第12話聖なる暗室
悠太は、意識を失うことと眠ることの違いがよく分からない。
悠太は、小学校の時、一度だけ意識を失ったことがある。
幼い悠太は身体が弱く、よく貧血を起こして倒れた。
小学校の時、いつもと何ら変わりなく登校した悠太は、冬の朝ジョギングをやらされるため、校庭に並ばされて、いつものように三分間の校長のスピーチを聞かされた。校長の話が、本日の気候から三日前に東京の方で起きた凶悪犯罪に移った時、身体が急にだるいような感じがしてきた。
悪い予感が胸の中に沸き起こったが、幼い悠太は先生の言いつけをお利口に聞くことの方が、悪い予感に対処するよりよっぽど大事だと判断した。無理に足に力を込めて、何とか立っていると、身体の末端がだるさを通り越してきて悪寒に変わってきた。
体中から脂汗が吹き出し、それなのに体は氷のように冷たかった。そのうち、悪寒は頭にまで広がって、気持ち悪くて仕方がなくなった。
悠太はやっとそこで、担任の先生に助けを求めようとした。
しかし事態はすでに遅く、強い酩酊感と不快感が身体中をどきん、どきんと駆け巡って、悠太は地面に倒れ込んだ。
それ以降のことを、悠太はよく覚えていない。
しかし、眠ってもいないはずの悠太は、たしかに夢を見たのだ。
自分は小さな近所の公園で、夕日が迫る中、一人遊んでいた。
周りからは子供たちの声が聞こえているのに、誰も周囲にはいなかった。悠太はそれを当たり前のことだと思い、一人でブランコを前後させて遊んでいた。
夕日が沈みかけ、そろそろ辺りははっきり見えなくなってくる。
そこに、一人の女の子がやってきた、
顔は、思い出せない。きっと彼女に顔なんて無かったのだろう。
顔の無い彼女は、「はい」とだけ言って紙を渡してきた。
それを見た悠太は、そこに書かれている言葉の意味がよく分からなかった。どうして彼女が、わざわざ自分にそんな言葉を見せたのか、未だによく分からない。
そこには簡単な単語が羅列してあった。
『時よ止まれ 分析 現在 価値 等しく 総合』
悠太の回想は、意識の覚醒によって強制的に終了した。
悠太が目覚めると、まず鼻の中に湿っぽい、生ぬるい空気が侵入してきた。そして、すぐ近くでザアザアと勢いよく水が噴き出す匂いがした。
薬品のせいなのか、未だ若干酩酊感の残る頭を何とか持ち上げた。
悠太の服装は、上官たちから逃げ延びた時と何らかわりない迷彩服だった。
被っていた帽子が頭から外されて、近くの壁に掛けられている。
周りは、全体的に薄暗く、天井に褐色の電球が煌々と光っているだけだ。悠太が倒れていたのは、畳三畳分くらいの床に敷かれたカーペットの上だった。
向うには、悠太たちがいつも使っている共同浴場をずっと小さくしたような浴槽と、タイル張りの三畳くらいの空間が広がっていた。浴槽の向う側に小さな窓が据え付けられているが、完全に締め切られて外の空間は把握できない。しかしここが月面であることは間違いないだろう。
それ以外の壁は、塗装もされていないむき出しのコンクリートで塗り固められている。
悠太が訝しんできょろきょろしていると、浴槽の陰から女の影が現れた。
「いらっしゃい。君が次のお客さんね」
細身で、身長は一六〇センチくらいだった。目はパッチリして少し斜めに吊り上っている。唇は少し大きめで、髪の毛は肩くらいまでで切りそろえてある。
身体には黒色で薄手のドレスを着ている。ほっそりとした体の曲線から、小柄なくるぶしと足首が見えている。
全体的に小作りだが、奇麗な女性だと悠太は思った。
彼女は、躊躇なく悠太の横を通り抜け、悠太のうしろに設置されていた、薄い布が敷かれたベットに座った。
「私は、リカっていいます。よろしくね」
「は、はあ…」
悠太は困惑して、キョロキョロあたりを見回した。自分がどうしてここにいるのか、ここに何のために運び込まれたのか、まったく分からなかった。そもそもここは、何をする場所なのだろうか?
