第6話理性と感情
上官は、さっきからこめかみに右手を当てて、自室の机の前で俯いていた。
自分の内側から、自分を苛む声が聞こえてくる。
何も、今回に限ったことではない。よくあることなのだ。その声は、大抵夜、自室で一人で過ごしている時、不意に心の隙間に忍び寄ってきた。その力は強靭で、あっという間に心は暗黒色に染まり、自分や他人を憎悪する感情で一杯になった。
そう言う時、彼はどのように対処すればいいのか知っていた。
その強迫観念がなりを潜めるまで、じっと待っているのだ。すると、いつの間にか自己否定観念は弱まり、徐々に元の感情が戻ってきた。
いつからそんな感情に感染したのか分からない。しかし、その感情は、「道」を信望し、確固たる論理の力で頭を鍛えた彼ですら、どうにも対処のしようがないものだった。
その日も、いつものように鉱石採集から帰ってきて、すぐさま自室に籠もる。そのまま机に座り、報告書の作成に当たった。古風にも、紙での書類作成を命じられているせいで、未だにボールペンとは縁が切れない。
そうして書類を無心で書いている途中―不意に、昔の光景がフラッシュバックしてきた。
幼い彼に、古風な漢文の暗唱を命じる厳しい表情の父親。その父親が、顔を真っ赤にして彼の左ほおを打った。痛みを感じる前に、敵意などなく、自分の正当性を主張しただけの自分が、打たれたことへの衝撃が激しく沸き起こる。
近くで、四歳離れた姉が、めそめそ泣いている。彼も、父親にやられたのだ。
その記憶を思い出す度、彼の胸には激しい憎悪の念が沸き起こった。
あの男さえ、あの男さえいなければ、自分はこんな忍びない性格の人間にならずに済んだのに。
あの男がいたせいで、あの男のせいで、自分は人生の多くの時間とエネルギーを浪費した。
彼を襲う発作の前兆には、いつもこの記憶が蘇るのだ。
自分の価値観を信じて疑わず、それを自分や姉にまで敷衍して、押し付けようとした新興宗教家の父。自分の果たせなかった宗教的事業を息子に継がせ、自分の事業の完成を目指した男。
その男の歪んだ愛情は、彼自身も祖父から同じ仕打ちを受け、人生を束縛された恨みから来ていた。
彼は、何度も幼い上官に説いた。
その新興宗教は、小さいながらも信心深い一部の信者たちにしっかりと支えられている。そして、信者の中には東京に本社を置く大企業の経営者が何人もいた。
彼らの支援を受ける以上、事業の拡大は確実である。その司祭を勤める自分にも、一生分の生活の保障と安定した社会的地位が与えられる。
それを説きながら、父親は、新興宗教に残された事業拡大への課題と、その社会的有用性を得々と説いて聞かせた。
身の回りの同級生の誰よりも早く読み書きを覚え、小学校に上がるころには小学校高学年までの算数を全て勉強し終えていた上官は、彼の話の盲点をはっきりと見抜いていた。
新興宗教の司祭になると言うことは、その宗教教義を自分の人生の基盤に置いて生きていかなくてはならないことになる。それなのに、その教義は、幼い彼にはあまりにも狂信的すぎ、かつ日常を強く束縛するものだった。
そんな教義に従い、何年も時間を経た未来の自分は、ほぼ百にちかい確率で、目の前の愚かな男のようになっている。
自分の人生の責任を死んだ祖父に転嫁させ、彼の悪態を突きながらも毎日飽きもせず人前で、浮世離れした戒律を教徒に説く。そして、最後にはものと金に目が眩んで、同じ過ちを自分たちの子供にまでしようとしている。
性質が悪いのは、父親が、祖父の行いをはっきり誤りだと認めていながら、自分が同じことをしているのに気が付いていないことだった。
自分の父親を強烈に憎悪しながら、宗教の教義には愚かしいほど妄信的だった父親。幼い上官は、彼を見る度、腹の底で真っ黒いものが渦を巻くような感覚に捕らわれた。
そしてその憎悪は、彼が二十歳を超えた今でも、心の底から不意に湧き起って、心に暗黒を巣食わせるのだ。
上官は、ぐるぐると脳内をめぐる心象風景の中で、父親を憎んだ。そして、はっきりと逃げ出さなかった自分を、何十倍も憎んだ。最後の最後まで見守るばかりで助けてくれなかった母親を憎んだ。
上官は、激しく憎悪の念慮に苛まれると、楽になれるのならいっそ死んでしまいたいと思った。すると、そうした感情で一杯になっている自分を眺めるもう一人の自分がそばに立って、自分の憎悪の感情の激しさに、ぞっとしているのだ。
「いっそ、消えてしまえ。お前のように、父親から逃げ出した人間は。
お前の様なポンコツを必要としてくれる人なんて、いるわけないだろ」
そばに立った上官が―彼自身を蔑んでいった。上官は、耳に手を当て、必死にその声を聞くまいとした。
「ほら、手が止まってる。そんなんじゃ、これから先、生き残ってくのは無理だ。最後の最後まで、頑張り抜いて、成果を出せる人間じゃなきゃ、すぐ使い捨てられる」
「……」
「いいのか?そんな風にぼおっとして。普通の人間なら、こんなところで躓かない。すぐに書類を書き終えて、次の課題にいくだろう」
「……」
「いいのか?早くやらなきゃ、まだ工学の勉強もやってないじゃないか。そんなんで本当に大丈夫なのか?」
「……」
「お前がどんな感情のせいで動けないのか知らないけど、はっきり言って、もう付き合いきれない。どうして筆が運ばない?
