第34話3.掴みとれないもの
歩実香元気にしているか。こっちはようやく外科の研修に入ることが出来た。
研修と言っても、今はほとんど雑用オンリー。それでも指導医の笹山先生は率先して現場に僕を連れ出してくれる。
そう言えば笹山先生、歩実香とはよく一緒に仕事をしたよって話をしてくれる。
ただ、今の僕と歩実香を比べられるのはちょっと困りものなんだけどなぁ。
本当に今の僕は何もできない見習い。それに比べ歩実香はよくやっていけてるんなぁって感心しているよ。
やっぱり現場は僕が想像していた以上に過酷だった。
笹山先生が言っていたよ
「医者である前に一人の人、人間でありたい」ってね。
今の僕にはその言葉を理解するにはまだ力不足だと思うけど、僕もこの言葉をこの胸のどこかにしっかりとしまっておきたいと思う。
秋田はもうかなり寒いだろう……東京も風がだんだんと冷たく感じるようになってきた。もう時期街並みの雰囲気もがらりと変わるだろう。
でもそれは移り行く未来があるから変わっていくんだと思う。
僕と歩実香の未来が移り行き永久に続くことを願う。
このメッセージを歩実香に送ってから彼女からの返事は短い、そして曖昧な言葉を感じるメッセージが送られてくるようになった。
一言だけの……
「がんばって……」
「こっちは……大丈夫」
その内メッセージは途切れだす。
歩実香から着信があってもこっちからは掛けるのを忘れていたり、こっちからかけても帰ってくるのはコール音だけ。歩実香からかけなおしてくることもほとんどなくなっていた。
外科の実習は日を追うごとに過酷になっていく。
当直にその明けからすぐにまた日勤の作業が押し込まれる。唯一仮眠を取れるほんのひと時の時間が僕の唯一の息抜きの時間。
躰も精神的にも疲れている。
そんな時、僕は人の臨終の場に遭遇する。
初めての事だった。
今までついさっきまで……僕とたわいもない話を笑い声を交えながら交わしていた人が……突如になんの前ぶれもなくその命が途切れてしまった。
ICU (Intensive Care Unit) 集中治療室
重篤な循環器系および呼吸器系などを管理をお行わなければならない患者がいる場所。むろん外科もこのICUの担当でもある。ICUには外科のみならず、内科などの担当患者もいる。主に外科はオペ後の回復管理を主体として患者をこのICUに搬送させ一定期間管理を行い安定すれば一般病棟に移動する。
そして、このICUと言っても壁などの仕切りがある訳ではないが
CCU (Coronary Care Unit) 心臓血管疾患集中治療室
NCU(Neurosurgical Care Unit) 脳神経外科集中治療室
NICU (Neonatal Intensive Care Unit) 新生児集中治療室
この集中管理治療を対象としたユニットも並列されている。
毎日一定時間に受け持つ担当の患者のデータを管理し、異常の兆候があれば迅速に対処する。
指導医の笹山医師と共に僕もこのICU の患者の状態を一緒に管理する。むろん僕自身が指示を出すわけではない。必ず上級医の指示を仰ぎその指示に従い処置を行うだけだ。今、僕が出来る可能な処置に過ぎないのだが。
彼は心臓に異常があった。
彼の心臓がその異常を示したのは今からおよそ2年前の事。
サッカーが大好きなサッカー少年だった。
ある日練習中に突如彼はグラウンドの真ん中で倒れた。
搬送された時は意識はなく自発呼吸もなかった。心電図モニターはVFを示し一刻の猶予もならい状態だったらしい。
すぐさま挿管処置を行い心エコーを行った。
彼の心臓はまだ懸命に動こうとしていた。動こうと一生懸命に心臓は頑張っていた。だがエコーモニターに映し出されたのは……
彼の心臓、左心室の心筋の能力が著しく低下していた。そのため、左心室の心筋は従来の形を維持することが出来なくなり、右心室をも圧迫するような状態になっていた。
つまり正常な心臓としての動きが出来ない状態になっていた。
このままこの状態が続けば確実に彼の命は消える。
懸命な処置の末、何とか彼は一命をとりとめることが出来た。
だが……あれからこの2年間彼はずっとこのCCUのベッドから出ることはなかった。
「あ、怒られっぱなしの研修医の将哉先生」
「ハイハイ、怒られっぱなしの将哉ですよ」
「今日も笹山先生から怒られてたね」
「ああ、いつもの事だからね」
「何やらかしたの?」
「そ、それは……企業秘密」
「ちぇっ、先生怒られてるの見ると面白いんだけどなぁ。今日は何やらかしたんだろって想像するのがものすげぇ楽しんんだ」
「おいおい、そんな事で楽しまれたら僕が悲しいじゃないですか」
「いいじゃん、研修生って怒られて一人前になっていくんだろ。今まででいちばん怒られてる回数が多い研修生は将哉先生だから、早く一人前になれるんじゃねぇの」
「だといいんだけどな。それにしても僕ってそんなに怒られてる回数多いの?」
「うん、めちゃ。今までの研修生の中で一番だね」
「まじかぁ……」
「そんなに肩落として悲観しなくてもいいじゃん。俺だってサッカーやってた時監督からめっちゃ怒られっぱなしだったんだぜ」
「それって自慢出来る事なのか」
「ばっかじゃねぇの将哉先生。ていったって俺監督からあの言葉言われるまでほんとはサッカーの才能なんかねぇて思って落ち込んでいたんだけど……」
「なんて言われたんだい」
ふんっ
尚君はちょっと横を向いて恥ずかしそうに
「才能とやる気のあるやつには俺は思いっきりそいつにぶつかっていく。だから俺はお前を怒るんだ」ってな……
「そっかぁ、わかるよその監督の気持ち。本当に尚君の事見込んでいたんだね」
「さぁな、でも……俺、その事聞いてからなんだろうサッカーがもっと好きになった。将来Jリーグ目指したいって本気で思う様になったんだ」
「解るよその気持ち。僕もバスケやっていたからね」
「聞いてるよ。前にここにいた看護婦さん恋人なんだろ。俺がここに入る前に辞めた人だって聞いたけどな」
「ははは、まったく誰だいそんな事言う人は」
「私だけど何か不都合でもあった」
ふいに後ろから笹山先生の声がした。
「あ、いや……」
「あんまり尚君がしつこく杉村先生の事訊くもんだから洗いざらい話してやったよ。物凄い美人の看護師さんが彼の恋人だってね」
「そんな、笹山先生」思わず顔が赤くなった。
「ま、それはさておき、尚君調子はどうだい?」
「調子いつもと変わんねぇよ。なぁ先生、俺いつになったらまたサッカー出来る様になるんだよ」
尚君のその問いに笹山医師は少し顔をこわばらせて
「きっとチャンスはある。あきらめるな、諦めたらそこで終わっちまうんだよ何もかもな」
「ちぇっ、またかよその言葉。いつも同じじゃん。ああ、ほんとに早くサッカーやりてー。またあのグラウンド思いっきり走りてーよ……先生」
笹山医師は尚君の顔から眼をそらし
「杉村、次行くぞ」一言いい尚君のベッドから離れていった。
「それじゃまた」
「ああ、またな将哉先生」
そう言う彼の目には涙が溜まっていた。本当に彼はサッカーをやりたいんだ。
またグラウンドの中を思いっきり走り回りたいんだ……その時僕は彼の気持ちが伝わってきたように思えた。
「杉村……
その直後
笹山医師のピッチが鳴り響いた。
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