第10話時よ止まれ

上官は、何か苛立たしいかのように、絶えずリーダー四人の前を行ったり来たりしている。両腕は後ろで組んだまま、時々悠太の方をちらちらと見た。彼は、深い思考に入る時、必ず前後左右に歩く癖があった。

「ぼ、僕は、分かりません。一体何のために、そんな世界を作るんですか?」

「正確には、もうすでに出来上がっているものに、仕上げをするだけだ。

 君は、まだ社会を知らず、自分がどんな道程を辿って社会人になっていくか、はっきり知らないだろう。しかし、きっといずれ気づく。

 君のお父さんもお母さんも実は、不完全で、君となんにも変らないただ一人の人間だ。そして、それはきっと東京だろうが、ニューヨークだろうが、ロンドンだろうが、エルサレムだろうが、まったく変わらない。社会と言うのは、一種の危ういバランスの上でふらふらと均衡を保って、歴史を形作ってきた。

 『何のために』と聞かれれば、『歴史的に見てみんなが幸福に生きるため』の最適解がそういう世界だから』と答えるだろう。

 例えば、君は去年一年間の日本での自殺者人口を知っているか?」

「し、知りません」

 そんなもの知っている方がおかしいだろう、と悠太は思った。

「約四万九千七〇〇人だ。

その内訳をみると、一〇代と二〇代の男女で、構成比六〇%。不思議なことに、同じ先進国の韓国でも一〇代二〇代で六三%とかなり似た数字が出ている。

 他の先進国でも、自殺者人口の増加と若年層への過度な偏りは変わらない。

 日本は、三〇年前まで年間自殺者が三万人を割っていた。それが、ここ一五年程度で、如実に数字が膨張し始め、現在の自殺者数に至っている。今後、この人数は維持こそされ減少することはないだろう。

 日本という、二〇世紀後半は世界の一大経済大国だった国が、今、こんなひどい有様になってしまった原因が分かるかい?小宮山君」

「第四次オイルショック…ですか?」

「そう、その通り。

 一五年前、中東から発生したかのオイルショックは、かつてのオイルショックとは明らかに違っていた。

それは…言うまでもないと思うが、石油の埋蔵量がその時点で三〇年を切っていると言う、ほぼ確定的事実が明らかになったことから起きた、デマと社会不安の拡張・連鎖だったのだ。

 石油が取れなければ、社会インフラに必要なエネルギーが供給されない。そうなれば、半ば強制的にでも別のエネルギー資源を使うしかない。石油、地熱、風力、原子力と並べられたうち、もっとも加工しやすくリスクが少なかったのがスターダストだった、というわけだ。

 しかし、それでも社会不安は実情よりもはるかに極端な広がり方をしてしまった。社会の、特に食と生活に恵まれているはずの先進国の若者たちが、不安に煽られるように、次々自殺していった。

 二〇世紀という時代は、今考えてもすさまじく血なまぐさい時代だった。ユダヤ人を大勢収監したドイツのアウシュヴィッツ収容所という場所では、まず、自分の未来に絶望し、精神的に参ってしまった人間から病気に侵され、死んでいった。

 強制収容所ほどではないが、今の社会は、精神的側面から考えると、まるで収容所の中にいるようなものではないか?

みんな死にゆくのを前提にしながら、ない気力をあるように振舞って生きている。その中で、スターダスト開発は、ほとんど唯一残された未来への希望、新たな経済成長の起点となるべきエネルギーだった。

しかし、それをわれわれOISDが握る。

掌握することで社会は一時的に機能しなくなるかもしれないが、相手がこちらの事情を呑み込むのも、きっと時間の問題だろう」

「だから、なんでそんなこと」

悠太は、小難しい上官の説明に少し参ってしまった。本当に聞きたいことは、もっと簡単な返事であるはずだった。

「みんなを生かすためだよ、小宮山君。われわれの目的は、それ以上でもそれ以下でもない。

 我々が社会の価値観の種類、いわゆる『物差し』と呼ばれるものを一本か二本にしてしまえば、もう誰も無駄な思考をし、手前勝手な思想で自殺したりしなくなる。

 君には、そんな社会こそ絶望的だ、という風に映るかもしれないが、むしろ逆だよ。社会の、権力の言う通りにしておけば、ちゃんと必要最低限の富を得られるんだ。そうすれば、一部の富を持つ人間たちは反感を持つだろうが、全体としてみればむしろ格差が無くなって、社会はいい方向に向かうことになる。

