一日目(3)
錦野の手によって分厚い玄関扉が開かれると、その向こうに、広く解放感のあるエントランスが見えた。
「「「「うわぁ~……」」」」
四人は声を揃え、足元から頭上へゆっくりと視線を上げてゆく。
鏡のように磨き上げられた白い大理石の玄関タイル。正面のエントランスの向こうには、少なく見積もっても四十畳はありそうな大きなリビングが広がり、リビングに繋がる通路の左右には、緩やかなカーブを描いた階段が二階へと伸びている。
吹き抜けになった頭上の天窓からは柔らかい日差しが差し込み、白を基調とした内装の明るさを一層引き立てていた。掃除が行き届いているのか、床には埃の一つも落ちておらず、新築のような清潔感がある。
ある種の神々しさすら覚えるエントランスの光景に圧倒され、皆、口をあんぐりと開けたまま、しばらくその場に佇んでいた。あるいは、鏡のように磨き上げられた大理石の床を踏むのが躊躇われたのかもしれない。
「……どうしたの? 早く入って。あんまり玄関開けてると、虫が入って来ちゃうよ」
仄香がそう言うまで、まるで影縫いでもされたかのように、誰も動くことができなかった。四人はそこでハッと我に返り、おそるおそる館に足を踏み入れる。
「お、お邪魔しま~す……」
館のエントランスには所謂上がり框がなく、スリッパも置いていなかった。仄香も靴のままスタスタとリビングへの通路を歩いて行く。背後で扉を閉めた錦野に、霞夜が小声で尋ねる。
「あ、あの、ここって土足ですか……?」
錦野は頷きながら答えた。
「はい、このお屋敷では、室内でも基本的に靴のままでお過ごしいただくことになります」
「そうなんですか……本格的な洋館スタイルなんですね」
「ええ、和風建築とは文化が違いますな。私もここに来た当初は戸惑ったものですが、なに、すぐに慣れますよ。どうぞ、遠慮なさらずに」
錦野に促され、四人はおずおずと足を踏み出す。
「こんな綺麗なとこなんだったら、もっとちゃんと靴洗っておくんだった」
と、嬰莉が綸に耳打ちする。仄香と錦野の後について、四人共キョロキョロと辺りを見回しながら、リビングまでの短い距離にゆっくりと時間をかけて歩いた。
大理石の玄関タイルに代表されるように、外観の瀟洒な印象から比べると、内装はより西洋風で豪奢に感じられた。大階段の手摺に施されたロカイユ装飾、そして壁にかけられた西洋画に至るまで、ロココ風の意匠が随所に見て取れる。
リビングに入るとその傾向はさらに顕著になり、テーブルや椅子、チェスト、マントルピースなど、調度品には隈なくロカイユ装飾が施されていた。向こう正面にはテラスへとつながる大きな掃き出し窓があり、そこから差し込む日光のおかげで室内はとても明るい。
頭上を見上げると、壁から天井にかけてはやや過剰とも思えるほどの華美な装飾が施されており、やや宗教色のある風景が天井いっぱいに描かれていた。
その天井の中央、リビングの大きな丸テーブルのちょうど真上に当たる位置には、広いリビングを隅々まで明るく照らせそうな巨大なシャンデリアが下げられており、それを目にした四人の口から一斉に感嘆の声が上がる。
「うわぁ~! あれ、シャンデリアだよね?」
「シャンデリアなんて初めて見るよ~ぅ。あんなにでっかいんだ……」
「あの大きさのシャンデリアは、普通は売ってないらしいんだ。この部屋のためにオーストリアのメーカーにオーダーメイドで作らせたんだって、パパが言ってたよ」
四人の反応を見た仄香が満足げに言うと、嬰莉は目を丸くして、
「オーストリア!? へぇ~、あの、コアラやカンガルーがいるところ? シャンデリアも作ってるんだ! 面白いねぇ」
と間の抜けたコメントを返す。これには隣の霞夜からすぐにツッコミが入った。
「あのねぇ、それはオーストラリア! オーストリアはヨーロッパにある国で、芸術も盛んなところなの。『音楽の都ウィーン』って、聞いたことあるでしょ?」
「ウィーン? ……ああ、それならなんか聞いたことあるかも。でも、あれ、オーストラリアもヨーロッパだよね?」
