23
目を覚ましたとき、ツェルトは見慣れた部屋の、自分のベッドの上に寝ていた。枕元ではキューンが丸くなって眠っていて、まるでいつも通りだった。
カーテンの隙間から射し込む光が朝とは思えないほど強く、それだけがいつもと違っていた。
ぼんやりしたまま上半身を起こす。
身体中が軋んで、頭が重く、ひどい空腹を感じた。
不調の理由を考えようとした矢先に、ツェルトはクローネの存在に気が付いた。ベッドの横に椅子を置いて、そこに座ったままベッドの端に顔を伏せて、どうやら眠っているらしかった。
ーーそうだ
一気に記憶が甦って、ツェルトは首をひねった。最後の核を割った後の記憶が全くなく、何がどうなって今に至るのか、見当もつかなかった。
ただ、どうやら自分は生きているらしい。
おそらくは事情を知っているクローネを起こしてあれこれ問おうかと思ったが、もうしばらく寝かせておこうと思い直してやめた。どうしてここで、不自然な格好で寝ているのか。少し考えれば自ずと答えは知れたからだ。
静寂を破ったのはキューンだった。はじめは小さな、不思議そうな鳴き声で。二度目は大きな、はち切れんばかりの鳴き声だった。
「キューーーーーーーーーーーーー!!」
「……うわ、」
思わず耳を塞いだツェルトは「うるさ
い」と文句を口にしたが、キューンにはちっとも聞こえていないようだった。案の定びくりと身体を震わして目を覚ましたクローネは、目を丸くしたまま、放心したように固まっていた。
キューンがひたすら鳴きながらツェルトの髪をわしゃわしゃと乱す中、「えーと」とツェルトはかける言葉に迷った。
「……おはよう、クローネ」
とりあえず挨拶をしてみたら、クローネはくしゃりと顔を歪めた。ああこれは間違いなく泣くなとツェルトは半ば諦めて、怪我の具合を観察した。左頬のガーゼの下の腫れは既に引いた後のようだったが、細かな擦り傷はまだ少し跡が残っていた。
泣き出したクローネに抱きつかれるまで、五秒もかからなかった。
「……ツェルト……良かった、気がっ……気が付いて……っ」
「キューー!!」
「…………」
ひとりと一匹があまりに大げさに騒ぐので、ツェルトはわけがわからなかった。自分はもしかすると、思っていた以上に危なかったのだろうかと不安になる中、唐突に部屋のドアが開けられた。
「なんだなんだ騒がしい」
ドアから姿を現したのは、ゲニアールだった。
「——お? やっと気が付いたのかよツェルト」
白衣姿のゲニアールは、言葉の軽さとは裏腹に、心底ほっとしたという表情をしてみせた。
「……ゲニ? なんでお前がここに?」
疑問を口にしたツェルトに、ゲニアールは「なんでじゃねーよ、アホルト」と応じて、カーテンを開けた。
ツェルトは眩しさに目を細めながら「妙な言葉を作るな」と咎めたが、ゲニアールに取り合う気はないようだった。代わりにひとつため息をついて、
「ツェルトお前、三日も意識不明だったんだぜ? 僕は心配して通い妻のごとく様子を見に来てやったってのに、なんでってなあ。こっちの身にもなりやがれ」
「……三日? 嘘だろ?」
驚いたツェルトに反論したのはクローネだった。ばっと顔を上げて「嘘じゃないですよ。ほんとにもう、全然目を覚ます気配がなくて、どうしようって……!」涙ながらに訴えるので、ツェルトはたじろいだ。
クローネが続けて「ツェルト、痛いところは? 気分が悪いとか、そういうのは?」と問うので、どうにか「大丈夫。なんともない」と答えた。
「本当に? ツェルトはすぐ平気なフリをするから信用ならねーな」
ごまかした事をあっさりゲニアールに見破られて、ツェルトはしぶしぶ訂正した。
「……痛むところはないけど、すげーだるい。気分は、そんなに悪くないかな」
「うんうん。他には?」
「腹減った」
「……おう。そう言うだろうと思ったぜ。食欲があるなら大丈夫だな」
ゲニアールは白衣のポケットに手を突っ込むと、林檎を取り出してツェルトに投げてよこした。ツェルトは林檎をキャッチして、
