第13話プリマウェージ

悠太の背中に、さっきからぬるりとした感触が走っていた。

 彼女が身体を上下させるたびに、悠太の背中のぬるりとした感触は上下に動いた。悠太は、その刺激を受け取るたびに身体の芯が硬く硬直していくのを感じていた。

 最初、足の方から彼女が身体を擦りつけてくるのが、つぎは太ももに移った。太ももを擦りつけ終わると、今度は臀部のあたりを中心に擦りつけられた。

 それが終わると、いよいよ背中の中心が彼女の身体の熱を感じていた。

悠太は、何かに必死に耐えるように、ずっと目を閉じている。マットの上はひと肌に温められたローションがまき散らしてあって、それが悠太に、マットが下なのか彼女が下に居るのか分からないような錯覚を起こさせた。

 リカの刺激がいよいよ背中の中心から移り、彼女の吐息が悠太の背中に吹きかかった。同じ人間の温もりなのに、悠太はそれを感じると自分の背中にじわじわと悪寒が走るのを感じた。同時に、彼女の身体から伝わる熱と心臓の音に自分が身を任せてしまえば、きっと楽になれるだろう、といった気がした。

 しかしその時、もう自分は元に戻れないだろうという気がしていた。

 悠太がいつまでたっても頑ななのに、リカは少し困ったかもしれない。

 彼女は、悠太から背中を引き離すと、少しの間沈黙していた。悠太はその間、目をつぶったままマットの上で俯せになっていた。

「…それじゃあ、仰向けになろうか」

 彼女の声がした。

悠太は、無抵抗に仰向けになった。視界に、彼女の顔が飛び込んでくる。彼女は、相変わらず微笑を崩さず、右の口角の先にあるえくぼを崩さない。

 リカは、悠太の身体にのしかかるように悠太に体重を預けた。

 さっきまで耐え忍んでいた悠太も、さすがにこれはマズイと思った。頭の奥がジンジンと痺れて、自分のセルフイメージがガラガラ音を立てて崩壊しそうになっていた。

 左右に投げ出された手に、思わず力が入る。自分の内側から理解不能な衝動が突きあげて来て、自分を堪らない気持ちにさせた。手の中は脂汗が吹き出し、頭がくらくらしてきた。

