第8話1.晴れた気持ちはいつも

「巳美ぃ」


 部活で疲れ切った私を後ろから元気づけるように声をかける彼女(ひと)。


 私の唯一の友達、親友の冨塚 和美 (とみずか かずみ)。私は和ちゃんと呼んでいる。


 和ちゃんは私の背中をいつも追う様に走ってやってくる。


 「到着、巳美ほんと歩くの早いんだから」


 「そうぉ……普通だと思うんだけど」


 「ううん、絶対に早い。だってちょっと目を離すとすぐにいなくなってしまうんだもん」


 それは和ちゃんが遅いんだよ。とは言えない。和ちゃんの性格はかなり穏やかというか、マイペースというか。


 周りに足並みをそろえようとはしない子だったから。


 和ちゃんとはこの高校に転入してから知り合った。私はその前まで東京に住んでいた。東京で中学を卒業し、一年間東京での高校生活を経てこの地へそしてこの学校へ転入してきた。

 中学を卒業する前に私の両親は離婚した。それは突如私に降り注いだ人生の岐路だったと思う。


 ある日、お父さんが一方的に離婚届けを出してきたそうだ。お母さんは何も話さなかったが、あとで私は人つたえに訊いた。


 お父さんに別な女性(ひと)がいて、すでに子供もいることを……

 お母さんはもうずいぶん前からその事を知っていたらしい。だからだろう私の目に映る両親は、両親であって夫婦ではなかった。


 転校してからこの地での初めての夏休み、私宛の手紙が一通郵便受けに入っていた。送り主は……お父さんからだった。


 手紙には、元気にやっているかと心配していたことが書かれていた。お父さんの方も何とか新しい生活、新しい家族で頑張っていることを。そして一緒にお金が同封されていた。



 現金で3万円。



 正直、私とお母さん二人の生活は物凄く大変だった。お母さんは朝早くからときには深夜まで仕事していた。それでもお母さんだけの収入では生活は本当に最低限の生活を送るのがやっとの状態だった。


 その現金3万は今の私たちにとって物凄く貴重なお金だった。でも、私はそのお金を自分の手の中にするのをためらった。このお金を私が使う事は出来ない。


まして生活費に回そうとすればその出所をお母さんが知ることになる。


でも、ごみに捨てるわけにはいかない。迷った挙句、私はある事に使おうと決めた。



 一度東京のお父さんに逢おうと……



 この3万円を使って、東京にいるお父さんを訪ねようと。


 そして……何をする訳でもなかった、この期に及んでお父さんに怒りをぶつけても仕方がないこともわかっている。


 まして、お母さんの事を伝えた所で二人がまた元通りになる事もないことを、私は分かっている。


 何となく気になっていたお父さんの姿、最後に中学の卒業式の前に見たあの姿をただもう一度この目にしたかっただけ。


 次の日、手紙に書かれていた住所を頼りにお父さんの元へ向かった。お母さんには内緒で。


 数か月ぶりに来た東京、今私がいるあの地とは違った空気を感じる東京。電車を乗り継ぎ住所を頼りに向かう。


 「ええっと、練馬区上石神井……」スマホのマップを見ながら目的地へ、少しづつピンに自分が近づくにつれ次第に歩く速度は落ちて行く。


 どうしたらいいんだろう。今更、お父さんに逢ったところで何かあるのか。もしかしたらお父さんは私にはもう逢いたくないのかもしれない。新しい家族の前で以前の自分の家族の事なんか見せたくもないんじゃないか……


 密集した家々の中にぱっくりと開いたようにある小さな公園。そのベンチに座る2つの影とベビーカーに乗る小さな命の陰。ふと立ち止まり見る一つの大きな背中はとても懐かしい背中だった。


 「お父さん……」声を出そうとしたが、声は出なかった。


 そのまま遠くを見るかのようにその公園を通り過ぎた。その時少し目に入った、あの懐かしい大きな背中の隣にいる女性(ひと)の横顔が。



 綺麗な女性(ひと)だった……



 公園が私の視界から消えた時、涙が溢れ出て来た。涙で前が見えないくらい。

 もう戻す事の出来ない時間。思い出となった私の家族。


 振り返っても手にすることもそして、再び感じ合えることが出来なくなった私の家族という人達。



 もう永遠に私の元には現らない。



 そのまま駅に向かい電車に乗った。途中乗り換えの駅で、豪雨のため電車は止まっていた。


 駅は電車を待つ人で埋め尽くされている。雨はまるでバケツをひっくり返した様に降り続く、駅の構内に居てもその激しさが伝わってくる。



 湿度と熱気で体から汗がにじみ出てくる。肩よりも長くしている髪が少しうっとおしい。つややかな鏡の様な壁に映し出される、まるで雪女の様な色白の自分を見つめ「髪、切ろっかなぁ」とぼっそりと呟いた。 

