第33話2.掴みとれないもの

本日より研修に入ります「杉村将哉すぎむらまさや」です。宜しくお願い致します。

外科の医局の朝、先輩医師達は何となく機嫌が悪い。

当直明けの医師はもう早く休みたい。そんな表情をあらわにしながらこちに目を向けることなどない。

研修医は本当に短い周期で各診療科をたらい回しの様に渡り歩く。

それも毎年の様に行われる恒例行事の様なもの。先に研修に入ったグループはどんな感じだったんだろう。

そんな事を想いながら、僕は今、自分が最も専攻する外科の研修に入る。


「みんな、また医者の卵がまた来た。宜しく頼む」

医局長が決まりきったような口調で僕らを迎え入れる。

「さて、今日のカンファは?」

カンファと言っても大まかな引継ぎにしか過ぎない。外来担当の医師は早々に医局を出て行く。

「さて今日のオペの予定は2件か。まぁ、そんなに難しくないだろうから今日の所は安泰だな」

オペかァ……僕らが自らメスを握る日は何時の事になるんだろう。

少し胸が高鳴った。

だが結局外科の研修1日目は雑務に追われる日となった。

「今日はこの資料二人でやってもらおっかな」

女医の笹山医師がにっこりとしながらデスクに山積みの資料を指さす。

やっぱり初日から現場には向かうことないんだ。

僕と一緒に今日付けで配属になった山下と顔を見合わせながらため息をついた。

山下剛やましたつよし彼とは同じ大学の同期。偶然にも彼もこの病院で研修を行う事になったのは僕にとって幸いと言うべきかもしれない。

何せ彼は同期のなかでも成績は優秀でトップクラスのエリートなのだ。浮きもせず沈みもせずおよそ中間の位置を保つ僕にとっては少し憧れの人物でもあるのだ。

「なぁ杉村、外科の噂聞いているか?」

「外科の噂って?」

「なんだ聞いていないのかよ。ここの外科医局相当厳しいらしいぜ」

「相当厳しい?そりゃ、外科だし他の所よりは厳しいかもね」

「そう言う意味じゃなくてさ。人使いが荒いと言うかさ、前のグループで一人脱落者が出たらしいんだこの外科の研修中に」

「え、そうなんだ」

「なんでも精神的に行き詰まったらしい。まぁ研修といえど、俺ら一応は給料もらっている訳だし仕事といえばやらざろう得ないわけだし。押し付けられるのはほとんどが雑務らしい」

「そうか、雑務専門業務主体ということか」

「ま、これも仕方がないよ。僕らはまだ基礎知識しか解らない。現場でのあの状況を瞬時にクリアできるほどの経験も技術も無い。それをこの2年間で全て身につけることなんて到底不可能なことなんだと思う」

「たしかにな、今まで研修してきた科も僕たち研修生は直接的な医療行為はほとんど手をかけることは無かった。良くて患者さんの症状を訊いたりカルテの見直しをしたり。そんなことしか無かったな」

「そうさ僕らはこの2年間で医者という姿をしながら雑務とその雰囲気を味合う期間なんだよ」

「はぁ、やっぱそうなのかなぁ……」

「そうさ」

二人でこの先果てしなく続きそうな雑務の嵐に気を落としながら資料をながめていた。

5時を少し回ったころ

「お二人ともお疲れさん。資料の方は処理できたかな」

笹山医師が僕らを覗き込むようにに言う。

「なんだなんだ、その疲れ切ったような顔は。こんなんじゃ外科は務まらないよ」

そうは言いうものの、あの資料の山を手分けしてまとめるのにも相当な労力は必要だ。

「それじゃ今日はもう終わりだし、飲みに行くよ」

ボンと、僕ら二人の方に力強く彼女は手を落とす。

その時横眼で見えた彼女の特異的なサイズの胸が揺れるのを思わず目にしてしまった。

その時思わず、歩実香の胸とはサイズがはるかに違う……

そんな事を思う自分がいた。

こりゃ、まずいな……

「さ、行くよ」

笹山医師は僕らを誘い出した。

断る理由もなくまして初日から断ればこれからの事もある。ここは素直についてくべきだと悟ったが。

「済みません笹山先生、せっかくのお誘いなんですけど、実は先約がありまして」

山下は淡々とした態度で笹山医師の誘いを断った。

笹山医師は少しむっとした表情をしたが

「あ、そ、それじゃ杉村君行くよ」

「あ、はい。今準備します」

取るのも取らず白衣をロッカーに押し込んで、笹山医師の後に付いた。

「まったく山下君、先約があるんでなんて……多分他の先生から御呼ばれされていたんでしょうけど。その点、君はフリーらしいからいいわよね」

少し鼻歌交じりに職員玄関までの廊下をコツコツとヒールが床を叩く音を響かせながら歩いていく。

その後ろ姿は確かに女性ではあるがそれ以上になんだろう……威圧感?いや、彼女が背負う何かを感じていた。

駅前の彼女の馴染の居酒屋。

病院からさほど離れていない、大衆居酒屋。仕事帰りのサラリーマンが各々酒を煽り上司の愚痴をさかなに酔いに興じていた。

「杉村君、こういうところあまり好きじゃない?」

「いいえ、そんな事ありません」

「そっか、じゃ、すみませーん生2つ。後はいつもの様に適当に」

「ハイわかりました」いつも来ているんだろうもう顔なじみの様にその店員とも会話する笹山医師。

早々に運ばれてきたビールジョッキを片手に

「それでは、杉村くんようこそ地獄の一丁目に」

含みのある笑いと言葉を耳に僕はグラスを傾けた。

「地獄の一丁目ですか……」

「そ、地獄の一丁目。外科はどの科よりも過酷でそして理不尽なところ。そこに今、あなたは研修生として今日から入った。まぁ適当に時間を過ごして、ここを乗り切るか、もしくは精魂尽きるまで雑務と研修に勤しんでボロボロになるかはあなた次第だけどね」