「オーストラリアはオセアニア、南半球だよ! ヨーロッパとは真逆! 何でもかんでもとりあえずヨーロッパって言っとけばいいと思ってるでしょ、あんた」
「ええ……だって紛らわしいじゃん、オーストリアだのオーストラリアだのってさぁ」
嬰莉がポリポリと頭を掻きながら言うと、リビングはどっと笑いに包まれる。
「ところで皆様、この暑さの中の航海で喉が渇いていらっしゃるでしょう。私は何か飲み物を持ってまいりますので、ここで少々お待ちください」
錦野が禿げ上がった頭を慇懃に下げてリビングを退出すると、残された面々は大きな丸テーブルを囲むように配置された猫脚のソファに腰を落とした。花柄の刺繍が施された布張り二人掛けのソファが三組。ソファの座り心地はまるで雲のように柔らかく、ボートに揺られて凝った体をふわりと優しく包み込む。そのあまりの柔らかさに、望が『おおっ』と声を上げた。
しかし、四人は皆、この豪奢すぎるリビングに、そわそわと落ち着かない様子を見せている。その緊張を察して、仄香はソファに身を深く沈め、わざと大袈裟に背伸びをしながら言った。
「ふぁ~、なんか疲れたね~。皆も、思いっきり手足伸ばしていいんだよ?」
仄香は投げ出した足をぱたぱたと動かして寛いで見せたが、それでも四人の緊張は解れず、不安げに顔を見合わせる。
「いや~、でも、なんかさ、初めてお邪魔するわけだし……ねぇ?」
「うん、やっぱちょっと緊張するよ……気軽に『お邪魔してみたい~』なんて言っちゃったけど、正直、ここまでとは思ってなかったもん」
同じソファに隣り合わせて座った綸と望が頷き合い、向かいのソファに座った霞夜と嬰莉もそれに同調した。宮殿のように豪奢なリビングに、四人は明らかに委縮している。
「こんなお部屋、映画とかテレビとかでしか見たことないよ」
「そうそう、超セレブって感じ? 芸能人のお宅訪問! みたいな」
「芸能人でもさ、相当の大御所クラスじゃないと、こんなお部屋はないよね」
霞夜の言葉に、全員が改めて広いリビングをぐるりと見渡す。
リビングにはエントランスのような大きな天窓はなかったが、西側の大きな掃き出し窓から差し込んでくる日光と白を基調とした内装のため、とても明るく感じられた。天井から吊り下げられたスワロフスキーの巨大シャンデリアは、まだ明かりが灯されていないはずなのに、無数のクリスタルがキラキラと静かな輝きを放っている。
北側の壁に設えられたマントルピースの上には家族写真が収められた小さな写真立てがいくつも並び、その両脇に、白磁の花瓶に生けられた真っ赤な薔薇が彩りを添えている。また、マントルピースからさらに上へと視線を移すと、そこにはやはりロココ様式の絵画のレプリカがいくつか掛けられていて、仄香の父親の趣味の良さが窺えた。
リビングの南側には、シンプルなテレビ台の上に、70インチはありそうな有機ELの大型テレビが鎮座していて、その両脇には1メートル超のスピーカー。さすがにAV機器までロココ風に揃えることはできなかったようだ。白を基調とした優美な内装の中、その一角だけが沈むような漆黒で固められていて、ただでさえ大きなテレビが、異様な存在感を放っていた。
頭上のシャンデリアはもちろんのこと、複製画や有機ELの大型テレビ、細かい調度品に至るまで、リビングにあるものは全て、平均的な家庭に育った四人には手の届かない代物である。
四人が呆気にとられているうちに、錦野が台所から人数分のアイスティーとマカロンを運んできた。アイスティーに口をつけたところでようやく一息つけた四人は、それぞれ自分の興味の対象へと視線を注ぎ始める。霞夜は数々の複製画へ、綸は豪華な装飾の施された調度品へ、望は有機ELのテレビとスピーカーを興味津々に眺め、嬰莉は色とりどりのマカロンへと手を伸ばす。
望が仄香に尋ねた。
「そういえばさ、スマホの電波は入らないって言ってたけど、テレビはどうなの?」
仄香はまた細かく手を動かしながら答える。