 



 巳美、最近元気無いね。と和ちゃんは私が東京から帰ってから気にかけてくれている。


 あれから何だか体の中に穴が開いたようなスカスカの感じがずっとしている。東京に行くべきではなかったんだろうか。


 行って何かが変わったと言う訳でもない。


 ただ、お父さんのあの背中を久しぶりに見ただけ、私がお父さんのすぐそばまで行った事はお母さんも、お父さんも知らい。


 もう、無くなってしまった私のあの家族という人達。それを私は今更ながら再確認をしたに過ぎなかった。



 「ねぇ、巳美ぃ。かき氷食べにいこ、あ、それとも焼きそばにしよっかなぁ。今日の部活きつかったし私お腹すいちゃった」



 「う、うん……」煮え切らない返事をした。


 それでも和ちゃんの目指す方角は駄菓子屋の「塩谷」私の手を引っ張りながら前を進んでいく。


 和ちゃんが率先して私の前に出るのはこういうときがほとんどだった。


 「塩谷」は学校の近くにある古くからの駄菓子屋、焼きそばや格安の二百円ラーメンを目当てに私たちはよく立ち寄った。


 夏場はかき氷もやっている。カップに氷を削り入れ、ただシロップをかけただけのいたってシンプルなかき氷。


 一杯百円はありがたい。たまに思う事がある、こんなにやすくて本当にやっていけてるんだろうかと。


 それでもこの店は長年この場所で、学生相手に営業している。


 この店をやっているのが見た目、六十過ぎくらいのおばあちゃん。みんな「おばちゃん」と呼んでいる。


 「おばちゃん、焼きそば二つ」和ちゃんが店に入るなり焼きそばを注文した。「ハイハイ、ちょっと待ってね」優しくやわらかな物腰で返すおばちゃん。


 私はこのおばちゃんの雰囲気がどことなく好きだった。 


 私は自分のおばあちゃんを知らない。


 お父さんも、お母さんも二人とも自分たちの親の事は話したことはなかったから、もちろん今まで会う事もなかった。


 実際にはいるのかもしれない。


 でも今まで私は自分の祖父母という存在を知らずに育った。


 だからかもしれない、自分にもしおばあちゃんがいたのならきっとこんな感じの人なんだろうと「おばちゃん」に想いを重ねていた。


 はい、お待ちどうさま。ゆっくりとした話し方で私たちの前に焼きそばを二つ置く。熱々の湯気の中にソースが焼けた香ばしい香りが鼻をくすぐる。


 「さ、食べよ巳美」

 「……う、うん」


 和ちゃんは目の前の焼きそばを美味しそうに啜る。私はあまり食慾はなかったけど、この香りに何となく誘われるように焼きそばを口に運んだ。


 はいどうぞ。おばちゃんがカップ氷を持って来てくれた。お水代わり。といって。


 「これ食べたら私夕飯いらないかも」


 「そうぉ、私は帰ってからも夕飯作るけど」


 和ちゃんの食慾には感心する。でも彼女も私と同じ家庭環境にある。


 私と同じ母親と二人暮らしの母子家庭。


 同じ家庭環境のせいもあったんだろう、意外とお互いの事を理解し合えるような感じが私たちを繋いでいたのかもしれない。


 それでも彼女は私の様にあまりその事について拘ってはいないようだった。和ちゃんはよく私に言う。



 「私は私、お母さんと一緒に暮らしているけれど、全部お母さんと一緒にされたら困るもん。だって親子であっても考え方や生き方は別なんだもん。


そりゃさぁ、いろんな事情があって別れたかもしれないけど、私にはその事情は関係ないことなんだもの。だから私はマイペースでいくの」



 はじめ訊いたときはなるほど、この考えだからこの性格なんだと、妙に納得させらたものだった。


 焼きそばをほおばる彼女を見てふと、思い出しながら


 確かにその通りかもしれない。と今の自分に言い聞かせていた。



 少し元気が出た。



 「和ちゃんにとられる前に私も食べちゃお」



 「なにそれ?」と笑いながら焼きそばをたいらげた。

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