一日目(1)

「きれいだね~、うみ


 燦々と照り付ける強い日差しと、潮の匂いを孕んだ海風に長い黒髪を靡かせ、せわしなく手を動かしながら、仄香ほのかは呟いた。

 つぶらな瞳、すらりと伸びた鼻梁、小さく整った唇。これが神の気まぐれが起こした奇跡なのだとしたら、世の中の男は全て、神の敬虔な信徒になるだろう――彼女は皆にそう思わせるだけの美貌を持っていた。

 絹のように滑らかな白い肌、無駄のない華奢な肢体。その身に纏うノースリーブの白いワンピースは処女雪のように眩しく、背景に広がる大海原の深い群青色との見事なコントラストを成している。いつにも増して上機嫌な仄香の表情からは、マリーゴールドのように可憐な笑みがこぼれていた。


「え? 何? 聞こえない!」


 仄香の向かいの席に座った嬰莉えりが叫ぶ。

 ここは六人乗りの小型クルージングボートの船上。逆『コ』の字型に配置された座席の、仄香は船尾寄り、嬰莉は船首寄りの位置に座っている。それほど距離があるわけではないが、エンジンのモーター音がけたたましく鳴り響いているため、大声を出さなければ会話が成立しないのだ。

 吊り目がちで猫のような瞳、茶髪にショートカットの嬰莉は、黒いTシャツにデニムのショーパン姿という出で立ち、そして健康的に焼けた小麦色の肌も相俟って、見る者にボーイッシュで活発な印象を与える。耳には花を象った小さなピアスがつけられていて、彼女は仄香の言葉を聞きとろうと、右手を耳に当てた。


「海、きれいな海だねって!」


 仄香が叫び返すと、嬰莉の隣に座っていた霞夜かよは、サンバイザーの下で目を細めながら言った。


「ほ~~んと! 日本にもこんなところがあるんだね!」


 毛先にパーマをかけたセミロングの髪をかきあげて、霞夜は無邪気に笑う。一重の瞼をアイプチで二重にし、今回のメンバーの中で最も手の込んだメイクを施している霞夜。日差しを気にしているのか、ついさっきまで、腕に日焼け止めクリームを入念に塗り込んでいた。

 薄い水色のノースリーブのブラウスと、黒いストライプ柄のガウチョパンツ。その横に入ったスリットから、雪のように白い脚が覗いている。髪をかき上げる指先、その爪を彩る花柄のジェルネイルが目を引いた。


「仄香さまさまだね!」


 仄香と二人の間、左側の席に座っていたりんはそう言いながら、仄香に視線を送った。

 前下がりボブの髪をブルージュに染めた綸は、まだ十代とは思えないほど大人びた色気を放っている。斜めに分けた前髪の間からは形の良い額と細く描かれた眉が露わになり、ぽってりとした肉感的な唇は、緩く結ばれたまま僅かに口角を上げている。暗紅色のルージュとグロスが引かれた唇は日の光を受けてギラギラと輝き、やや地黒な肌、そしてTシャツからロングパンツまで全身黒のファッションとの対比も相俟って、昼日中に光るネオンのように蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。


「ちょっとちょっと、ドライバーのことも忘れないでよ、みんな!」


 こちらに背を向けたのぞみが、運転席から不満げな声を投げる。

 肩まで伸びた亜麻色の長い髪、そして黒いTシャツにハーフパンツというラフな出で立ちの望は、今回のメンバーの中で唯一の小型船舶免許所持者であり、港を出てからずっと運転席に座り続けているのであった。


「はいはい、のんちゃん、わかってますって。のんちゃんが居なかったら、誰か他に運転手を頼まなくちゃいけなかったんだもん。感謝してるよ、ほんとに」


 仄香が答えると、望はこちらに背を向けたままひらひらと手を振った。


「わかればよろしい」


 日本人の父親とウクライナ人の母親を持つハーフの望は、母親の血をより濃く受け継いだのか、日本人離れした白い肌と亜麻色の髪、そして美しい青い瞳と端正な顔立ちを併せ持っている。プロテニスプレーヤーのマリア・シャラポワを想起させる眉目秀麗な容姿、その上、普段から面倒見のいい望は、当然クラスでも人気者で、今回集まったメンバーの中でもとりわけ一目置かれる存在だった。


 そう、この五人は皆、同じ高校に通うクラスメイトである。受験勉強に追われる高校三年生の夏休み、高校生活最後の思い出作りにと、仄香の父が所有する孤島の別荘で過ごすことになったのだ。


