想いは永久に

第32話1.掴みとれないもの

あれから数日が過ぎた。

ベッドの上に躰を横たわらせただ天井を見つめるだけの時間。

まだ躰は至る所痛みが走る。

私の意識がおぼろげながら戻ったのはここに搬送されてから二日目の事だったらしい。

食慾はない。出された食事に手をつけることはなかった。

ただ病室の天井を眺める。

涙がただ流れて来る。

何で涙が流れてくるんだろう。

私の手に暖かい手のぬくもりを感じる。疲れ切った顔に消衰しきった顔のお母さんの姿が目に入る。

でも、すぐそばに居るお母さんに話しかける事すらこの躰は許してくれない……。躰?多分心が許してくれないんだと思う。

私の心は何処に行ったんだろう。遠くて近い過去の事柄が目を閉じると浮かんでは消えていく。

遠くて近い過去……そのおもいでを思い出そうとも今はしない。


ただ、私は病室のベッドに横たわり天井を見つめている。


それから数日後警察の人が来てあの時の事を聞きに来た。女性の人だった。ゆっくりと優しく話しかけるように私に問いかける。

覚えていることは話したつもりだった。でも私がされたことは覚えていない。ただ黒い影が私の体を壊し始め、そして聞こえた激しい息づかいが私の耳に入っている事しか覚えていない。

私の主治医は真壁先生ではなかった。

まだ、救急病棟の一室にいるんだろう。

来る看護師も私とはあまり面識のない人ばかり。

「辻岡さん、気分はどうぉ?」

私と同年代くらいの人だけど、話しが盛り上がる事は無かった。私はただ頭をこくりと頷くだけ。

まるで抜け殻の様な、人形が頭の重さに耐えかねて下に曲がる様な感じに頭を落とす。

不思議とあの時の恐怖は沸いてこない。

ただ私に襲い掛かるのは無機質な白い霧だけ。

そう私の心は白い霧に包まれたままだった。

白い霧。前も見えないほど濃い霧の中、私はただその中を歩いている。

何処に歩いているんだろう……わからない……歩く先になにがあるのかも私にはわからない。

その霧の中に沁み込むように黒い影が私の後を追いかけてくる。

黒い影……その影を振り返り見る。

その影を見るとき一瞬、あの笑顔の彼の顔が浮かぶ。

2回目に警察の人が来た時、現場に落ちていた私の私物を持ってきてくれた。

鞄はなく財布も携帯も無くなっていた。

その婦人警官は言う

「辛いでしょうけど、辻岡さんの証言がないとあなたを襲った犯人を捜索することが出来ないの。私がもしあなたなら多分こんなに辛い事を話すこと自体、とても勇気がいる事だから無理かもしれない。でも犯人はまた別な女性ひとを襲うかもしれない。あなたと同じ被害者を増やしたくない。だから、辛いけど……」

最後に透明のビニール袋に入った。

ぼろぼろになった外装の……あのコートが入ったケース。

「このコート男性物の様だけど、あなたの所持品で間違いない?」

手渡されたそのコートを手にして


私は……私は、泣いた。声を上げて泣いた。


私が必死に守ろうとしたもの……それはコートなんかじゃない。

本当に大切にしていたもの。それは、将哉との想い。将哉と繋がる想い。


でも、そのコートを手にした時私のこの繋がる想いは音を立てて途切れた。

もう、将哉と繋がれない自分がこの濃い白い霧の中にいるのを見てしまったから……


それから10日後、私は退院した。


新しく携帯を購入して回線が元に戻ったのは退院してから2週間が過ぎてからだった。

SNSアカウントを復活させ開いてみるといきなり将哉からの数件のメッセージと着信履歴が表示された。

メッセージを開いてみると虫の知らせと言うものが本当にあるかのように、私を心配するメッセージが記載されていた。


将哉には何も知らせていない。


お母さんにも将哉には知らせない様に頼み込んだ。

今彼は本当に頑張っている。

だから私はあえて知らせる事を拒んだ。

来たメッセージを一つ一つ読みながらそのメッセージを削除する。

最後……将哉のアカウントを削除しようとした、その手が止まる。

どうして……震える手、涙が込み上げてくる。もう、私は将哉とは繋がる事は出来ない。


でも……消せない。


私は壊れてしまった。純粋に一人の人を愛することが出来ないひとになった。例えそれが事故、犯罪に巻き込まれた事であったにせよもう私の心は崩れてしまっている。この崩れた心を私は将哉に向けさせたくはない。

