第9話ムーン・クレイドル

上官は、部屋の真ん中で、腕を後ろに組んで仁王立ちしていた。その左右にいるのは、同じく頭脳明晰だが、上官とは正反対の性格を持つ男、河上。その他、リーダー格の人間が上官を中心にして立っている。

 悠太は、反射的に背筋がぞくぞくっとした。悠太にとっては、彼らは「嫌な人たち」で一括りされていた。

 左側にたつ身長一八〇センチくらいある、まるでヒグマの様に筋骨隆々の青年の肩の上に、白い何者かが担がれている。

 悠太は一目で分かった。万梨阿だ。何らかの手段で意識を喪失した万梨阿が、レスラー体格のリーダーの肩に担がれている。

「やっと君とゆっくり話ができるな、小宮山君」

 上官は、遠くからでもはっきり聞き取れる声でそう言った。

「もっと近くに来てくれないか?ここからでは、お互いの声が聞き取りづらいし、いやに大きな声を出さなくてはいけない」

「は、はい…」

 悠太は、背筋に嫌な予感がぞくぞく走るにも関わらず、ゆっくりとそちらに歩き出した。悠太は、上官の手前、五メートルのところまで、歩いて行った。

「最初に、どうして君がここに招かれたのか、知りたいかい?」

「招かれた?わざと僕を、万梨阿をここに連れてきたんですか?」

「それについては、『Yes』と答えるほかない。

君を救済したい、という私の一存で起こした行動だったが、過程の段階で君とこの子の人権を侵害するような行為に出てしまった。

その点については、大いに申し訳ないと思っているよ。それでも、こうでもしなければ、君に伝えたいことの真意をよくよく考えてもらえるきっかけは、なかなか作れそうになかったんだ。

 単刀直入に言おう、君は少年編成隊から外れてもらう。君ひとりだけ、三日後の定期便に乗って、地球に戻ってもらう」

「…はい?」

 悠太は、思わず聞き返した。

送り返される原因を探す鵜前に、なぜそのような事態になったのかが全く理解できなかった。彼がいかな経緯を辿って、そのような判断に下ったのか、さっぱり理解できなかった。

「君は、多くを知りすぎた。ここで行われている研究の本質のほんのわずかでも、君は知ってしまった。

 しかし、それだけで君を罷免するほど、自分が器の小さい人間である、という自覚は無い。君を地球に送り返すのは、君が罪を犯して、それを咎めているからではない。君を今後の状況から救うためなんだ。

 小宮山君、安心しろ。私は味方だ。君を無事、健全な状態にして、地球に戻らせる。傷一つ、負わせはしない。

 私は、これから、自分の権限の許す範囲で、君をここから送り出す理由を説明する。それが終わった後にはきっと、君は地球のご両親の元に戻ってもらう」

「僕を救う?上官殿、何をおっしゃっているのか、分かりません」

「それを分からせるのが、私の義務なのだ。

 まず、結論から言って、順に説明していこう。

 君は、この少女…OISDでは、イブと呼んでいる、彼女とつながりがある限り、上層部から身を狙われ続ける。

彼女は、月面の活動において、要となる存在なのだ。同時に、彼女の存在自体が、国際的な人権侵害であり、不確定要素の塊として、いつも私たちの関心の中心に位置している。

 私たちは、彼女の人権を守って人類全体の発展を停滞させるよりも、むしろ彼女たった一人の犠牲で文明全体を発展させる道を選んだ。その選択を明るみに出すのは、今ではない、月面のスターダスト採集が軌道に乗り、もっと地球との交通網が発達した後にすることにしたんだ。

 君もうすうす気づいているだろうが、もうじき地球のエネルギー自給の七〇%近くが、スターダストによる火力発電によって賄われるようになる。そうすれば、この月面は地球にとっての頸動脈、世界経済の柱となる。

 経済は、国際社会と言う『身体』にとって『血液』に似ている。

絶えず資本を流動させ、富を適所に適時、適量配分しなくては、国際社会はあっという間に死に至るだろう。その血流の要になるということは、つまり、国際社会の中心に立つ、誰よりも強い権力を持つことが可能になる、ということだ。

 月は、今後この一個の惑星は、人類を支配する新たな世界政府となる。

 いつまでも横並びで、常任理事国の拒否権であっという間に機能不全に陥る国際連合などとは違う。圧倒的な経済力で、すべての国家、人種、宗教を等しく無に帰す、一大帝国とも言える政府を樹立する。