 仄香の父は、かつてインターネットの黎明期に時代の寵児と呼ばれたIT業界の第一人者で、一代にして巨万の富を築いた天才的な経営者だった。

 その彼が、世間の喧騒から逃れるため、沖縄本島から遠く離れたある小さな島を買い取って、家族数人が滞在できるよう別荘を建てた。それこそが、このボートの向かう先、乙軒島。

 沖縄本島から船で最寄りの島に移動し、そこから仄香の父が所有するボートに乗って、乙軒島に向かっている最中である。


 学校での他愛ない会話の中でこの島の存在を知った嬰莉、霞夜、綸の三人が、話の流れで『行ってみたい』と仄香にせがみ、高校生ながら小型船舶の免許を持つ望がそれに加わる。仄香自身も大学進学前に四人とゆっくり遊んでおきたいとかねてから思っており、仄香が父に頼み込んだことによって、この小さな航海は実現した。


「そういえばさあ、この島の名前、なんて読むの? おつけんとう?」


 スマートフォンでグーグルマップを眺めながら首を傾げる嬰莉に、仄香が答える。


「おとのきじま、だよ」

「おとのきじま……? ふーん、変わった名前」

「ふふっ、嬰莉は漢字苦手だもんね」


 隣の霞夜が茶化すと、嬰莉は痩せた頬を目一杯に膨らませ、すねたように唇を尖らせた。


「ええ、ええ、どうせあたしは馬鹿ですよ〜だ」

「それにしてもさ、スマホが繋がらないって本当?」


 糸のように細い眉の眉根を寄せて尋ねる綸に、仄香は大きく頷き返す。


「そうなの。あの乙軒島は、パパが休暇のために、敢えて携帯の電波の届かない場所を選んで買った島だから。通信手段があると休暇中でも色々連絡が入っちゃうし、パパもどうしても仕事のことを考えてしまうからって。だから、外部との連絡手段はこのボートだけなんだよ。スマホも、そろそろ使えなくなると思う」

「……あ、ほんとだ、使えなくなってる」


 スマートフォンの画面を覗き込んでいた嬰莉がぽつりと言うと、綸と霞夜もそれぞれスマートフォンを取り出して、電波が途絶えたことを確認した。


「へえ……さっきまで届いてたのにね。不便じゃないの? これ」

「ううん、別に……そんな、何週間も滞在するわけじゃないし。行ってみれば意外と平気なものだよ」


 些か不満気な綸の表情に気付くこともなく、仄香は朗らかな笑顔で答えた。裕福な家に生まれ、幼い頃から何不自由なく育ってきた仄香は、良家のお嬢様らしい天真爛漫な明るさを持ち、また超がつくほどのお人好しでもある。だからこそ、この四人の頼みを断り切れなかったのだ。


「まあ、いいんじゃない、たまにはさ。あたしたちだって、受験のことを忘れたくてここまで来たんだから」

「そーそー。ほら見なよ、この見渡す限りの大海原。メンドくさい受験のことなんかさ、なんかすんごいちっぽけな悩みみたいに思えてこない?」

「へ〜、『大海原』なんて、あんたにしてはずいぶん難しい言葉知ってるね、嬰莉」

「……ったく、なめんなよ霞夜、そのアイプチ剥がしてやろうか?」


 彼女にとっては一世一代の文学的表現を茶化された嬰莉が霞夜の顔へと手を伸ばすと、霞夜はまたケラケラと笑いながら『ごめんごめん、許してよう』とその手を遮る。


「でもさ~、せっかくだから、琴梨ことり弐胡にこにも声かければよかったね」

「無理無理、このボートは定員六人なんだから」


 綸が何気なく発した言葉に、運転席の望からクレームが入った。ちなみに、琴梨と弐胡はどちらも五人のクラスメイトで、綸と望の友人である。


「え~、でもさ、スペース的には結構余裕あるし、ちょっと我慢すればあと二人ぐらいは乗れそうじゃない?」

「無理だってば! バレたら免許取り上げられるのはこっちなんだからさ~、せっかく頑張って免許取ったのに」

「はいはい、わかりました。のんちゃんの機嫌損ねたら後が怖いからね」

「わかればよろしい」


 それから数分後、仄香が前方を指差しながら叫んだ。


「ほら、見えてきたよ! あれ!」


 その声に応じて、全員の視線が仄香の人差し指の指差す先に注がれる。運転席のフロントガラスの向こう、絶海の孤島に浮かぶ島を覆う緑の芝生と、その中央に建つ白亜の洋館。それはまだ指先ほどの大きさでしかなかったけれど、周囲に立つ木との比較から、決して小さな建物ではないことがわかる。