私は意地っ張りだ。

こんな時でも私はまた我慢をしようとする。

本当は……頼りたい。今私に一番必要なのはあの暖かい心を私の傍に……いてほしい。

この事を知らせれば将哉は必ず私の元に来るだろう。

そう彼のすべてを捨ててまでも、私の傍に寄り添ってくれるだろう。

そうありたい。でもそれは私が許さない。

許してはいけない。

将哉の未来をこの私が潰してしまう事なんて、そんな事出来るわけがない。

だから私は何も言わない。


仕事も休業状態。昼も夜ともわからない時間の流れだけが私を置き去りに流れていく。

事件のトラウマが暗がりの風を見るたびに浮かび上がる。

その恐怖と不安。そして罪悪感。

自分を責め自分を傷つけ自分を苦しませた。

そんな闇の中に身を隠す様にしていた私へ、あの真壁医師が訪ねて来た。

その私の姿を見るなり

「辻岡君、ダメだよ。駄目だよ辻岡君……せっかくあの笑顔が戻ってきたと思っていたのに。こんなことになって……ぼ、僕のせいかもしれない。僕は君に償いをしなければならない。しかし、僕に今できることは何もない。悔しいが今僕には君にしてあげられることは本当に何もないんだ」

涙を流し、私に詫びを入れる彼の姿

その姿を私はこの瞳の奥深くに押し込んだ。そして一言彼に言った。


「傍にいて……」


彼はゆっくりとその顔を上げた。

彼の目から流れる涙がほほを伝わる。その涙を私の手がすくい上げる様に彼の頬をぬぐう。

そっと彼の唇に自分の唇を重ね合わせる。

温かさが伝わる。

行き場を失った私の心が何かを求めていた。

「傍にいて」

私の傍にいてほしい。私を守る人が傍にほしい……耐え切れぬ悲しみが躰すべてを包み込んだ。

私の本当の心の叫びを広い上げて……受け止めてほしかった。


芽生めばえる私の中に……忘れよう。すべてを……すべてを忘れれば私はこの悲しみと苦しみから解放される。

解放されたい。すべてから……

目の前にある温もりを求めた。

遠くにある遥かなる温もりをも忘れるために。

今、手の中にある温もりを


「歩実香、歩実香……」

将哉の声がだんだんと小さくなっていく。

消えゆく私の心。掴みえない私の幸せが崩れていく。私の心が崩れる様に崩れ切る心にまた冷たい晩秋の雨が私の心の中に降り注いだ。


私は……歩実香はもういない。


何もなくなった私の中に雨は降り続ける。何もかもすべてを洗い流すかのように。

もう何もなくなった抜け殻は傍にいる温もりさせえ、感じる事が出来なくなっていた。そう抜け殻、何もない抜け殻、それは私が望んだ事。

苦しみから逃れるために私が求めた結果。

将哉と言う私の大切な想い出もすべて崩れ流れ去ってしまった。

残ったのはただ広がる平坦な荒野の様な空間だけが私を支配していた。

何もなくなった。

すべてを失くした。

今の私にあるのは……何もない自分だけ



僕が想う歩実香への想いは永遠だとばかり思っていたあの時は……

心の中に潜む災害そして忍び寄る閉ざされた未来への道。

僕らは永遠に、どんなに離れていても。

どんなに苦しくても……二人で乗り切っていけるんだと思っていた。

忍び寄る災いという名の傷に僕は立ち向かわなければいかなくなることを受け止める事すらなかった。


「杉村、明日からは外科の研修だな。お前の第一専攻だろ、頑張れよ」

「はい、またいろいろとお世話になると思います。短い間でしたがありがとうございました」

「ああ、頑張れ……杉村」










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