 それが上、正確にはOISD内で進行している新たな創世記計画だ。その先に、我々の、いや私の目指す『道』の実現がある。

すべての人類は、新たな世界政府の前に、全体主義的支配を受け、ついに統一されることになるだろう」

「…何を、言っているんですか?」

 悠太は、上官の言っていることすべてを理解することは到底できなかった。国際社会とか常任理事国とか全体主義とか、聞いたことしかない言葉がいっぱい出てきたからだ。

 しかしこれだけは分かる。

 上官は、OISDという悠太たちを統率する月面組織は、地球を支配する気だ。そして、それを何か素晴らしいことと勘違いしている。

「違う、それは違います」

「何がどう違うのか、説明してくれ」

「その…なんというか、そんな恐怖の帝国みたいなものを作ったって、長続きするわけがない。僕は、みんなが、生きたいように生きられる社会が一番だと思う」

 それは、悠太にとって本音の言葉だった。

この月面で自由を奪われる生活を続けるうちに、自分の内側にある大事なはずの感情まで、死んでしまうのではないかとひそかに恐れていた。

 上官は、前に進み出て左右をうろうろし始めた。

「小宮山君、実は以前も私はそう思っていた。みんながみんな、生きたいように生きられる。自己実現。

無理もない、君はまだ中学生だ。大学生の私よりもうんと若く、社会の実態が見えていない。演繹法的な考え方に陥るのも、仕方ないことだ。

 その考えには大きな落とし穴がある。

君にはまだ遠い未来かもしれないが、日本と言う先進国においてさえ、やりたいことをやる、つまり自分で決めた専門を持っている人間はほとんどいない。皆、金のため、言い換えれば、日本経済に巻き込まれ、社会的な振り分けと淘汰、競争に毎日遭っている。日本と言う先進国ですらそうならば、発展途上国、貧困国のように、価値観のものさしや多様性の乏しい社会はなおさらだ。みな、『金の力』、経済のシステムによって、自分の意思とは違ったあり方を社会に求められている。

 第二に、君の考えでは、生まれつき才能に恵まれた者、中流階級以上の家庭に生まれた者、運と偶然に恵まれた者しか、模範的な生き方を出来ないことになる。

 多くの大人はそれを知っていて、もともと自分の価値観に遭った仕事を見つけるよりは、与えられた環境の中で自発的に『やりたい』と思えるもの、自分がやれるものを見つけることが賢明だと考える。

 『目的』を自分なりに作り出せば、『手段』となる職種はいくらでもある、というのも本質的には似ているな。

自分に一から十までの選択肢があるのではなく、社会から与えられた二、三の選択肢の中から自分がマシだと思うものをチョイスしよう、という考え方だ。

 私は、今の社会においては、どっちもアリなのだと思っている。最初から素晴らしい選択肢に巡り合えても会えなくてもどっちでもいい、人間の幸福はそんな少ないモノさしだけでは測りきれないものだと思う。

 ここで、問いを変更しよう。

 やりたいことがやれない、思うようにいかない、社会が決めた『枠』のようなものに無理やりはめ込まれる。

そんな社会では、一体どんなことが必要なのだろうね?」

 上官は、そういうと、悠太をまるで睨むかのようにじろりと見つめた。その目線は、悠太と言う人間の値打ちを見定めようとしているかのようだった。

「それは、何かを信じること、『大切なものを持つ』ことですか?」

「そうだ、その通り。私もそう思う。

 答えは、『何でもいい』。白紙にしなければ点数の貰えるペーパーテストと同じだ。

初めから、自己実現とか、成り上がるとか、そんな無駄な思考に頭とエネルギーを費やすくらいならば、最初から社会から期待される生き方をすることが人生の真実だとはっきり示してやればいい。

その上で、人生にはもっと大切なものがある、それをみんなで持とう、という新たな座標軸を示してやるんだ。

無駄な努力などシステムの前では無意味だ、とみんなが諦め、社会の求める生き方をみんながすれば、もう誰も自己実現だの自分探しだの、無駄なことを考えず、目の前のことに集中して生きられる」

「そ、そんなの、嘘っぱちだ!あなたたちが、自分たちの我がままを通すための、ただのエゴだ!」

 悠太は、思わず叫んだ。上官相手でも、引いてはならない気がした。

「まだ分からないのか、小宮山君?

 君の考えでは、一部の者しか救えない!強靭な意志を持つもの、信心深く打たれ強い者、芸術や学術に対して感性の敏感な生命のうち、運と偶然に恵まれたもの、社会的に受け入れられた存在しか幸せになれない!

 じゃあ、そもそも貧困国に生まれ、何のチャンスもなかったら?自分の身辺の用事で手一杯で、とても自分のことに手が回らなかったら?

意思が弱く臆病で、自分と向き合う勇気もなかったら?怠け者で、出来ればそんな言葉とは無縁で暮らしたいと思っていたら?難病に苦しめられ、生まれつきベッドの上で過ごさなくてはいけなかったら?

 君は、君を含むごく一部の『強い』人間だけを救って、他の人間を見捨てている!社会は、そんな強者だけのためにあるのではないのだ!

 我々は、圧倒的な論理の力で、皆が横並びの社会を作る。

喜びや優越感が生まれる前に、すべてを摘み取ってしまう社会を作る。絶望した若者が自ら命を絶つ前に、そもそも絶望しようのない社会を作る。

 もういい加減悟ったらどうだ?人間は神ではない!

皆が幸せになれる社会など存在しないのだ!それなら、最初から喜びも悲しみも無いモノクロの社会を創り出す!

そうして人類はようやく、心の安住の場所を見いだせるんだ!

それがここで計画されている完全なる実存主義社会『ムーン・クレイドル』の実現だ!!」

 悠太は、話を聞きながらぶるぶると震えていた。

 上官の話を全て理解できる訳ではなかった。しかし彼らの考えは、人間を知り尽くしているゆえに考えだされたものであるようだった。

そしてその恐ろしいディストピア社会実現の鍵は目の前の幼い少女が握っているのだ。

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