「どお?こういうのは。興奮するでしょ?」

 リカの吐息が、悠太の顔に掛かった。

「…は、はい」

「この先が、見て見たくない?」

「……」

「人間はね、所詮、自分の身体を支配する地上の欲求からは自由になれないの。

 …それじゃあ君も、地上と身体の奴隷に、なるといいよ」

 悠太は、薄っすらと開けた瞼の向うから、リカが自分にくちびるを預けてくるのを見ていた。

 彼女の吐息が、もろに吹きかかる。悠太のくちびるに、彼女のくちびるが重なるのに、あと一五センチ、一〇センチ、五センチ…。

 悠太は、しばらく目をつむって、外部からの刺激に耐え忍んでいた。

自分が、万梨阿を見つけた時の決意と、それによって固まったセルフイメージは、完全に崩れていた。自分は、もう以前の純粋な自分には戻れないと思った。

穢れを知り、自分に眠っているおぞましくも強烈な欲求に支配されてしまった、今の自分には…。

 しばらく目をつむっていたが、いつまで経っても予想される感触が触れてこない。いつまでも思い描く、否、全く予測もつかない感触は、ついにもたらされることは無かった。

 悠太は、ふと目を開けてみる。

 リカは、相変わらず悠太の上に圧し掛かっている。しかし彼女はまっすぐ前―正確には、タイルにはめ込まれた鏡越しに、悠太の持ってきた荷物の中身を見ていた。

「きみ、あの絵は…」

 リカは、さっきの誘惑的で、悠太を追い詰めていたのとは全く違う、動揺を隠せないと言う声で呟いた。

「あ、あれ…?」

「あの絵は、君が描いたの?」

 悠太は、自分も鏡越しに、自分の荷物を見ていた。その中には、今まで何枚も推敲を重ねては失敗し、結局形になっていない万梨阿の肖像画がはみ出ていた。

「は、はい…」

 絵を描いたには描いたが、それがどうしたのだろうか?あの絵は、まだまだ自分の中では、失敗作だと言うのに…。

「…メーダ・プリマウェージ」

「メーダ、ふりま?」

「『メーダ・プリマウェージ』。クリムトが一九一二年に描いた作品で、オーストリアで一世を風靡した劇団女優プリマウェージの、九歳の娘をスケッチしたの」

「そ、そうなんですか…」

「私が一五年前…いや、中学生の時に、初めて見つけた絵だった。

『接吻』とか『シューベルト像』とか、有名な作品はいっぱいあるけど、この作品みたいに、昔の自分にシンクロする絵は、今まで見たことなかったの。

女子の、決意なのかな、意志なのかな。『よし、これから私たちがやるんだ!』みたいな…」

「は、はあ。『決意』ですか…」

「時間の流れは、ちょっぴり残酷ね。忘れてたはずだったのに、いやなこと、思い出しちゃった」

 リカの声は、ほんの一分前までの色調がまるで嘘であるかのように、冷静沈着だった。悠太は初めて、彼女が被った仮面が剥がれかかっていることに気付いた。

「その絵が、どうしたんですか?」

「似てるのよ、君の絵と」

「似てる、ですか?」

「色調も筆使いも描き方も、何もかも全く違うのに…。あの女の子、君の好きな子でしょ?」

「な、そんなこと…」

 悠太は、急に口ごもってしまった。それ以上先の言葉が、のどの奥につっかえて出てこなかった。

こんな時、どの気持ちをどんな形で伝えたら、うまく切り抜けられるのだろう?

「そっか、そうだね。なんか、ごめんね。大事な子がいるのに、私が奪おうとしちゃって」

「い、いや、それは別にいいというか、気にしてないと言うか、なんなら続いても別に自分は…」

 斜め左を向きながら、ぼそっと呟いた。悠太は、自分がとんでもないことを言っているのに、気づいていないふりをした。

 リカは、悠太の身体から起き上がると、さっさと身体にバスタオルを巻いてしまった。そして、ベットの右端に腰かけると、悠太を催促した。

「少しお話しない?時間が来るまで、まだ三〇分近くあるわ」

「いいんですか?あなたには、仕事があるんじゃ」

「身体は売っても、魂までは売らないわ。聞かせてよ、君のこと。その女の子のこと」

「…はい」

 そういうと、悠太はマットの上から起き上がった。頭は、さっきまで身体を突きぬけていた衝動が、嘘だといいたいくらいにすっきりとして冷静だった。

 悠太は、ちらりと下を見て、思わず股下を押さえつけた。頭ほどには、身体はまだあの感覚を、忘れていなかったらしかった。


 それから、悠太は自分のことをいろいろと語って聞かせた。

 自分が絵を描く方面に進みたいこと、それなのに両親は自分の意思を聞こうとせず、ここへ送り込んだこと。でも本当は父親が悪いわけではないし、嫌いでもないこと。

 ここでの荒廃した生活、希望の持てない、漠然とした未来のこと。その中で、一人の女の子と知り合ったこと。彼女の励ましと導きで、なんとかここまで戦い抜くことが出来たこと。