動け!動け!この!ほら、さっさと、動けったら!!」
「だまれれれれええええ!」
上官は、叫び声を挙げると手に持っていたボールペンを思い切り、そばに立つもう一人の自分に突き立てた。
そして、一瞬、世界が反転して見えた。
気が付けば、自分の脇腹を捲って、ボールペンを突き立てていた。黒のインクの先に、血のにじむ跡が見える。
「う、うわああああああああああああああああああああああ」
上官は、椅子から転げ落ちると、床に転がって身体をジタバタさせた。
部屋には、誰も入ってこない。
上官は、しばらく肩を上下させて荒い呼吸をしていた。
呼吸が落ち着くまで、しばらく時間がかかった。今、もし誰かがこの部屋に入ってこれば、怒鳴り散らして追い返しただろう。
そんな自分の器の小ささに、余計に腹が立つ。
上官は、それでも痛みのおかげで自責の念慮に苛まれ続けずに済んだようだった。床から何とか立ち上がり、椅子に身体を預けようとした。
その時、誰かが背後に現れた。
上官は、すぐ振り向く。
美しい女性が、亡霊のように立っていた。
歳は、上官より五歳くらい上だろうか。白く化粧を施した顔にアイラインと唇だけが、やけに強調されている。黒いドレスを纏い、むき出しの足は素足だった。
上官は、その女を見た瞬間、もう勘弁してくれ、耐えられない、と思った。
しかしその女に甘えの言葉はかけない。口を突いて出た言葉は、彼の思っている以上に刺々しく、荒々しかった。
「今さら…今さら、なにしに来た!
お前のような恥さらしの女、もううちの家紋の下をくぐらせることは許さない! お前のような、お前のような、薄汚い売春婦はな!!」
上官は、隣の部屋に聞こえるのも構わず、怒鳴り散らした。実際、彼の感情は、自分の弱さを責めさいなむ声と、自分の人生を狂わせた父親への憎悪で限界だった。
自分の道を行き、水商売の道に堕ちた姉のことも、今の彼にとっては自分の今の境遇を作り出した憎悪の大きな原因の一つである。
そして、父親が上官を打ったあの日、姉は自分を庇おうとして先に打たれたことを、上官は認めたくなかった。母親ですら見て見ぬふりをし、すべて父親の考えるままに動かされていたあの日、唯一の味方は姉だった。
しかし姉も、大学入学を機に家を出て行った。
残っていたのは、強権的な父親の説教を毎日聞かされながら、自分の道を必死に切り開こうと戦い抜いた、ボロボロの三年間だった。
ある時は、父親に毎日、強制的に聞かされる説教の話が辛くてつらくてたまらず、それでも逆らうことは出来なくて、近所のスーパーに駆け込んだことがある。そこで、なけなしの金を叩いてお菓子コーナーの一角の菓子を全て買い占めた。そして、それをたった一晩で食い尽くしてしまい、腹痛でしばらく寝込んでいた。
またある時は、家に帰るのが嫌で嫌でたまらず、どうすればそこから逃げられるか考え尽くした結果、ある朝、家を出たまま学校に一報を入れ、電車に乗ってそのまま終点を乗り継いで、関門海峡まで行った。高校生に宿賃など無いから、山口県の田舎の漁村をふらふらと放浪し、警察に職務質問されたところを全力ダッシュで逃げ切り、再び始発に飛び乗ったこともある。
最後には、新興宗教の教義から自分を守るため、「道」の概念を古い思想書からひっぱり出してきて、それに必死にしがみついた。
あの時、彼女が家にいてくれたら。あの時、姉が自分を守って、一緒に東京に連れて行ってくれたら。おそらく、自分の持病はこんなにも劇化せず、上官は少しは人と打ち解けて心を通わすことができただろう。