「お前のポケットの中さ、変な薬品とか入ってないよな?」
「失敬な。僕は劇物の管理はちゃんとするんだぜ?」
ツェルトは袖で林檎を拭いて、一口齧った。
椅子に座り直してなおぐずぐず泣いているクローネに、ゲニアールは「いろいろ食材買ってきてあるから、おチビちゃんは何かつくれ」と命じて部屋から退出させた。
ツェルトの頭の上に乗っていたキューンは、クローネに付いて行った。
ゲニアールは空いた椅子に座って、
「三日も意識不明だったのも、だるく感じるのも、雑に言っちゃえばどれも契約の反動だろうな。すげぇ量の魔法情報を身体に焼かれてダメージ食らってるだけだから、ちゃんと休めばちゃんと治るさ。
飛行プロティストと反発してる可能性もあるけど、いまのところ落ち着いてるみたいだし、たぶん馴染むんじゃねーかな。なんにせよツェルトはしばらく休んどけ。元気になったら馬車馬のごとく働いてもらわなきゃならないからな」
「……契約のこと知ってるのか? あれからどうなったんだ?」
いつになく真面目な調子で話すゲニアールにツェルトが尋ねると、白衣の青年は頭をがりがり掻いて答えた。
「だいたいの事情は、ツェルトが寝てる間におチビちゃんから聞いたぜ。二種族間で契約を結ぶってやつだろ。その契約の結果、あの影が消滅するところもこの目で見た。ツェルト、どこまで憶えてる?」
ツェルトは記憶を追った。契約を結んだ辺りまでは明確に憶えている。そのあとは、四頭のオオカミを相手に無我夢中で音を撃って核を壊した。それから、
「……最後の一体を倒した後から全く憶えてない」
「ツェルトな、落ちたんだよ。意識失ったみたいに。落ちたツェルトに鳥籠から飛び出したおチビちゃんがしがみついて、落下を止めようとした。
おチビちゃんひとりじゃダメだったけど、キューンが一緒に引っ張ってくれたおかげで墜落を免れた。危なかったんだぜ?
近くにいたアツーアがすぐに助けに来てくれたけど、下手すりゃ間に合わなかったかもって際どさでさ。感謝しとけよ」
ツェルトは黙ってゲニアールの話に耳を傾けた。
「——見てた奴らは大騒ぎでさ。尖耳族がいる上、影が倒されたってもんだから仕方ねーけど、うちのくそじじいが来るまで、僕とアツーアじゃ収拾つけらんねーくらいだった。
でも、お前らに手を出すやつはいなかったよ。遠巻きに見るばっかりでさ。あ、ひとりだけ、リヒトのねーさんって人が駆けよってきたけど。
で、えーと、くそじじいが権力振りかざしてその場を収めて、それからツェルトを医務課に運んだ。目を覚まさないし、どうすりゃいいのか分からなかったから、諦めてこっちに連れてきたけど。ああそうだ、おチビちゃんも怪我してたからちゃんと手当てしたぞ。
んで、そのおチビちゃんから事情を聞き出して、今を生きてる尖耳族の潔白と契約の概要について、くそじじいが正式な文書として発表した。ツェルトが三日も寝てたから、もう知らないやつはいないくらい知れ渡ってるぜ」
「……なら、クローネは許されたんだよな?」
「許されたっつーか、もともと無実だからな。ま、国民全員が事態を受け入れられてはいねーだろうけど、一応、尖耳族ってだけで責められるいわれは、もうねーよ」
ツェルトはゆっくり息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。あの混血の少女が、その血を疎まれることなく生きることを許されたのだということに心から安堵した。
そのツェルトを面白そうに眺めていたゲニアールは、「あ、そうそう」と軽い口調で続けた。
「俺とアツーアで契約しようとしたんだけどさ、ダメだった。お姫様の思念に『嘘つき』って言われちまってさ。嘘つきはひでーよなー」
「なんだ? 嘘つき?」
ツェルトは突然の話に面食らったようで、ゲニアールはますます愉快そうにした。