「あのぉそれって僕にこの先どうあれといいたいんでしょうか?」

「あははは、それはあんた次第ということだよ。杉村雅哉君。時に、辻岡歩実香君は元気かな?」

「歩実香……いや辻岡の事をご存じだったんですか」

「知るも何も歩実香ちゃんとはいい仕事仲間だったそしていい友達でもあった」

「そうだったんですか。知りませんでした。彼女仕事の事はあまり話さないもので」

「そうかぁ、私にはよく君の事話していたなぁ。今はまだ医学生だけどこれから医師免許を取って研修をして君はきっと立派な医者になるってまるで自分が医者にあるかのような感じで話していたな」

「そうでしたか、歩実香がそんなことを……」

「そ、だから私は君にとても興味があった。今日は山下君、誘い受けているの知っていたんだ。多分来ないことを前提にとりあえず二人に声をかけた。君一人を名指しで呼んだら彼のプライドに刺さるかもしれないからね。それに多分君は山下君に遠慮すると思ってた」

そこまで計算してこの人は僕を誘ったのか……

「変な感情は持たないでよ。ここ外科の医局では物凄く人間関係が複雑なの。根回しがあってこそ今は成り立っているといった感じかな。私なんかそういうのあんまり得意じゃないからよくはじかれるけど、もう慣れた」

「人間関係ですか?」

「そ、人間関係……あそこは病院というよりもお役所みたいなところだと私は思っているの。それってこれから医療の現場に従事する君に話すべきことじゃないだろうけど、人の命を預かる聖職……今はその前に自分の建前と自分の地位の維持を優先することが最重要視されているといっても過言じゃないわ」

医者になるということを夢見て今まで頑張ってきたが、この言葉にはかなりの衝撃を受けた。

医者は人の命を預かる仕事。いわば技術者ともいうべきだろうか。そのために日夜身を制してみんな頑張っているのだと思っていたが現実はそんなもんじゃないような気がしてきた。

「前途ある君にこんな話をして意欲喪失?もしそうだったら無理なことは言わないわよ早く別な道を見つけるべきね」

焼き鳥をほほ張り、ビールを流し込むその彼女の姿を僕は見ながら

「ならば僕はこの外科の研修でどう立ち振る舞ったらいいんでしょうか?」

「はぁ?立ち振る舞う。あははははは、そんな言葉で通用するようなところじゃないって言っているの。貴方はまだ現場を知らない。だからまだそんなことを言ってられる。まだ医者はかなり優遇されているでもね看護師たちはその優遇は受けられない。貴方の彼女歩実香ちゃんだってその通り。現場でその技術と動き方を身に着けないといけないのよ。彼女は本当にいい子だった。秋田に行くと聞いてどうしても行かないといけないのかと何度も私は引き留めたんだが、彼女自体その意思も堅かった。今、目の前にいる君には申し訳ないけど、同じ女として彼女は、私には出来ないことをちゃんと前を向いて進んでいたんだから」

ちゃんと前を向いて進んでいた……

歩実香はどれだけ過酷な状態にあっても私には守るべき人がいる、そして支えてくれる人がすぐそばにいるから頑張れるんだ……その言葉がよみがえってくる。


「ねぇ、杉村君。君は医者って何だと思う」

唐突に訊かれ言葉に詰まっていると、笹山医師が


「医者ってね、何にもできない人の事を言うの。医者であるがゆえに医療の事しか頭にない、そして身体もその事にしか反応しない。それってまるでロボットよね。でもね私たちを頼ってくる患者さんたちは人間なのよ。人なのよ。


人はね、いろんな感情を持っている、そしてその人それぞれの生活がある。決まりきったマニュアルですべて解決できるものじゃないと思うの。


私は……医者である前に


一人の人間人でありたい。


暖かい血の通う人間でありたいといつも思っている」


一人の人間でありたい。暖かい血の通む人間でありたい。

彼女のその言葉がこれからの僕の人生に大きくかかわることは今まだ気づくことさえなかった……でもなんだろうその言葉は僕の心の奥底に浸透していくような気がした。


「さて、もういい時間ね。明日もあるし、そろそろお開きにしましょうか」

「今日はお際頂いてほんとうにありがとうございました」

「どういたしまして、指導医と受講生の顔合わせだから」

「指導医?」

「そ、あなたの指導医はこの私、そしてあなたはその受講生。明日からしごくから覚悟しておいてね」

ちょっと小さな声で

「お手柔らかにお願いします」

「なんだなんだ、そん小さな声はもっとしゃんとしろ杉村雅哉」

思いっきり背中をたたかれてしまった。


笹山医師とは店の前で別れた。


僕は、を今年も羽織り、冷たく冷えた秋風を感じそのコートの襟を立て駅えと向かった。

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