 きっと君は思うだろう。

『そんな社会は、正しいのだろうか?』『個人の意思とか尊厳とかは、存在しないのだろうか?』『ソビエトや東欧諸国など社会主義国は、現在ではほとんど残っていないのではないだろうか?』

 我々は、人間の、自ら志向し、非活動よりは活動を好む性質を、『活動(アニマル)への欲求(スピリッツ)』といって、内側からの衝動の一種と定義する。

それらは、人間を活動的な生き物だとは認めても、自ら考え選択していく主体的な存在とは考えない。活動したい、何事かをして自分の欲求を満たしたい、という欲求は、本能の一種として、労働に割り当てられるべきものだ。

 すべては、世界政府、ムーン・クレイドルの幹部が作成した憲法と、秩序、そして彼らの意思によって決定される。

部外者は反抗したいと考えるかもしれないが、仕方あるまい?すべての資本を持つのは、いまや世界政府のみなのだから。

 そうして、すべてが統一された社会では、もう若者が無用に死ぬことなど無い。政府のいうこと、上層部の言うことに従っておけば、万事うまくいく。活動的な少年期を過ごし、立派な青年期を経験した後、一人の堂々たる同志として世界政府に忠誠を誓い、いずれ結婚し、子を産み、老いて死んでいく。

 今まで過度な競争で資本主義社会が奪ってきた本当の人間らしさ、一定の期間で回る生命のサイクルを復活させる。

いずれ、誰も気づくものはいなくなるだろう。

自分にも、自ら考え、行動する意思があったことを。もっと主体的に人生のステージを切り開いていく内面的な力があったことを。

 自由な思想こそ一歩間違うと、自分を自殺に追い込む思想となる。だから、それを完全に摘み取り、みんなが本当の意味で生きていける社会を作るのだ。みんなが、世界政府の作る絶対的な法規と秩序の下に受け身で生活することで、真の理想郷が完成するのだ。

 そして、最後に残された問題、 二〇世紀後半に生まれた社会主義国家のほぼすべては、現在消滅したという事実…それへの対処もすでに考えられている。

 そのカギを握るのが、彼女だ」

 上官は、そう言って、あごで万梨阿を指示した。

「今までの社会主義がなぜ失敗に終わったのか?それは、ひとえに、大衆のここに原因がある」

 上官は、そう言って自分の頭を指さした。

「頭…ですか?」

「頭、正確に言えば『精神』だ。

今までの社会主義国では、全員が労働者階級となり、共産党の指示の下で計画的な生産活動を行えば、社会はうまく機能していく、はずだった。しかし、実際には競争が起きなくなり、無気力が蔓延し、権力は腐敗した。

 私たちは、過去の歴史に学んだ。それも、選民思想を持ち出して、ナチス・ドイツのように他民族を排斥することもしない。

 私たちは、世界政府を樹立する際、一つの思想体系をよりどころにする。私たちは、唯物史観を持たない。目に見えることがすべてだとは考えない。

人間の価値は、形而下にも形而上にも等しく存在する。すべての人類は、絶対的唯一の存在の下に、まず、精神的に統一されなくてはいけない」

「せいしんてきに…統一?」

 悠太には、途中から上官が何を言っているのか、ほとんど分からなかった。ただはっきり分かるのは、上官は地球をひっくり返すようなことを考えており、それを心底正しいことだ、と思い込んでいることだった。

「私たちは、形而上に置いて、絶対者を置くことに決めた。物質社会がx軸なら、新たなy軸を創り出すようなものだ。全国民、全人類の崇拝の対象となるのは、彼女だ」

 そう言って、再び万梨阿の方をちらりと見た。

「万梨阿を、神様にするんですか?」

「あいにく私は、無神論者なんだ。

この場合、『預言者』という呼び方が一番ふさわしいだろう。そして彼女を中心にした思想体系は、『宗教』と呼べる。まあ、私個人は宗教の社会的有用性は信じても、自然科学以外何も信仰するつもりはないがね。

