第22話1.私が昇るべき梯子

 杉村先生の瞳は今まで見たことが無いくらい深い悲しみに包まれた色に変わっていった。

 「先生どうしたの?」

 その変化に気が付かない私ではない。彼の瞳はいつもきれいに輝いていたんだから。

 「な、なんでもないよ……」

 そう言う先生の瞳は潤んでいる。

 「そこは僕の知り合いの人がいた所なんだ。今はその家にはその人の母親一人しかいない。

 まだ、先方にもちゃんと話はしていないんだけど、まずは先に蒔野まきのさんに話をしておいた方がいいと思って今、話をしたんだ」


 知り合いの人がいた?

  

 過去形の言葉……

 先生とはどんな関係の人なのかはわからない。ただ、なんとなく感じるのは、その知り合いが男性ではなく女性である事。

 それも……ただの知り合いではない様な気がする。

 何かわからないけど、胸の中が締め付けられるような、その人の事を思うと苛立ちが沸いてくる。

 その苛立ちを私はこの人にぶつけたい。

 この想いをこの苦しい胸の中でうごめく感じを私は目の前にいる杉村将哉と言う人にぶつけたい。

 ……いいえ、ぶつけたいんじゃない。

 寂しさが私を覆い包む。

 その私の表情を感じたのか杉村先生は

 「この話は今日はもうやめよう。僕も蒔野さんの悲しい顔を見るのが辛い」

 

 その後彼は、ひるがえる様に私の病室を後にした……何も言わずに。

 

 

 その夜、私は夢を見た。

 

 巳美ともみ、巳美……

 優しく私の名を囁く様に少しぶっきらぼうに何度も呼んでいた。

 その人の顔はぼやけていてまったく見えない、いいえ顔だけじゃないその姿全体すべてがぼやけている。

 それでも私の名を呼ぶ声は聞こえてくる。

 誰だろう?

 いつも感じるとても懐かしい人。私の事をいつも思ってくれていた人の様な、大切な人。

 誰かは思い出せない。

 思い出そうとすればそのぼやけた姿は消えてしまいそうになる。

 それからその夢は毎日私の前に現れる。

 その人に触れようとしても触れることは出来ない。

 誰だろう……

 誰だろう……夢の中で私の名前を囁く人。

 その人は誰だろう……



 彼女、蒔野巳美に歩実香の母親の事をはなしてから二日後の休日。僕は歩実香の住んでいた……歩実香の母親、おばさんが住んでいる家を訪ねた。

 「将哉さん……」僕のすがたを見て一言だけ言い僕をいつもの様に家の中に通した。

 「寒かったでしょ。今日はものすごく吹雪いているからこんな日に来なくても……」

 おばさんはそうも言いながら僕がこの家を訪れた事を喜んでいる。

 熱いお茶が冷え切った体を少しづつ暖めてくれる。

 「今日はどうしたの?」

 いつもの様におばさんは僕に尋ねえる。この家に来れば決まり文句様に訊かれる言葉だ。

 「ねぇ、雅也さん……あなた今何か悩み事でも抱えているの?」

 さすが歩実香の母親の事はある。歩実香も同じように僕の少しの変化をいつも見逃さなかった。

 「ふぅ、やっぱり親子なんですね」

 「何を言っているの?」

 「いや歩実香とおんなじだとって言う事ですよ。僕が少し落ちこんでいたり悩んでいるといつも歩実香はすぐに気が付いてしまう」

 「と、言う事はやっぱり何か悩み事があるんでしょ」

 当たり前の様におばさんは言う

 「まぁそんなとこです」

 「それも私に関わりのある事かしら……」

 僕は口をつぐんだ

 

 「あのね将哉さん、私は貴方の事……あなたの本当の親御さんには少し申し訳ないような気がするけど、私は本当の私の息子の様に思っているの。その息子が悩んでいるのに力になれないなんてとても悲しい事よ」

 僕はその言葉に目が熱くなってきた。

 「実は、今、僕が担当している患者さんの事についてなんです」

 僕は蒔野巳美の事を放し始めた。

 医者には守秘義務と言うものがある。治療に関する事などについてはあまり触れず、現在彼女が置かれている状況を説明した。

 「つまり引き取り手の無くなった彼女を私の所で引き受けてもらえないかと言う事なのね」

 