 取り留めのない話は、ほとんど愚痴か悪口に近いようなものだった。しかしリカは、それをバカにすることなく、うんうん、と頷きながら聞いてくれた。

 悠太は最後に、自分がここで仲間を作ろうとしている、といった。

そしてその仲間たちが集まる時、自分のことを伝える身分証明が必要で、自分はそれをこの絵にしたいのだ、と言った。

 一部始終を語り終えると、リカはゆっくり口を開いた。

「素敵な夢ね。きっと、叶うといいね。でも、無理はしないで」

「はい」

「私にもね、君よりちょっと上だけど、弟がいるの。だから、君を見ていると、弟を思い出すようで、心配なのよ」

「弟さんは、どこにいるんですか?」

「さあ…。最後に会ったのは、もう一年も前だから。

なんでも、政府の特待生に選ばれたからって、学費を免除されて大学に通ってるみたい。よく分からないけど、何か新しい研究機関に配属になるんだ、って言ってたわ」

「すごい人なんですね」

「不器用な子なのよ。不器用で、何かな、君みたいに真っ直ぐなの。どこか浮世離れしていてね。

真っ直ぐな性格がそれで丸くなればいいんだけど、あの子の場合、真っ直ぐなまま、自分を壊してでも前に進んでしまうの。

 きっと、生い立ちが影響したのね。器用でただ幸せなら」

 リカは、髪の毛を右手でくるくる丸めて、言葉を切った。これが彼女のくせらしい。

「きっとあの子は、あんなに賢くはなれなかった」

 悠太は、リカの話を聞きながら、ある人物を脳裏に思い浮かべていた。

しかし、それはありえないだろう、とすぐに打ち消した。姉弟の二人が、一緒の場所に居て互いのことを知らないなど、ありえないと思った。

「…あなたは、どうしてここに来たんですか?」

「ごめんね、それは、教えられない決まりなの。でも、お金は、絶対必要なの。そのためにはここに来るしか、無かったのね」

 悠太は、リカの表情に一瞬、窓に鳥影が差すように、曇りが浮かんだのを見逃さなかった。それは一瞬のことで、リカはまた顔を上げ、話し続けた。

「…そんな」

「でも、いいの。だって、身はどんなに汚れたって、こころは自由だもの。人生には、どうしようもなくて、しょうがない時だってある。でも、最後は神さまが守ってくれる」

「神さま?」

 悠太は、リカの口から神さまなどという言葉が出てくるとは思わなかった。さっきまで悠太は、彼女を淫魔かサキュパスのように思っていた。

「知ってる?運命って、贈り物なのよ。

 どんなひどい運命だって、それは神様からの素敵な贈り物なの。どんな運命にだって、何かの意味があって、大切なことを教えてくれている。ただ、なかなか人ってそれに気付けないものだけどね」

「そうなんでしょうか?」

 悠太は、リカの話を聞きながら、ここでの自分の生活のことを考えていた。

 ここでの生活に意味がある?それは本当なのか?そうだとしたら、神様は随分と意地悪な課題を自分に出したものだ。

苦しいわりに、ちっとも意味など見えてこない。

「君にとっての神さまは、この世界にいるみたいね。その子、最後まで守ってあげてね。きっと君を、あるべきところに、戻してくれるはずだから」

「あなたは、一体…」

「私は大丈夫。神さまが、地球から離れたって、見守ってくれている。あなたも、その神さまを大事にしなさい」

「…ありがとうございます。でも一つだけ、言わせてください。

 万梨阿は、神さまじゃない。羽が生えてるけど、ただの女の子です」

 そう言って、万梨阿の肖像の背中を指さした。それを聞いたリカは、優しく、少女のように笑った。

「ごめんなさい。今度クリムトの絵を描く時は、羽をつけるようにしようかしらね」





 悠太が暗室を出され、鉄とコンクリートで作られたのにやけに木造りの演出の施された階段を下りて行ったのは、程なくしてだった。

悠太の心には、さっきまでの不安も恐れも、まったく無かった。それよりも、リカという女性から新たに流れ込んできた生のエネルギーが身体中に充満し、かえって気迫に満ちていた。

 一階に下りると、明らかに政府の役人だというような眼鏡を掛けたフロントが、黒のダークスーツとネクタイ、サングラスを掛けて待機していた。彼は、悠太を見かけると、機械的な動作で手招きをして待合室に通された。

 その部屋には誰もいなかったが、地球からどうにか持ってきたネット回線経由で、アメリカのBBCニュースが流れている。

画面の奥では、悠太も知っているような米国大統領が、エネルギー政策をめぐって議会に大紛糾されている様が映し出されていた。

 悠太は、無造作にチャンネルを掴むと、適当な番号を押す。ロシア語、中国語と続いた後、三番目に日本のNHKニュースが映った。

 月面だから日本時間はほとんど関係ないのだが、現在、日本時間では二一時少し過ぎといったところか。

 ニュース番組は、連日報道されているエネルギー資源の枯渇をめぐる報道で、某石油会社の株が大暴落し、サウジアラビアのエネルギー関連企業が次々母国へと拠点を戻す準備を始めた、という報道を繰り返していた。