 『ムーン・クレイドル』は、イブを中心におく宗教運動によって精神的統一を果たす。そこでは、利他の精神が説かれ、隣人愛の精神に溢れ、そして勤勉と政府への奉仕が『最後の審判』の後に自分たちを救う唯一無二の方法と説かれる。

スターダストは、神を疑ういやしい人間たちへ下された『啓示』の一部である」

「…なんだよ、それ」

 悠太は、半ば馬鹿馬鹿しくなってきた。そんな方法が、成功するわけがないという気持ちになった。

「それにしても、随分幼い預言者だとは思わないか?しかし、彼女の持つ力だけは、絶対だ。我々人間の理解の外に存在する。

 だから、今話したことも、きっと自分の理解の外にあるのだろう、と納得してくれるのじゃないか、小宮山君?

 私は、君を排斥したり、追い出したりしようとはしない。むしろ、彼女と意思疎通が自由にできる数少ない人間として、君の協力を必要としている。

 私たちと一緒に、人類に新たな英知をもたらしてくれないか、小宮山君?」

 上官は、そこでようやく、悠太の方に手を差し伸べてきた。

「上官殿、一つ、聞いてもいいですか?」

「なんだい?」

「この研究所で、僕を撃ったのはあなたですか?」

「それは違う!」

 上官は、今までのうっとりとするような陶酔の表情から一変して、怒りを露わにした険しい顔つきになった。

「私は、機密事項が漏れたからと言って、何の断りも無く部下を見捨てるような人間ではない!

あの事件は、公にはならなかったが、私は独自に聞き込み調査を続けてきた。あの日、私は犯人を捕まえ損ねてしまったんだ。しかし、OISD関係者は、みなあの事件への関与の証拠が皆無なんだ!

 そうなれば、君の命をねらうのは、我々とは別の組織、ということになる。そのような組織がもし仮に月面に存在していたとしたら、君の身の安全に責任のある私としては、なおのこと地球に戻ってもらう必要がある。そういうことだ」

「上官殿」

「なんだ」

「ふざけないでください」

 悠太は、自分の内部にたぎる怒りを抑えるように、ゆっくりと息を吐いた。

 人類に英知をもたらす? すべての精神を支配する?

 悠太には、その全てがバカバカしくて仕方なかった。そんな計画が成功するわけがない。万梨阿が、そんな彼らに黙って手を貸すわけがない。

 なぜなら、そんなことをしても誰ひとり幸せになれない。一番大事な万梨阿の意見を、この人たちは何一つ聞いていない。

「どうしても協力できないのか?」

「はい。何といったらいいか分かりませんけど、アホらしいと思います」

 悠太は、ありったけの勇気の言葉を、込み上げる怒りで吐き出すように放った。

 上官は、一瞬、失望と言うか、残念だと言いたげな顔をして、ゆっくり首を横に振った。そして、二秒ほど間を空けて、言葉を続けた、

「では小宮山君、残念だが私は君を拘束しなくてはいけない」

「無理やり地球に送り返すんですか?」

「ああ、それももちろんする。しかし、君の内面を少々矯正する」

「きょうせい?」

「根性を叩き直して、正常な状態に近づけておくんだよ」

 上官はそう言うと、上着の右ポケットの中に手を突っ込んだ。そこをごそごそと触って、何か黒光りする謎の機器を取り出した。バリカンにも似たそれは、悠太にとっては初めて見る物体だった。

 天井に取り付けられた裸の電灯に照らされて黒く光るそれを頭上に挙げながら、上官は話し出した。

「小宮山君、君はオーウェルの『一九八四年』という小説を知っているか?」

「知りません」

「全体主義の恐怖を描いた小説として知られているんだが、日本では比較的知名度が低い作品なんだ。そのラストシーン近くに、主人公がビッグブラザー党の党員に拷問を受けるシーンがある。その時使われた架空の拷問道具は、はっきりとは描かれていないんだが、もしあるんだとすれば、こんな形の道具の延長上にあるんじゃないかと思っている」