 「……そう言う事です。本当に僕のわがままで、ぶしつけなお願いなんですが……」

 「まったくもう、あなた方医者ってどうしてこういう事になると小さくなっちゃうのかしら?」

 おばさんは少し呆れるように言う。

 何を隠そう叔母さんも看護師として働いている。今は近くの個人病院のパート看護師として働いている。

 「この前ね、あなたの所の准教授さんから電話があったの。この期に及んでこんなお願いを申し上げるのは本当に気が引けるんだがって言っていたけど。ある患者の身元についてとしか言わなかったからよくは分からなかったけど、あとで杉村先生が説明に来られる事だけは言っていたんで近いうちに来ると思っていたの」

 「そうでしたか、准教授が先にご連絡をして頂いていたとは……」

 「そうあなた方医者は本当に小さいひと達。私の夫もそうだった。どんなに難しいオペや、治療であってもその事については絶対に背を向けない。むしろ戦いを挑むかのように前に進もうとする。そんな姿は物凄く勇敢で大きな人として見えるけど、いざ家庭の事となると本当にあの大きな意欲で覆われたオーラがまったく感じられないの。それどころか存在もその影さえも薄く感じる。

 看護師をしているから解る事。そして医師を夫として持つ妻として解る事」


 「将哉さん」

 「はい」

 「あなた知っていた?」

 「何をですか?」


 「うちの人、あなたと歩実香が付き合っているの反対していた事」

 

 「え、……」

 あまりの事に言葉が出なかった。

 「多分ね、あの人自分の娘が取られるとかそんな事で反対していたんじゃないと思うの」

 「それじゃ、僕がいたらないからでしょうか……」

 「さぁどうでしょうね。ただあの人よく言っていたわ自分も医師として働く身。その仕事は家庭を犠牲にしなければ成り立たない仕事。

 あの子にはそれに耐えるだけの力はないってね。みすみす苦難を課せられる事は無いんじゃないんのかって言っていたわ。だからあなたが医師を目指していることが心配だったのよ。

 でもねほんとあなたの事は褒めていたわ。歩実香の事年下なのによく見てくれているって。本当に歩実香の事を思ってくれているいい男性だってね」

 「それじゃ、僕が医師を目指していることが……」

 「ううん、本当はね、自分に自信がなかったのよ。家庭を振り返る事が出来なかった自分にね。だから私には反対のふりをしていた。でも本当はあなた方二人の幸せを私以上に願っていた人なの。


 私たちがここ秋田に来るのが決まった時、あの人歩実香には東京に

残るように言ったのよ。あなたと離れる事を心配したんでしょ。私にはそう言っていたわ。でもあの人が急逝して結果歩実香もこっちに来ることになった。

 

その結果……」

 その後しばらく重い沈黙が僕ら二人を包み込んだ……


 「解ったわ、今度近いうちに病院にその子を見に行ってみるわ」

 「それなら僕が中に入ります」

 「ううん、それは無し、私はただその子を見に行くだけ、多分話しもしないと思う。遠くからどんな子かを見ていたいだけ。この話の続きはそれからにしましょ。雅哉さん」

 「でもどうして、わざわざそんな事をしなくても今の彼女ならちゃんと自分の意見を言えると思います。精神状態はだいぶ安定してきていますから、今おかれている自分のこの先の行先が見つかればより彼女も安心するかもしれないと思うんですが……」

 「だからあなた達医者と言う人達は自分勝手なの。これは看護師としての意見でもあるの。それに……ここ数ヶ月来るたびにあなたの表情がもとに戻ってきたように感じるの。多分私が思うに、その患者さんと接するようになったからじゃやない?ちょっと興味があるのその患者さんに、個人的にね」

 「そうですか……わかりました。それではその事についてはおまかせいたします。本当にいつもご心配とご面倒をおかけしてすみません」

 「そんな他人行儀な事を言わないの。さっき私はなんて言った」

 「……息子の様だと……」

 「だったら何も言わず任せなさい」


 ……はい。

 

それから数日後、彼女、歩実香によく似た「蒔野巳美」の姿を目にすることになる。
























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