「私、よくタイの人に間違われるんだ。お客さんに。そんなにアジアっぽいかな?」
「ま、まあ、そうかもしれないですね」
「ここに君を運んできた人たちも、君をいきなり外国人のところに連れて行くのは刺激が強すぎるって、日本人の私のところに連れてきたのよ」
「外国人もいるんですか?」
「まあね。ここは、いろんな国の人が出入りするから」
「ここで…僕はどうすればいいんですか?」
悠太は、あまりに正直すぎる質問をぶつけてみた。リカという女性は、少しだけ笑った。悠太は、それはおそらく苦笑したのだろうと思った。
「あの人たちにはね、君を『使い物にならないようにしてくれ』って言われてる」
「使い物?」
「君は、もちろんこういう体験は初めてよね?」
「まあ…」
どんな体験が初めてなのか、悠太にはよく分からなかった。しかし背中にぞわぞわと悪寒が走り始めた。
薄暗い部屋と狭い風呂場とベッド。そして少し大人の女性と二人きり。
悠太は、考えれば考えるほど悪寒が走るのを感じた。そして同時に、万梨阿に対してもなんだか申し訳ない気がしてきた。
「まだちょっと若すぎる気もするけれど…彼女が出来た時の予行練習と思えば、悪くは無いよね」
「何をすればいいんですか?」
「もちろん、セックスよ」
悠太は、それを聞いた瞬間、頭を鉄パイプで殴られたような感覚になった。
せっくす?せっくすって、何語だろう?
「あの…僕、そういうのはちょっとまだ…というか、やったことありません」
悠太は、リカの方を直視できなかった。目線を斜めにずらし、言葉は話すごとにどんどん小さくなっていった。
「大丈夫。私が君くらいの時にはもう…まあいいか。
君は何も分からないだろうから、寝そべってさえくれたらいい。君を文字通り、骨抜きにしてあげる」
「骨抜きに、なるんですか?」
「人間って、立派なように見えて、案外、野生の動物と変わらないのよ」
「あの、リカさんには非常にいいにくいんですけど、今日はその、そんなとこまで行かなくていいというか、お話だけできれば十分というか」
「だいじょうぶ。ゴムはつけるから」
「いや、そういうことじゃ」
悠太は、両腕を太ももに挟んだままもじもじと呟いた。悠太の敏感な部分が、もうすでに若干反応してしまっていることを、心の中で恥じながら。
「君がしたくないなら、構わないけれど、ここからどう逃げるつもりなの?
時間が来てそこの扉の錠が空くのを待ってもいいけれど、何もせず出て行けば、あの人たちに許してもらえないんじゃないかしら」
「あの人たちって…」
悠太は聞き返したが、彼女の返答は帰ってこなかった。
そのかわり、リカは浴槽の蛇口を締めに行った。さっきのザアザアという音は、蛇口から水が噴き出す音だったのだ。
素足でペタペタとタイルを歩き戻ってきたリカは、悠太を手招きした。
「さあさあ、風呂が沸いたよ。服を脱いで。それとも、私が脱がす?」
「あ、あの、その、自分で脱ぎます!」
悠太は、そういうと慌てながらズボンのベルトを外し始めた。
ベルトを外しズボンを下げ、次に上着を脱いだ。中には、温かいスウェットを着ていたが、それも脱いで、近くの床に置く。するとリカは、慣れた手つきで上着をハンガーにかけ、スウェットとズボンは近くの茶色のカゴに放り込んだ。
悠太は中に来ていたTシャツを脱ぎ、上半身は裸になった。続いて靴下も脱いだことで、身に纏っているものはもう地球から持ってきたトランクス一枚しかなくなった。
そこで羞恥心が沸き起こってきて、ちらりとリカの方を見る。しかし彼女は何のためらいも無く、悠太が最後の一枚を脱ぐのを待っている。
悠太は、ついに堪忍した。
身に纏っていた最後の一枚を脱ぐと、股下がやけにすーすーとして堪らない。あわてて手を下腹部に当てて、そのままみっともなく棒立ちになった。
リカは、一連の流れを見守っていたが、悠太が裸体になったのを確かめると、すぐに自分も脱ぎ始めた。
黒のドレスを脱ぐと、彼女はすぐにうすピンク色の下着姿になった。その中肉中背、ほっそりとした体の美しさに、悠太は釘付けになった。
悠太は、生まれてこの方、女性の裸体を見たことが無い。しかし女性が服を脱ぐと、こんな感じなのかという関心が沸き起こった。
彼女は、何のためらいも無くブラジャーのホックを外し、それを取ると両腕で前を隠した。そのまま、下半身のパンティもするするとぬいでしまった。
彼女は、そのまま無力な悠太を誘導し、バスルームにまで連れて行く。
悠太は、無抵抗のまま浴槽に身を沈めた。