 それに伴い、新資源である『star dust』への注目は、もはや全世界的である、と女性アナウンサーは話した。

 画面では、月面へ打ち上げられるスペースシャトルに、国際宇宙開発機構(OISD)の日本人代表、高杉義美が手を振りながら乗り込んでいる。

初老の彼は、少し禿げあがったおでこと真っ白な白髪、それにトナカイのように赤くなっているだんごっぱなで、日本の若年層にもマスコット的人気がある変わり者だ。

その彼も、まさか引退まであと三年という段になって、オレンジのダボダボした宇宙服を着こんで、月面へ送り出されることになろうとは、予測していなかっただろう。

 悠太は、ぼーっとしたままそれを眺めていたが、脳裏の一枚のチップが、目の前に映し出される映像と繋がった。

 おでこまで禿げあがった頭、真白く、横になでつけられた髪の毛。それになにより、顔の中央には、トナカイのように赤くて大きなだんごっぱながある男性。

「……まりあの、じいちゃんだ」

 悠太は、彼を知っている。それも、現実に出会った老人ではない。

何者かに銃で撃たれ、意識を失っている時、万梨阿の治癒能力で癒されている時、確かに夢の中で見た景色だった。

 それは、鮮明なリアリティを持っていながらも、大して重要ではないような気がして、深く考えることの無かった記憶だった。しかしその時の映像の本人が目の前に映っていた。彼がこの月面で何が起きているのかを知る最重要人物であることは、はっきりしていた。

 おそらく、彼も万梨阿の秘密に気づいている。

万梨阿がスターダストに惹きつけられたのを最初に発見したのは、彼なのだから。そして彼も、万梨阿の持つ不可思議な能力に気付いている可能性が高い。もしかしたら、悠太以上に、万梨阿の能力について熟知している可能性がある。

 しかし、最大の懸念は別にあった。

 万梨阿の身体のどこかに、スターダストとの繋がりがあるのなら、血縁者である高杉義美老人も、不可思議な能力を使える可能性がある。

 それがどんな能力で、彼がそれをどう運用しているかも、悠太には分からない。しかし、彼が『ムーン・クレイドル』計画に関わっている可能性は、極めて高い。

 悠太は、反射的に立ち上がった。

気持ちには、漠然とまとまりのない不安とともに、意味もない焦りが湧きあがった。

やがて役人がドアを上げた。スーツの彼が手招きすると、悠太は指示にしたがって部屋の外に出る。フロントに、いつの間にか預けられていた探照灯と部屋のカギを受け取り、そのまま外へ出た。

 外へ出ると、そこは悠太もよく知る月面基地居住区Bブロックのエリア一だった。奥には悠太たちの住んでいる幅五〇メートル、幅三〇メートル、高さ三階建ての寄宿舎も見える。

この建物を裏手に回れば、そこは政府関係者や国際機関職員、科学機関や大学の研究者が出入りするAブロックのコンクリート建造物が整列している。

 悠太は、月面の零下二度の外気を肌に感じ、自分の内部の火照った身体の温もりを改めて感じると、勢い良く駆け出した。

 こうしてはいられない。

ここに、万梨阿の能力を使える人間がもうすぐ到着する。もしかしたら、上官やリカは、知ってか知らずか、高杉が到着するまでの時間稼ぎですらあったかもしれない。

悠太が銃撃を受け抹殺されようとしたのは、高杉義美という一人の権力者に近づくものを排除するための警戒網だったのかもしれない。彼が月面に到着すれば、悠太の身に危険が及ぶどころか、上官の言っていた『ムーン・クレイドル』建設への計画が更に進行することになるだろう。

 悠太は、一目散に走っていく。

 ―早く、早く!

 八時間後、地球日本時間九月十二日午前五時、高杉義美がAブロックの西側にある官民共同シャトル発着場に降り立つ。

 その前に、自分が計画を阻止する。彼が月面に到着すれば、世界政府樹立への計画が加速度的に進んでいく。同時に、万梨阿の力を使える人間が、一人から二人に増える。そうすれば、自分にはもう何のアドバンテージも無くなってしまう。今、行動を起こさなければ、悠太は彼にねじ伏せられてしまう。

 この時、悠太はほとんど自分の身の安全を考えていなかった。内側から湧き上がる使命感は、心の中の一抹の不安を補ってなお溢れてくるものだった。

 悠太は食糧法装用のプラスチックのごみが散乱する裏路地を、勢いよく駆け抜けていった。



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