「何を…はっ!?」

 悠太は、上官が黒い物体を見上げている姿を見ていたせいで気づかなかった。

背後に、さっきまで万梨阿を背負っていたはずの身長一八〇センチ以上ある巨躯のリーダーが回り込んでいることに。

 彼は、いきなり悠太の両腕に手を回すと、そのまま両肘を完全にホールドし、そのまま腕を悠太のうなじに当てた。そして、悠太の腕力の数倍の力でうなじを抑え込んだ。

「うっ…うっ…」

 悠太は、以前体格の良い同級生にふざけてブラジリアン柔術の技を掛けられたことがあった。絞め技、固め技が基本のブラジリアン柔術では、的確に相手の弱点を抑え込む技が多い。

 この技は、気管こそ塞がれないモノの、後ろから強い力で押さえつけられれば、自分の首の骨が折れてしまうのではないかと心配になるような恐怖を感じさせた。

 以前技を掛けてきた同級生とはまるで比較にならないような強い力が、悠太の首筋に掛けられた。不意に脊髄を損傷させられるのではないか、という本能的な恐怖が悠太を襲った。

「どうだい、全日本レスリング高校の部チャンピオンに本格的な技を掛けられた気分は?」

「は…はあ、はあ…」

 悠太は、、気管を塞がれたわけでもないのに、ほとんど声が出なかった。背中の骨がみしみしと押し出されて、気管をふさいでしまっているようだった。

「矯正と言っても、君が二、三の質問に『健全な』解答を示してくれるだけで十分だ。君は、すぐに開放されるだろう。言っておくが、君に選択権は無い。質問の内容も解答の権利も、すべてこちらが掌握している。なんなら、君の健康及び人権すら、握っていると言って差し支えない。そのうえで言うが、解答はすべて『君の自由意思から出たもの』という前提だ。

 まず、第一に、君が今後支持する社会組織は、月面のなんという組織だ」

 悠太は、苦しさを感じながらも、模範解答を直ぐに思いついた。しかし、頭で考えた解答は、腹の底から沸き起こる感情に押し流された。

「今の日本の様な社会です」

 上官は、悠太の解答を真顔で聞いた。彼は、眉間にしわを寄せることもしなかった。一言、事務的な言葉を放った。

「五〇だ」

 その瞬間、悠太のうなじを拘束する手が一瞬、離れた。そして、すぐに金属質のひやりとした感触がうなじに走った。

 悠太は、それが、さっき上官が見せた機器であることに気付かないまま、巨漢にスイッチを入れられた。

 途端、世界が振動を起こした。正確には、振動を起こしているのは世界の方ではなく、悠太の方だった。

 まるで脊椎に直接電流を流し込んだような、身体の血が沸騰したかのような微振動が悠太の全身に走った。悠太は、まるで痙攣を起こしたかのようにビクビクと五秒近くも振動を続けた。

三秒たつ頃から、自分の身体に起きている不可思議な痙攣運動で、脳と内臓の一部が破壊されてしまうのではないかという恐怖で、心はいっぱいになった。

 それが終わると、足に力が入らなくなっていた。まるで自分が軟体動物になったかのように悠太は、リーダーの腕に無力にぶら下がった。

 項垂れて俯いている悠太に向かって、上官は言った。

「どうだ?痺れるだろう?

 これは、種も仕掛けも一切ない。首筋に押し当てたこの機械には、メモリが一から一〇〇まである。その強さに応じて、君の神経系に直接電気を流し込むんだ。

手などの末端組織なら、一時的な脱力感で済むのだが、神経系が集中している部分に押し当てると、今のようになる」

「う…」

「さあ、では第二の質問だ。

彼女、『イブ』は明日から、君にとってどのような存在になる?ニュアンスさえ伝われば、ざっくりとした俗名でも構わない」

「と、友だちです。大事な、僕を支えてくれる、僕が守らなくちゃいけない、友だちです」

「七〇」

  今度は、視界が上下に揺れすぎて、まともな思考が出来なかった。

身体じゅうがジェットコースターの急降下と急上昇を一度に経験して、ビリビリと二つに引き裂かれてしまったかのようだった。首筋にはアイロンを押し当てたかのような灼熱が迸った。身体は何十回もビクンビクンと揺れ、巨漢の腕の中で悠太はまるでけん玉の玉のように揺れていた。