「テレビの電波は届いてるから、普通に見られるよ。都内と比べるとチャンネルはだいぶ少ないけどね。でも、うちは普段から皆滅多にテレビを見ないし、ここにいる間は尚更、全くと言っていいほど見ないんだけどね」
「へえ……でもさ、有機ELって、まだ普及価格帯にはなってないはずだし、このサイズだとめちゃめちゃ高いんじゃない? こんなに立派なテレビがあるのに、なんかもったいないね」
「ああ、これはね……うち、テレビはあんまり見ないんだけど、パパは映画がすごく好きで、うちにもホームシアター専用の防音室を作ってるぐらいなんだ。だから、この島に来るときは好きな映画のブルーレイをいっぱい持ち込んで、ここでまったり映画を見てることが多いよ。このテレビも、ほとんど映画のブルーレイを観るためだけに使ってる感じかな」
「なるほどね、映画か……」
「あのでっかいスピーカーの後ろには、まだいくつかもう少し小さいスピーカーがいくつかしまってあってね。7.1チャンネルっていうの? パパはいつもテレビの正面に椅子を置いて、椅子の周りを囲むようにぐるっとスピーカーを配置して、グワーっと大音量で映画を見るのが好きなんだ」
すると、望はテレビの背後に回り込み、そこにあるスピーカーの数を確認して、感歎の声を上げた。
「ほんとだ、いち、に、さん、し……ウーファーまである。7.1チャンネルか……すごいなあ、これ、どんな音がするんだろ」
「じゃあ、今夜にでも皆で映画観てみる?」
仄香の提案に、望は瞠目して身を乗り出した。
「えっ、いいの? 使わせてもらっちゃっても」
「うん、いいよ。別に減るもんじゃないし――錦野さん、そこのラックに、映画のブルーレイいくつか入ってましたよね?」
リビングの脇に控えて会話を聞いていた錦野に仄香が尋ねると、錦野はにこやかに笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ、国内外のものが、二、三十本ほど……実は私も、暇を見つけてはここで映画を見ているのですよ。私も映画は好きですし、安物ながらホームシアターセットも持っていたのですが、都内でマンション暮らしをしていた頃は、なかなか大音量で映画を楽しむわけにはいきませんでしたからね。しかし、ここなら周りの耳を気にする必要もありませんし、私の自前の物よりもずっといい環境で映画を楽しむことができます。映画好きには天国のような環境と言っても言い過ぎではありますまいな」
「あの、そういえば、ここの電力はどうやって賄われているんですか? 自家発電?」
霞夜の質問に、錦野は目を細めた。
「おお、なかなか鋭い質問ですな。実は、この屋敷の南側には、太陽光パネルが設置されておるのです。日照時間も長く、遮蔽物もありませんから、今日のように天気のよい日なら、屋敷全体に全力を供給して余った電気を蓄電に回すだけの余裕があります」
「へぇ……でも、天気の悪い日などはどうするんですか?」
「一応、地下にディーゼルタイプの非常用の発電装置があるのですが……まあ、普段は私一人ですし、私がここに来てから自家発電を使ったことは一度もないですな。なにしろ蓄電池の容量が大きいものですから。数日間曇りが続いても、電力は全く問題ありません」
「太陽光発電と蓄電池ですか……意外とハイテクなんですね」
浮世離れした瀟洒な外観と、御伽噺の舞台のような内装を持ちながら、庭には太陽光パネル、地下には自家発電施設という近代的な設備。そのギャップに、霞夜は驚いたようだった。
この屋敷に入った当初は身を強張らせていた四人も、テーブルの上の紅茶とマカロンがなくなる頃には、だいぶリラックスした状態になっていた。緊張が解れた様子を見て、仄香が言う。
「さて、じゃあ、そろそろ皆を客室に案内しようかな。錦野さん、部屋の準備はもうできてます?」
錦野は空になったティーカップを盆に乗せながら頷いた。
「はい、もちろんでございます」
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