「あの契約、それぞれの相手に対する気持ちが本当じゃねーと、結べないみたいだぜ?」
「なんだそれ」
拍子抜けしたようにツェルトが応じる。
「はやい話、好き合ってないとダメっぽい」
「え? お前とアツーアって、仲悪いのか?」
「…………ちがう、ツェルト。ここは照れるところだ」
ツェルトは一〇秒ほど考えて、やっと意味を理解した。居心地悪そうに顔を逸らしたツェルトを見て、ゲニアールはますます愉快そうに笑い声を上げた。
「ま、恋愛でも友愛でも、なんでもいいみたいだけど。俺とアツーアじゃ、めったに顔も合わせないただの仕事仲間だからな。そりゃダメだわって感じだ。しかも僕はちょっと嫌われてるっぽかったし」
「……お前な」
「いやあ、恋だねえ」
「うざい」
ツェルトは不機嫌そうな声を出して、ふと重要なことに気付いた。
「待て、契約って、どっちだよ?」
「うん?」
「片方が尖耳族じゃないと、契約できないはずだろ?」
ゲニアールはさっき確かに「二種族間で」と言ったはずだとツェルトは思い出す。それを知った上で契約しようとしたというなら、どちらかが尖耳族であるはずだった。
「ああ、僕だぜ」
あっさりゲニアールは答えて、ヘアバンドを外した。
「——ここ、分かりにくいけど縫った跡があるだろ? 子供のときに耳を切り落として、人工の耳をくっ付けてもらったんだ。ツェルトさ、うちのくそじじいの噂聞いたことあるだろ? 局長は密かに尖耳族の子供を引き取って、育てているらしいってやつ」
「…………お前かよ」
「僕なんだぜい」
ツェルトはなんだか一気に疲れた気分になった。
「ゲニって、ほんと隠し事が多いよな」
「なんだよ怒んなって」
「怒ってはない」
「嫌いになっちゃったか?」
「別に」
「そっか」と答えたゲニアールの声は、ツェルトが意外に思うほど嬉しそうだった。すぐにいつもの調子に戻って、立ち上がった。
「動けそうならさ、ツェルトはとりあえず風呂にでも入ってこいよ。気持ちわりーだろ。僕はいろいろやることがあるから、もう帰るぜ」
「忙しそうだな」
「主にツェルトに関連したことで仕事が山積みなんだよ。今後どう働かせるかとかさ」
「……」
ツェルトは露骨に嫌そうな顔をして、ゲニアールは「当然だろ」と呆れたように続けた。
「ツェルトだけが影を倒せる力を身につけちゃったんだぜ? 元気になったら、通常の業務からは外れて、ばんばん働いてもらうに決まってんだろ。覚悟しとけよ」
「……それは、そうなるだろうとは思ってたけど」
「ま、無理はさせねーよ。っていうか、無理させないために、影に優先順位つけて厄介な奴から片していこうってなっててさ、その計画を練ったり、ツェルトに死なれたら困るから安全対策考えたり、なんかそんな感じだよ」
「それ、お前の仕事なのか?」
「まだ名称も決まってねーけど、そのへんを扱う部が新しく創設されてさ。僕が立候補して部長になったんだ。全然知らない奴よりマシだろ? 尖耳族だから、おチビちゃん的にもちょっと気が楽だろうし」
「……ゲニってさ、」
「うん?」
「そういうところ優しいよな」
よせやい照れるぜ、とゲニアールはひとしきり笑うと、ドアの前まで移動し、
「あ、そうそう」と振り返った。
「うちのくそじじい、最近ツェルトに会ったことがあるって言ってたぜ?」
「……最近?」
「犬を連れたじいさんに心当たりは?」
ツェルトはすぐに、クローネの帽子を拾ってくれた人物に思い当たった。
「あー……、あの人か」
「たぶんその人だぜ」
じゃーな、と言ってゲニアールは部屋を出て行って、残されたツェルトは、手に持ったままになっていた林檎を齧った。
どうやら事態は丸く収まったらしく、本来ならもっと穏やかな心持ちになっても良さそうなものを。
ゲニアールが散々に引っ掻き回してくれたおかげで、最後に残ったのは妙な疲労感だった。
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