 それが終わると、やっと自分の考えが纏められるような思考が戻ってきた。そして、頭の奥が真っ白になってしまったようで、頭の一部が完全にすっぽり抜け落ちたようになっていた。

 上官は、しばらくまた行ったり来たりを繰り返した。悠太が、解答を反射的にするのでなく、よく考えて答えられるだけの猶予を与えているようだった。

 上官自身も、これ以上電圧を上げるのは、気が引けるようだった。まるで悠太をなだめすかし、言うことを聞くようにと仕向ける口ぶりで、ゆっくりと口を開いた。

「君は、まだ若い。人間の弱さとか醜さとか、理屈の上でしか、知らないんだ。

 人間はね、歳を取るごとに賢くなると思うかい?そんなことはない。賢くなれるのはほんの一握りで、君くらいの年齢が一番思慮深く、賢いものだ。

 人間は、歳を取るごとに、複雑なものを複雑なまま受け取ろうとする努力をしなくなる。複雑な現実を、自分の都合のいいよう、生きやすいよう勝手に単純化して、自惚れの枠にはまっていく。彼らには、ものごとを真摯に考えるだけの時間も、忍耐力も、勇気も、十分には備わっていないんだ。

 その結果、目に見えるものしか信じなくなる。金、名誉、信頼、数字。現状を正しく推し量れても、未来にまで思考を伸ばすことは出来なくなる。

それは極端に言ってしまえば、精神的なよりどころが何もないからなんだ。苦しい日々の生活に追われ、生活を支えていく中で、どんどん泥のようなエゴイズムに汚れていく。

 私たちは、もうそんな社会はこりごりなんだよ。目の前のことは大事だが、目に見えないことにこそ真理は隠れている。その真理は大抵、青年期、悩み苦しむ中で一筋の光としてあらわれ、そしてそのまま、一生見えなくなるものだ。

 私たちは、ムーン・クレイドルは、そんな迷える人々をまず、精神的に救済するためにあるんだ。人生のあらゆる局面を乗り切るために必要な、心の光、『信じる気持ち』をすべての人に植え付ける。

小宮山君、君の助けが必要なんだ。

 それでは、最後の質問だ。君がひれ伏し、心のよりどころにするのは、誰の教えだ?個人名でも組織名でも構わない」

「…じ、自分です」

「…は?」

「…ぼ、僕は、自分を支えに生きていく!

 何が社会のためだ!人生の真理だ!

 僕は、誰にも従わない!あなた達にも、万梨阿にも!父さんにも!

 僕は、僕自身の信じる気持ちを支えに生きていく!自分が尽くしたいと思うことに尽くし、自分がしたいと思うことをやっていく!

 僕たちは、それぞれ大切な価値を持っている!それは、システムや金の力なんかで押さえつけられるものじゃない!」

「…そうか、小宮山君。君は合格だ。すばらしい」

 上官は、さっきの驚きの声を全く打ち消すようにっこりと笑い、命じた。

「捻りつぶそう。一〇〇だ」

「ユウタ!」

 急に、第三者の声が二人の間に割って入った。巨漢のリーダーに放り出され、地面に寝そべっている万梨阿だった。彼女は、動けない状態を引きずりながら、声を絞り出すようにいった。

