第4話夜明けの前

悠太が少女―のちに、万梨阿(まりあ)という名前の少女の正体に気付いてから、次に意識が覚醒したのは、寄宿舎の中の医務室だった。

ここは、月面の過酷な労働で体調や精神を崩す者が続出するため、常時いくつものベットが用意されている。

 急造でこしらえた簡素な部屋には、前時代的な鉄パイプのベットにアルミ製の医療器具、錠剤の形の精神安定剤など、「アナログ」な機器ばかりが置かれていた。

 これは、OISDが経費をケチったと言うよりは、地球にある精密機器は月面への輸送の際に発生する衝撃に耐えきれず、月面に持ち運べなかったという方が正確だった。

 悠太は、まだ覚醒しない頭を持ち上げた。

アルコールを舐めすぎた次の日のように、頭がひどく重かった。おまけに、貧血のように手足の先が痺れて、冷たい。

 悠太は、自分の胸に手を当て、ちょうど腹の中心に、包帯が何重にも巻かれているのに気付いた。それを、下から撫でさすって数センチ上に向けたところで強烈な痛みが走った。

「いでっ!」

 悠太は、苦痛に顔を埋めて、手を離した。身体の内部は傷が治癒しても、まだ表面の傷は治りきっていないらしい。

 悠太のうめき声を聞いて、ベットの周囲のレース越しから声を掛けてくる人間がいた。

「小宮山くん、小宮山くん、目は覚めた?」

 声は、女の声だった。悠太は、それを何度か聞いたことがあった。

「はい、覚めました」

「そう、よかった。調度痛み止めの薬を処方しようとしたところだけど、自分で飲めるかしら?」

「はい、大丈夫です」

「そう。じゃあ、失礼するわね」

 ベットのレースが引き上がり、そこに三十前半くらいの女性が立っていた。

 彼女は、名前を園部美保と言って、OISDの命でここに赴任した医師である。

彼女について、細かい経緯は不明だった。しかし、極めて事務的だが棘の無い性格で、彼女はここに住む少年たちからは、好かれも嫌われもしなかった。

 彼女は、ガラスコップに注がれた水と、錠剤を悠太に手渡した。悠太は、礼を述べてからそれを受け取ると、一気に飲み干した。ここで作られた濾過水は、以前と全く変わらない滑らかさで、喉の奥へと落ちて行った。

 しばらくそれを眺めていた園部は、珍しく悠太に質問を投げかけてきた。

「そういえば、君は、自分が発見された時、どうなっていたか、覚えてる?」

 悠太は、自分の頭の中を探ってみて、記憶の断片を探してみた。さっきまで深い眠りに落ちていたせいで、覚醒前の記憶は、まるで絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたしたように混沌としていた。

「…撃たれた?」

 悠太の口をついて、不意にそんな言葉が出た。

 確か、自分は上官を振り切って、地下室の階段を上っていった。その先の大きな岩盤によじ登り、声を上げた。その時だった。あの時は、アドレナリンが分泌されていたのか、完全にハイな状態だった。

近くから、火薬の爆ぜるような音が聞こえた。続いて、自分の脇腹に、身体を突き抜けるような痛みが走り、自分はよろけて岩からずり落ちた。

 転落し、地面に強く頭を打ち付けた。上官が、何か叫びながら近づいてきていた。彼は、必死に何か呼びかけながら、悠太の身体を担ごうとした。

 ―上官に、撃たれた?

 悠太の脳裏に、そんな言葉が湧き上がってきた。それは、曖昧模糊とした記憶の中で、唯一それらしい結論であった。

 しかし、上官の名前を口に出せば、園部がどんな行動を起こすか分からない。そんな考えが、悠太の脳裏に沸き起こり、それを口に出すことは無かった。

「そうね、詳しくは銃創が…銃の傷跡が、ふさがった状態で、君は見つかったの。でも、傷口が、もう何年も経たかのように治癒していて、塞がっていた。あれだけ深い傷跡なのにね…」

