第17章 上官と神父の父親
上官は、小林が悠太にリカの話をしたその日、何も知らないまま寄宿舎へと戻った。彼は、いつものように制服を脱ぎ、自室に引きこもった。上官や河上のような特待生は、悠太たちと違って、自習用の個室が割り当てられていた。
上官は帰宅するとすぐ、宇宙工学の研究書を広げ論文の続きを書こうとした。地球時代から愛用してきたノートPCを起動させ、先週から纏めていたテーマを記述しに入った。
上官も含め、特待生制度を利用している生徒たちは帰還後、月に関連した発表を大学でしなくてはならない。大学の教授からは、その発表は外部のマスコミや海外メディアも来る大規模なものになると言われた。失敗はおそらく許されないだろう。
特待生の中でも彼らを取り仕切る上官の責任は、ここの青年たちすべてを代表していると言っても過言ではなかった。
青年隊だけではない。上官への期待は、ここへ彼を送り出した彼の所属研究室、そして大学からも相当に掛けられていると言って良かった。もはや上官の肩には、日本の学術界の期待が重々しく乗っかっていた。
「うっ…」
上官は、少し論文を書いたところで気分が悪くなり、思わず胸を抑えた。
最初の頃、秀才ぞろいの宇宙工学研究室の中で、上官への期待は決して抜きんでた程大きくは無かった。しかし彼は、持ち前の鋼のように固い意思と血のにじむ努力によって、ライバルたちを追い抜きこの特待枠を勝ちとった。世界各国からこの月へ送り込まれた秀才たちの中でも、上官への期待は頭一つ飛び抜けていた。
それは、上官が自ら選んだ道だった。それについて、彼は何一つ後悔はしていない。
「くっ…」
上官は、思わず机に突っ伏した。
上官は、長い期間、常軌を逸した努力を続けた結果、自分の精神が病みかけていることに気付いていた。
以前は、一月に一回程度、大抵は夜、自分の意思ではコントロールできない程強い不安感に駆られるようになった。
次の論文提出で教授に叱責を受けたらどうしよう、とか特待枠から落ちたら研究室にいられなくなるかもしれない、というような確証の無い不安ばかりが募った。そういう不安に駆られると、論文が一時的に書けなくなり、それを無理やり書こうとすると、身体をすり鉢で擂られているかのような精神的な苦痛が発生するのだ。
最初、それでも無理に書こうとしたものの、どうしても書けなくなり、仕方なく研究書を読むことで切り抜けようとした。しばらく研究書を読んでも、一向に理屈が頭に入ってこない。
最後には、やむを得ず、そういう時はランニングをしたり、クラシック音楽を掛けっ放しにして何もしないようにした。
最初の頃はそうしていれば良かったが、次第に不安感は月に二度、三度と度々起こるようになった。最近では、取りとめのないことですぐにイライラしたり、自分がわけもなくダメな人間に思えるようになってきた。
不安感を克服するため、さらに勉強に力を入れるのだが、勉強をすればするほど不安感は大きくなった。最近では、机に座ると、すぐに得体の知れない嫌な感じが襲ってきて、作業が手につかなくなった。
上官は、それでも自分の父親を見返すため、この闘いを降りるわけにはいかなかった。
彼の父はとある新興宗教の神父であり、得体の知れない教義を信者に教えては尊敬を集めていた。
彼に言わせれば、明治以降の日本は誤った発展の歴史を辿ってきたのだ。
人は機械やビルに囲まれて生きるべきではなく、自然の中で生活し、天に選ばれた一人の主君に使えるべきだった。
人間社会の秩序を維持する「人道」という世界があり、それが古来よりこの国に平安をもたらしてきたのだ。
現在、その「人道」に選ばれた主君は、上官の父親だった。
上官は、自分の父親が信者に垂れる教説が大嫌いだった。
考えることを止め、父親の前で涙を流しながら話に聞き入る信者も昔から嫌いだった。父親の宗教の信者は、目や耳の不自由な人や貧乏で学歴の無い人が大半だった。しかし二割程度は、大企業の経営者や名家の跡取り息子など実社会で成功している人たちだった。
上官は、父親の様な教養もカリスマ性も無い人間に、企業の経営者たちが握手を求めている様子を、滑稽だと思っていた。
人間社会は、汚い。父親の様な、頭の禿げあがった欲まみれの男が、何百人もの信者を束ねている。その原因は、宗教や道徳が人の正常な判断力を狂わせるからだ。
それに比べ、数理の世界は、抽象化された純粋な世界だった。
人間社会の欲も偏見も入り込む余地のない、美しい世界だった。上官は、そこに自分の精神の拠り所を見つけていた。
上官の野望は、この月での研究で認められ、学問の世界の威信を以って、父親の宗教を解体することだった。
努力しなければ、自分は父親の後を継ぎ、神父をさせられることになる。
怪しげな教義を振りまわし、逆らう者は女子供でも暴力を振るうようなカルトの神父にさせられる。
上官は、大学進学をいい機会に、家を飛び出した。
家を飛び出した自分の代わりに、今は姉が臨時の代行者となっている。しかし、「人道」は女には宿らない。
一人息子である上官にしか、神父になる資格は無いのだ。
大学の博士課程までの八年間、その間に父親も認めるほどの成果を学問の世界で残せないのなら、自分は家に戻ることになる。それからは、自分の残りの人生すべてを、宗教の発展と信者の救済に当てることになる。
上官は、この月で出世をし、そして父親の宗教を叩き潰すつもりだ。
そして、大学から連れ戻され、幽閉されている姉を救い出す。そのために、月の都市計画「ムーン・クレイドル」は何としてでも成功させなくてはならないと思っていた。
「あの男を叩き潰すためなら、悪魔にだって魂を売ってやるさ」
一人、そう呟いた。
上官は、背負わされた重荷も過労によるストレスも、理想をかなえるためなら耐え忍ぶべきものだと思っていた。
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