しかし、姉はたった一言の言葉を言って、家を出て行った。そして、二度と戻ってこなかった。
上官が、彼女の姿を次に見出したのは、彼が大学院生になって一年目の夏だった。
上官は、姉をも恨んでいた。姉の、強くて男勝りで専制的だが、弱い者に優しく、しなやかなものを信じるその姿に、自分の生き方を重ねていた、上官は、肉体とは離れた部分で、彼女を心の底から愛していた。
だから、たった一言、「ごめんね」とだけ言って出て行った姉を、憎んでいた。自分を見捨てた姉を、憎んでいた。そして、その事実を発見し、未だ自分の心が誰かに依存している、自分はなんて弱くてもろいんだ!という気持ちは、ますます強まった。
姉が嫌なのではなかった。
こんなにも姉を慕っているのに、それを言葉に出来ない自分と、それをきっぱり割り切れない自分の両方を、何千倍もの強さで憎んでいた。
姉は、ふくらはぎまで見える、どこかみすぼらしいドレスでこちらに歩いてきた。顔は、最後に遭った時と同じように、厭世的で悲しそうな表情をしていた。
上官は、彼女の進路が上手くいかなかったことを知っていた。
「どうして、そのままの自分を守ろうとするの?いっそ、誰かに甘えてしまえばいいのに」
「うるさい!お前に何が分かる。お前に、お前に、…」
上官は、口をもごもごさせた。目の前の姉が幻影であることを知りながら、その幻影の姉にすら本音をうまく言えない自分をもどかしく思った。
「あなたに、ね、姉さんに…ねえさんに、なにが分かる。僕は、あなたに守ってほしかった。あの日のように、支えて欲しかった…。そうだ、姉さんがいてくれれば、何も『道』なんてものにすがったりは…」
「恐いのね、幻想の私にすら、本当のことを言うのが」
「だまれ!だまれ!もう、いい加減にしてくれ!僕は疲れた、疲れたよ…」
「研究者になったって、どうするの?あなたも聞いてるでしょ?研究者の道は、純粋な実力では這い上がれないのよ?どろどろの派閥争いに、あなたみたいな頭でっかちのポンコツが、どうやって立ち向かうの?」
「そ、そんなの…」
上官は、俯いた。姉を真っ直ぐは見られなかった。
「いつまでも強がって、一人で、寂しくないふりして。甘えてしまえばいいのに。でもできないのね、プライドが邪魔をして」
「プ、プライドなんかじゃない!」
上官は、思わず頭に血が上った。僕が、プライドが邪魔をする?
そんなの、ありえない。相互理解は、完璧なはず。いつも自分は、自分の言葉を伝えるよりも、相手の意見を聞くことを重んじてきたはずだった。
「じゃあ、何があなたの邪魔をするの?」
「……」
「自分から心を裸にしていけば、相手だって答えてくれることくらい、知っているはずよ。それなにの、何にそこまでこだわって、一人ぼっちを続けるの?」
「…だめなんだ」
「何が?」
「…ねえさんじゃなきゃ、ダメなんだ。他の誰でもない、唯一の家族…ねえさんじゃなきゃ、ダメなんだ」
「そう、あたしじゃなきゃ、だめなのね」
上官の姉は、そう言うと、一瞬、顔に微笑を浮かべた。
次の瞬間、上官は部屋で一人、立ち尽くしていた。
最近、目覚めた時やトイレに行くとき、よく姉の幻影を見た。
出来れば綺麗さっぱり洗い流して、見たくはない姿だった。しかし彼女への気持ちを内心で否定すればするほど、彼の心は彼女との繋がりを感じる瞬間を求めて、苦しい声を上げるのだった。
しかし上官は、こんなことは死んでも姉には言えない、と思っていた。
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