悠太は、浴槽の中でずっと体育座りをして、斜め下を見ていた。しかし視線は三〇秒に一回くらい、彼女の首から下へ移って、〇.五秒と経たないうちにまた斜め下へ戻った。
リカは、自分の目が悪いのだと言う話を始めた。
彼女は、浴槽につかる時、浴槽の上の壁際に置かれたメガネを自分の目に掛けた。黒縁でフレームが強調された、レンズの大き
の眼鏡だった。
「私、出かける時とお仕事の時はカラコンを付けるんだけど、なんだか駄目ね。眼球の表面が傷んできたみたい。お医者さんに、ここに来る前に止められちゃった」
「へ、へえ…そ、そうなんですか」
「最近、CMでやってるじゃない?ほら、目に優しい超ソフトタイプ、だっけ?あれ欲しいんだよね」
「でも、値が張るんじゃないですか?」
「そうそう、それ。困るよね。
ところで君は、なんか趣味とかあるんの?」
「趣味、ですか。まあ、絵を描くこととか…」
「絵!たしかに、あーてぃすとって雰囲気、してる!」
そう言ってリカは笑った。
「まあ、そんな大層なもんじゃないです」
「私の絵とかも、描けたりする?ほら、ヌード」
「ヌードは、描いたことないです…」
悠太は、そう言いながらも、いつか描いてみたい、と考えていたことは口外しなかった。
「へえ、かっこいいじゃない。じゃあ、いつか私をモデルにして頂戴」
「は、はあ…」
「そういえば、私も好きな画家がいてね、オーストリアの画家で、クリムトって人」
「くりむと?」
「そうそう。私の好きな絵師さん。下の待合室に絵が飾ってあるから、帰る時見てってね」
「は、はあ…」
「それとも、君はまだ若いから、ちょっと刺激が強すぎるかな?」
リカが、少し小ばかにしたように言ってきた。
「そ、そんなこと…」
悠太は意地になって否定して、もっともらしい理由を見つけようとした。しかし、女性と手さえつないだことのない悠太にとって、確かにヌードは刺激的すぎた。
「やっぱり、刺激が強いのかもしれないです」
「認めるんだ。ふふっ。君って、おもしろいね」
「おもしろい?僕が?」
今の一連の会話のどこにおもしろさが潜んでいたのか、悠太は聞き返したくなった。しかし、それ以上の追及は止めておく。
「それでね、私、そのクリムトが好きで、オーストリアにまで留学してたんだ」
「へえ、留学ですか。オーストリアって、なんかすごいですね」
悠太はそう言いながらも、何がどうすごいのか、自分でもさっぱり分からなかった。
「何語を使ってたんですか?」
「ドイツ、ドイツ語よ。だから、少しは喋れたりね」
「へえ、そうなんだ」
「絵じゃあないけど、向うは工芸品が綺麗でね。ほら、そこにあるガラスのコップ、これ私が地球から持ってきたんだ」
「へえー」
悠太は、そう言って風呂場の窓際に、一つの藍色のステンドガラスのコップが置いてあるのを見つけた。そのガラスには、真ん中に髪の長い女性の姿が掘り込んであるようだ。
「ね?きれいでしょ。太陽光を受けて、光が四方に拡散するようになってるのよ」
「大学生とかで、行ってたんですか?」
「ううん、高校なの。詳しくは言えないけど、そういう高校だったのよ」
悠太は、高校在学中にオーストリアへ留学を許す高校など、一つも知らなかった。広い世の中を探せば、そんなものもあるかもしれない、と考えた。
「ここに彫ってある女の人は、誰なんですか?」
「これ?ああ、聖母マリアよ。イエス・キリストのお母さん。向うでは、三位一体とは別で、聖母信仰も昔からあってね。
聖母マリアを、キリストの次か、彼と同等に押し上げて、信仰する宗派もあるくらいでね」
「ふうん。ところで、キリストって、神さまなんですか?」
「きみ、ヨーロッパの宗教のこと、全然知らないのね。
キリストは、預言者よ。神さまから預かった言葉を他の人たちに伝える人なの。でも、『三位一体』って言って、彼と神さま、天使を一つの存在として祭っているのよ」
「ふうん」
悠太は、宗教のことなど全然知らなかった。マリアと聞けば、万梨阿のことを思い出す。
彼女は今、どこにいるのか?彼女は、無事でいるだろうか?彼女の能力の存在を考えれば、彼女に危害が及ぶことは、かなり考えづらいことなのだが…。
悠太は急に思案顔になり、湯船に浸かりながら考えに耽っていた。
「…って、話している間に、だいぶ熱くなってきたわね。じゃあ、君、次はそこのマットに移りなさい」
悠太は、湯船の中で体育座りをしたまま、風呂場のすぐ脇を見た。そこには、ヨコ一メートル、タテ二.五メートルの鼠色のマットが敷かれていた。
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