 嬰莉、霞夜、綸の三人が一斉に席から立ち上がり、船内が『わああ』という歓声で満たされた。


「へええ~、キレ~~イ!」

「こういうの、ドラマでしか見たことないよ!」

「なんかセレブって感じするね!」


 三人が口々に感想を述べるさまを、仄香は目を細めながら嬉しそうに眺めていた。


「おいおい、あんまり立ち上がらないでよ、危ないから」


 運転席から望の声が飛んできたが、かく言う望も顔を綻ばせて、まんざらでもない様子である。

 そもそも、マリンスポーツ好きが高じてボートの免許を取ったはいいが自前のボートを持っていなかった望にとっては、仄香の父が所有するボートを運転させてもらえるだけでも嬉しいらしい。はしゃぐ三人を諫めるようなことばかり言っている望だが、それが単なる照れ隠しなのは、この場にいる全員が理解していた。


 白い洋館は島に近付くにつれて次第に大きくなり、ボートが船着き場に接岸する頃には、見上げなければ全容を視界に収めきれないほどになっていた。洋館の建つ島の中央部がやや高くなっていることもあり、海面から見上げると、その威容はさらに迫力を増す。


「わ~、すごい、おっきいね!」

「うちのアパートよりデカいかも」

「あれ、何階建て?」


 霞夜が尋ねると、仄香は右手の指を二本立てながら答える。


「二階建てだよ。でも、天井がすごく高く作られてるから、普通の二階建てのお屋敷と比べたらすごく大きく見えるかもね。パパとママの部屋の上には屋根裏部屋もあるし」

「仄香んちって何人家族だっけ?」

「私とパパママの三人だよ。でも、あの屋敷には住み込みの管理人さんがいるから、実質四人かな。ここにはたまに親戚とかパパの親しい友達を招いたりすることもあるから、部屋数はそれなりにあるんだ。私たち家族の部屋の他に、客室も四部屋あって。それに、遊戯室もあるよ」


 遊戯室、そして管理人。いずれも一般家庭には存在しないものである。霞夜は呆気にとられた様子でぼんやりと呟いた。


「へぇ~~~、すごいなあ……住む世界が違うって感じ」

「でも、いいの? 本当に、そんなお屋敷に私たちがお邪魔しちゃっても」


 綸の質問に、仄香は朗らかに微笑む。


「大丈夫大丈夫。友達と一緒に行くって言ったら、パパも喜んでくれたし。それに、島についてしまえば管理人さんがいるから」

「管理人、かぁ。住み込みってことは、仄香もよく知ってる人?」

「ううん、実は私も今回初対面なの。前の管理人さんがやめちゃって、新しく来てもらった人なんだって。錦野にしきのさんっていう男の人で、元々はパパの会社の社員だから、信頼できる人だよってパパが言ってた」

「へぇ、そうなんだ」

「うん……あ、ほら、もう出迎えに来てるよ!」


 仄香の声に全員が振り向くと、板張りの船着き場の向こうに、白いワイシャツと、サスペンダーで吊り上げた黒いスラックス姿の恰幅のいい中年男性が立っていた。スチールタワシのようにたくましい口髭と、つるりと禿げ上がった頭部。人好きのする笑顔で佇むその男は、ムーミンのように膨らんだ腹を揺らしながらゆったりとこちらへ歩いてきた。


「仄香お嬢様と、そのお友達の方々でいらっしゃいますね? 私、先日より乙軒島の管理を仰せつかりました、錦野と申します。こちらに来てからまだ日が浅い故、至らぬ点もあるかとは存じますが、よろしくお願い致します」


 錦野は丸い体をさらに丸めて深く頭を下げる。


「パパからお話は聞いてます。こちらこそ、よろしくお願いします」


 仄香の丁寧なお辞儀に、他の面々も『よろしくお願いします』と続いた。

 錦野は満面の笑みを浮かべながら頷き、


「お荷物をお運びいたしましょうか?」


 とボートの中を覗き込んだが、望は


「いえ、皆そんなにたくさん持って来てるわけじゃないので、大丈夫です」


 と答え、小さめのショルダーバッグを肩にかけた。望に続いて他の面々も、大小それぞれの荷物を手にとる。


「でしたら、早速お屋敷の方へご案内いたしましょう」


 錦野は慇懃にそう言うと、くるりと身を翻し、屋敷のある島の中央部へ向かって歩き出した。


「じゃ、行こっか、皆。忘れ物ないようにね」


 仄香が振り返りにこやかに微笑むと、他の面々もボートを降り、板張りの船着き場を渡って乙軒島の土を踏む。


 鮮やかな緑に覆われた島、美しい白亜の洋館が、悍ましい惨劇の舞台になろうとは、この時はまだ知る由もなく――。

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