「そ、そうなんですか?」

 上には、調査依頼と、君が傷の治癒に専念することを伝えておいた。上は、目下、犯人はだれか、調査中よ。君は、しばらくここで安静にしておいて」

「そ、そんなことが…」

 悠太は、自分の頭を捻ってみて、その記憶が乏しいことに困惑した。まるで上から、強烈な刺激を受けたせいで、自分の記憶が薄まってしまったようだった。

 園部は、それっきり、同情の言葉も掛けず、さっさとどこかへ行ってしまった。悠太は、曖昧模糊な頭を抱えて、しばらくベットの上でじっとしていた。

 夜、消灯時間になり、部屋の明かりが消された。カーテンのレースを開けると、そこから病室の窓が見えた。

太陽の光を受けて青い光を放つ地球が、相変わらずそこに鎮座している。他に音は無い。月面は、まるで砂漠の夜のように静寂で、無味乾燥だった。

 悠太は、寝られない頭を抱えて、再び目を閉じた。睡魔が、悠太の意識を徐々に奪っていった。

 

 五〇センチの高さから転落した悠太は、頭を激しく打ち付けて、意識を失った。

彼の身体の周囲は、傷口から流れる血の色で、赤黒く変色していた。彼の身体は、大量の血を流しながら何者かによって担がれ、そのまま少女―万梨阿の閉じ込められている地下室に運ばれた。

 意識の無い悠太の肉体は、まるでそこにゴミでも捨てるように投げ出された。身体は、血の跡を引きずってずるずると揺れて、最後に力なくだらりと腕をたれた。

「そこでくたばっていやがれ!!」

 誰かが、スラング混じりの英語でそう叫んだ。

 彼は、動かない悠太の身体の脇腹に軽く蹴りを入れ、それでも反応が無いことを確認すると、ドアを再び閉じた。

 簡素な鉄イスと机の並べられただけの部屋は、再び静寂に戻った。

 相変わらず、悠太の傷口からは、心臓の音に共鳴するように、とくんとくんという調子で血が流れ続けた。部屋の半径一メートルは、流れ出た血で水たまりのようになった。

 不意に、万梨阿がむくりと起き上がった。

小さなうめき声を上げながら、白いドレスに身を包んだ少女は、自分の白い服が血に染まるのも気にせず、悠太の身体に這っていった。

彼女は、足元に繋がれた鎖が目いっぱい伸びる所まで身体を引きずると、悠太の服を細い腕でまくり上げた。そこには、半径一センチほどの赤黒い点があり、そこから血が流れ続けていた。傷口は、心臓の音に呼応するかのように、一秒間隔で血が溢れたり収まったりを繰り返している。

 彼女は傷口に唇を近づけた。そして、まるで接吻するように患部に口づけをした。そのまま、「むちゅー」という音を立てながら、傷口に吸い付いた。

 その状態が、三〇秒も続いた時だった。

 あれだけ流れていた流血が、いつの間にか止まっていた。そして、深い銃弾の跡が、見る見る小さく萎んでいく。

 万梨阿は、むくっと顔を上げた。唇の周りは、べっとりとした血で汚れている。そして、口の中でころころと何かを転がし、「ぺっ」といって吐き出した。

 彼女の両手に転がっていたのは、悠太の肉を一瞬で破り、あばら骨を粉砕したまま体内にあった鉄の銃弾だった。

万梨阿は、それを手で投げ捨てた。銃弾は、カランカランという音を立てて地面を転がり、部屋の隅に転がって止まった。

 悠太の顔が一瞬、痛みを訴えるように眉を寄せた。しかしそれは一瞬のことで、また顔は無表情に戻った。しかし今度は、以前の様な蒼白な顔色をしてはいなかった。

 万梨阿は、口周りにべっとりと付いた血を右腕でごしごしと拭った。しかし真っ赤な鮮血は、かえって彼女の頬と右腕を汚しただけだった。それを気にせず万梨阿は、自分の手の中に眠っている悠太をしばらく眺めていた。


 悠太は、しばらく意識を失っていた。

 悠太が目覚めたのは、白壁に白塗りの通路。数少ない窓以外、日光の一切入らない病院の中だった。

 悠太は、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。悠太は、なぜ自分はこんなところにいるのか、分からなかった。

 いきなり、すぐ近くの病室から、中年くらいの男性の怒鳴り声が聞こえてきた。

「だから、コイツをどうしろって言うんです!