「…言葉を、魔法の言葉を」

「まほうのことば?」

「入口であなたに伝えた、私の大切な言葉を」

 悠太の頭に、さっき見た研究室の光景が浮かんだのと、リーダーが首筋に再び電流機器を押し当てたのはほぼ同時だった。

「だまらせろ!動きを封じるんだ!」

 上官が叫ぶと、上官の横にいた河上をはじめとするリーダーたちが、万梨阿の方に駆けだした。

 巨漢が、電流機のレバーに親指を掛ける。一気に一〇〇まで押し上げる。その一瞬間前、悠太は叫び声を挙げた。

『時よ止まれ、貴女はとても美しいから』


 一瞬、すべてが静まり返った。

 直前に上官が叫んだ声の残響も、巨漢のリーダーの締め付ける力も、すべてがなくなった。

 悠太は、急にすべてから解放され、リーダーの腕を滑り落ちて膝をついた。

「ハア…ハア…」

 未だに、心臓のドクンドクンと言う高鳴りだけが、自分の胸から響いてくる。呼吸はいつの間にか浅く、早くなっていた。

 悠太は、目の前の景色を見た。

 まるで、自分以外がすべて背景のようになってしまったようだった。

 上官は、不意を突いた万梨阿の行動に気を取られて、右の方を向いている。河上ともう一人の青年リーダーは、手に悠太に使ったのと同じ電流機器を持って、彼女の方へ走っている。

 悠太は、ちらりと背後を見た。

「お、おわっ!!」

 悠太は、思わず悲鳴を上げた。

 まるでヒグマのように大柄な、身長一九〇センチはあろうかという巨漢が自分を締め付けていた。右手には、悠太のうなじに押し当てていた電流機器が握られ、今、まさにスイッチを〇から一〇〇に押し上げようとしていた。

 改めて見ると、彼の眉間に寄った深い皺や鋭い眼光、伸びかかった髭は、野獣のようだった。こんな大男に今まで自分が拘束されていたという事実に、悠太は改めて震え上がった。

 彼らは皆、時が止まったかのように静止していた。瞬き一つしない。

 悠太は、改めて大男を見る。

「…!?」

 よく見れば、ほんのわずかだが、男は動いていた。まるで、芋虫が這っていくようなスピードで、スイッチを持つ右手は一〇〇のメモリへとスライドしていた。

 上官たちも、微弱にではあるが、足が前に出かけている。しかし、こんなスピードで進行すれば、目標に到達するのに二時間近くかかってしまう。

 彼らは、時を止められたわけではなかった。彼らがゆっくりと動くようになったのか、悠太の方が急速に加速しているのか、そのどちらかだった。

「三秒…」

 万梨阿が、静寂の支配する世界で、悠太に語りかけた。

「えっ…」

「三秒、経った。ユウタ、早く逃げなきゃ、時が戻っちゃう」

「そ、そうなのか」

 悠太には、この現象を引き起こす原因も理由も一向に分からなかった。しかし、万梨阿は何事か理解しているようだった。

 悠太は、まっすぐ万梨阿の方へ走っていった。そして、地面に放り出されている彼女の本体に、そっと手を掛けた。

「…おもっ」

 悠太は、思わず本音を口にしそうになって、慌てて口を閉ざした。万梨阿の本体の目が、じろりとこちらを向く。

「しろい能力だな、これは」

 慌てて言葉を変えた。

「ユウタ、早く」

 万梨阿は、ひたすら悠太を急かした。悠太は、彼女の言葉に従い、彼女の背中と膝に手を掛けて、お姫様抱っこする形で踏ん張った。

「ふっ…ん!」

 思わず声が出そうになって、また口を噤んだ。万梨阿の顔がまた一段と曇っていく。悠太は、今度はその視線に気づかないふりをした。

 悠太は、動けない万梨阿を背負うと、よろよろとした足取りで歩き出した。ふらふらと重心がぶれて、身体は不安定に揺れた。

 その時だった。

 どこか部屋の高いところから、カアアアンという金属を打ち鳴らすような音がした。

 その瞬間、今まで薄暗かった部屋に、元の明かりが戻った。耳に入ってきたのは、上官の叫び声だった。

「―封じるんだ!」

 最後の音が部屋中に木霊した。

 そして、悠太の身体が、いきなり前につんのめった。電車の急停車のように、地面に足を付けて走っていたはずなのに、後ろから見えない力に押されたかのように前のめりに倒れ込んだ。

