってあんた英語の成績ほんとにヤバいじゃん、と霞夜からツッコミが入る。


「望、こんど英語教えてよぉ~。ハーフなんだから、英語ペラペラなんでしょ?」


 望は絡みつく嬰莉の腕を穏やかに解きながら苦笑を浮かべた。


「いや、ハーフって言ったって生まれも育ちも日本だし、母さんだって生まれは英語圏じゃないんだから、そんな期待されても困っちゃうよ。英語の成績がそんなに良くないの、嬰莉だって知ってるじゃん」

「ちぇ~っ、使えないハーフだなあ」

「ハーフは皆英語ペラペラっていう風潮、良くないと思います!」


 望が唇を窄めながら言うと、五人の間にどっと笑いが起こった。

 気の置けない友達同士の、微笑ましい風景。笑いが収まるのを待って、仄香が屋敷のポーチに足をかける。


「さ、いつまでもここで立ち話してるわけにもいかないし、それに暑いし……そろそろ中に入らない? 屋敷の中はエアコンが効いてて快適だよ」

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