まさか、世間に公表するんですか?それじゃ、今まで私たちが築いてきたキャリアが、パアになる。それこそ、家族もろとも、地に堕ちていくようなものです。

それはお父さん、あなたが一番分かっていることでしょう?」

「それは、まあ…」

 初老くらいの老人のうろたえた、弱弱しい声が聞こえた。

「こいつは、ここの外には出しません!仮に街に連れ出したって意識は戻らない、と先生だって仰ってたじゃないですか?

 たしかに、コイツが仮に一生、ここで過ごさなくてはならないとして、たしかにそれは可哀想だ。でも、だからって下の弟や従兄弟にまで迷惑が掛かるのは、親として、私は許せません。お前だって、そう思うだろ?」

 男性の声は、その妻らしき人物に同意を求めてきた。

「そりゃあ、万梨阿だって、望んでこうなったわけじゃないから、これからも私たちが毎週、寂しくないよう、会いに行きます。

それでもお父さん、このまま彼女を連れ歩けば、それこそ忠志さんにも、お父さんにも、世間から非難が飛ばないとも限りません。霞が関の内側は、昔と違って、沢山の派閥が形成されているんです。ボロを出そうものなら、あっという間に派閥争いから、蹴落とされてしまいます。

 正しい心持の上にどこまでも伸びる高い志を建てたなら、それはきっと叶えられるに違いない、と言ったのは、お父さんじゃあありませんか。忠志さんは、私たちは、まだまだその発展の道程なんです。

ここで立ち止まるわけには行かないんです。

 万梨阿は事故で本当に動けなくなってしまいましたが、もともと少しだけ、頭に障害があったんです。でも、それでいいんです。

 私と忠志さんは、これからも三日に一度はここにきて、彼女が寂しくないよう会いに来ます。お父さんだって、たまに来て、万梨阿とおしゃべりしてあげてください。

 お父さんまでいつまでもくよくよしてたら、万梨阿に叱られちゃうかもしれませんよ?」

 妻の声は、実父の悲嘆な気持ちをなだめるように、穏やかだった。しかしそこには、初老の男性に同情しながらも、どこか自分と突き放したような冷静さが含まれていた。

 悠太は、彼女の話し方が万梨阿そっくりだと思った。

 初老の男性はしばらく黙っていたが、ようやく出てきた声はまるで死にかけているように弱弱しかった。

「そ、そうか…。やむを得ないのか。仕方のないことなのか…」

 声は、それっきり病室からはしなかった。

 間もなく、病室のドアがガラガラと開いて、一組の夫婦が出てきた。

一人は、黒のスーツに赤のストライプのネクタイをし、身長一八〇センチに届こうかというほどの長身の男性だった。

頭髪をワックスで後ろになでつけ、顔には厳格そうな皺がおでこに走っている。きりっとした眉毛と、たくましい体つきであるが、手にはしおれかけた花束を手に持っている。ジャケットには、役人である六角形の青色のバッジが着けられていた。

 男性の横を歩く女性は、身長一六〇センチくらいでおっとりとした顔をしており、髪の毛は肩の辺りで切りそろえられている。薄い黄色の混じった白いジャケットスーツを纏っている。たれ目や口元がよく見れば万梨阿そっくりなことに、悠太はすぐ気づいた。

 彼らが部屋を出て行った後、通路はまた元の通り静寂に包まれた。たまに、遠くから医療器具を運ぶためのカートの音が、ガラガラとするだけだった。

 しばらくして、がらがらと部屋のドアが開けられた。

 そこに立っていたのは、黒いジャケットスーツを着た長身の男性と、彼が車いすに乗せている万梨阿―今よりかなり幼い、小学生くらいの万梨阿だった。

 男性は、どんどん剥げかかっていく前頭部をてかてかさせ、髪の毛はワックスできっちり横になでつけてあった。目はたれ目で、鼻は顔のバランスに対してやけに大きい。

しかもそこが真っ赤に腫れたようになっている。まるでトナカイのような鼻だと悠太は思った。

 二人は、そのまま悠太の横を通り過ぎ、通路の向うに歩いて行った。悠太は慌てて、その後を追った。

 エレベーターに乗っている時も、一階のロビーを抜け外へ出る時も、男性はずっと無言だった。万梨阿は、彼女の実物がそうであるように、焦点の合わない視線を斜め下に向けて、上下に病院服をすっぽりと被せられ、引かれるままにされている。