 悠太は、慌てて空中で身体を横に向けて、万梨阿が地面に直接にぶつからないよう、彼女と地面の間に入り込んだ。

「ぐえっ!」

 今度こそ、紛れもないうめき声が口から飛び出した。しかし万梨阿も地面に投げ出され、それどころではない、という顔をしている。

「いてててて…」

 悠太は、肩の辺りをさすりながら上体を起こした。何が起こったのか、未だに理解しかねていた。

 野獣のような体のリーダーから、声が漏れる。

「なんだこいつ、今、ものすごいスピードで腕の中を抜けたぞ」

「なんだ?急に、身体が残像だけになった…」

 もう一人のリーダーが、口を開いた。

 悠太は、とっさに、自分たちはたった今、超高速で動いていたようだと考えた。

 さっき起きたことに考えを巡らせたかったが、今の状況ではそれは後回しということになる。

「なるほど…。面倒なことになった」

 上官は、驚いたようすはなかった。さっきまでの思考に没頭する顔を、更に曇らせた。

「包囲網だ、河上、上条、石井、有賀、それぞれ四方に周り込め」

 上官は、ほんのわずかな思考で新たな指示を出した。四人のリーダーたちは、ただちに悠太を取り囲むよう四方向に散らばっていく。

 悠太は、万梨阿の手を握ったまま、なすすべもなくひざまづいていた。

 ―くっそう、どうすればいいんだ?

 悠太がおびき寄せられたのは、タテヨコ一〇〇メートルの部屋の中央だった。とてもここからでは、元来た入口にまではたどり着けなかった。自分だけならまだしも、今、悠太は万梨阿を背負っている。

 なす術も無く黙り込んでいると、包囲網を組んだリーダー達は徐々に悠太の方に近づき始めた。

「諦めるんだ、小宮山君。イブの能力が使えたとしても、ここからは抜け出せない。さあ、分別を付ける時だ」

 上官は、そう言いつつ、自ら悠太の方に歩き出してくる。右手に持った電流機の電圧が、最大出力になっていることに気付く。

 彼らは、じりじりと距離を詰めてくる。ユウタと万梨阿まで、あと六メートル。

「ユウタ、ユウタ」

 万梨阿が、悠太の耳元で囁いた。

「もう一度、時間を止めて。わたしが抜け道を、知ってるから」

「ほ、ほんとうか?」

「うんうん」

 万梨阿は、かすれそうな声で囁いた。

 上官たちは、じりじりとさらに距離を詰めた。

 悠太たちまで、あと三メートル。

「今だ!抑えろ!」

 上官が叫んだ。それと同時に、リーダーたちが悠太たちに跳びかかった。

 悠太は、それとほぼ同時に、呪文を叫んだ。

「『時よ止まれ、貴女はとても美しいから』」

 その瞬間、再び時が止まる。世界は炭が掛かったかのように薄暗くなった。

「ユウタ、ここ」

 万梨阿は、悠太の斜め右の地面を指さす。よく見れば、地面のコンクリートがそこだけ新しく塗り固められている。

「思い切り、蹴って」

 万梨阿が言った。

 悠太は、上官たちが今にも跳びかかると言う様に恐怖しながら、右足を地面に向けてガンガンと何度も下ろした。

 しかし、地面はみしみしと言うだけで、まったく壊れる気配はない。

「二、三…」

 万梨阿が、再び静止時間を数えはじめた。

「ユウタ、どいて」

 万梨阿は、そういうと、地面の近くの悠太をどけた。そして、腕を地面に向けた。

「むー…」

 眉間にしわを寄せながら、声を上げだした。

すると、床の一部がぐにゃりとねじれ始めた。小林のフィギアがそうであったように、床の一部はくしゃくしゃにねじれた挙句、コンクリートの塊となってしまった。地面に、さらに地下に続く穴がぽっかりと開いた。

 悠太は、もう迷わなかった。

 五秒経過。あと二秒しかなかった。

 悠太は、万梨阿を抱えると、両足に渾身の力を込めて、思い切り直径一メートルの穴に走って向かった。そして、その穴の先に何も見えないことなど一切気にせず、万梨阿を抱えたまま真下に飛び降りた。

 悠太の視界からさっきのコンクリートの白い部屋が消えたのと、部屋の上空の方からカアアアアンという音が聞こえたのは、まったく同時のことだった。

 

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