 二人は、病院の中庭に出た。

この病院は、隔離病棟らしく、周囲はうっそうとした樹木で囲われている。外から聞こえるのは、シジュウカラや郭公の鳴き声ばかりで、その中を彼は、万梨阿を連れて歩いていた。

 悠太は、しばらくうしろについて歩いていた。男性は、独り言のように万梨阿に話し掛けた。

「万梨阿よ、私は一体、お前をどうしてやればいい?

 学生時代に志を立て、以来四〇年、自分の理想を実現するために闘ってきた。迫る政敵は不正な手を使ってでも打ち破って来たし、理想のために自分を律し、成しうる限りの犠牲も厭わなかった。

 それなのに、この四〇年間を振り返ってみると、同僚たちとの出世競争と、幹部連中とのつまらない足の引っ張り合いばかりしてきた。

 万梨阿、私は一体、お前のために何をしてやればいい?お前にとっての幸せは、いったいなんなのだ?教えておくれ。

 書物の中で古今東西の、太古から現在までの、あらゆる悲劇を見てきたつもりだった。どんな苦難や悲劇に見舞われても、それすらも超越した高い理想を持ち、あらゆる人を導けるような社会システムを開発する。そんな理想を描いてきた。 

 しかし、実際に苦難に直面することが、こんなにも辛いことだとは、想像もつかなかった。

 私は、あらゆる人々の指導者たるべき人間、人間を越えた『超人』であろうとしてきた。でもどうやら私の精神は、まだこの地上の支配に隷属しているらしい。

 万梨阿、私はどんなに金を積んだって、お前を助けてやれはしない。

運命の力とはいえ、お前一人を救えないことがどんなに情けなく、やるせないことか…。もし、お前が元気な姿に戻れるなら、私が今まで築き上げてきたキャリアも、理想も、すべて失ってしまってもいい。

 神さま、ご先祖様、いや、万梨阿を救ってくれるなら、悪魔であろうと、お月様であろうと構わない。

 どうか、彼女を元に戻してくれ。彼女の失われてしまった自我を、再び外の世界に呼び覚まして欲しい。

 万梨阿、私はお前に何をしてやればいい?何をすればお前は、もう一度、私の大好きな笑顔を見せてくれるのだ…」

 いつの間にかしわくちゃの彼の目元には、涙の粒が溜まっていた。目を真っ赤に充血させ、老人は万梨阿を押しながら泣いていた。

 ふと、どさっという音がした。見ると、幼い万梨阿がいつの間にか車いすから転げ落ちて、地面に倒れ込んでいた。

 一八〇センチもある偉丈夫の彼は、大きく狼狽し、「おおっ」といって彼女を助け起こそうとした。

「万梨阿、どうしたんだ?まさか、段差があったわけでもあるまいに。うん、何だ、これは?」

 高杉は、万梨阿が手に中を握りしめていることに気付いた。彼女は、これを取ろうと椅子から転落したらしかった。

「これは…石?いや、何か違う…」

 万梨阿は、右手に、ゴツゴツした花崗岩のような岩から覗く、水晶のようなものを握りしめていた。

 ―スターダストだ!

 悠太は、思わず叫びそうになった。

地球の光もとい、太陽の光を直接、間接的に浴びせると、チカチカと独特の発光現象を起こす鉱物を、万梨阿は握りしめていた。

「なんだ、この鉱物は?大理石…でもない。まさか、特殊な鉱石なのか?」

 高杉が頭をひねり出した。

 その時、悠太を取り囲む病院の中庭が、急速に遠のいてい言った。

さっきまで立っていた足元が崩れていく、あっという間に悠太は真っ暗闇の中に放り出された。

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