22
空を裂いたのは、四頭の黒いオオカミだった。
ツェルトは鳥籠から飛び出して、影に向かって笛を鳴らした。
ほとんど同時に、後方の遠くから誰かが笛を鳴らしたのが聞こえて「来るな」と叫んだ。
のどが焼けるように熱い。契約の反動なのか、意識が混濁しそうになる。手足が鉛のように重く感じられて、墜落するかもしれないと思った。
吐く息に、波を乗せた。
知らない音だった。
ツェルトは、契約の際に頭の中に響いた声が、これを歌だと言っていたことを思い出す。実際に耳に聞こえた音は到底歌とは思えないものだったが、いくつもの音階が溶け合っていて、確かに、何か意味を成しているように感じられた。
オオカミが動く。
前方から四頭、菱形をつくって、真っ直ぐに飛び込んでくる。
ツェルトはそれを上空に飛んで躱し、背後に回った。
息を吸い込み、加減も分からぬままに、オオカミの背に向けて、音を放った。
——あれが……核?
三頭の影が球体のように削れて、一番上のオオカミの心臓の辺りに、艶やかな、赤色のガラス玉のような物があるのをツェルトは見た。それは、影の巨体には不釣り合いな小ささで、何かに例えるなら————
一番下にいた一頭はほとんど原型を留めたままだった。
ツェルトを追って、一気に駆け上がってくる。
弾かれたように、ツェルトは後方へ飛び上がった。
十分距離を置いた高さで背を反らして翻り、四頭の位置を確認した。
一番近く、鉛直より三〇度ほど外れた位置に一頭。
その後ろに、背中を抉られた二頭が並んで追ってきている。
更に遠くにいる体を半分失った一頭が、前足だけで地面を蹴ってもがいているのが見えた。削られたはずの体が、幾分か回復していて、もう核は見えなくなっていた。
外れた位置に、影以外の姿をひとつ見つけた。
——なんだ、さっきの笛はアツーアか。
知り合いのコマドリが、影が削られる光景を見てどう思っただろうかとツェルトは考えて、少しだけ愉快な気分になった。
はっきりしてきた意識を集中させて、一番近くのオオカミに狙いを定める。
上手くいくか一瞬だけ不安がよぎって、それを振り払った。
揺れる笛を捕まえて、一度だけ鳴らした。
まっすぐ飛び込んだ。
正面から影を音で撃ち抜いて、消し飛んだ体の中に核を見つけた。
速度を落とさず手を伸ばし、赤いガラス玉を掴む。
核は嘘のようなあっけなさでぱりんと割れた。
目の前に残された黒い体が迫って、ツェルトはピーコック・ターンで右に逃れようとした。——が、死んだ影は真っ白になって渦を巻き、ツェルトはその爆風に巻き込まれた。
渦からを脱出しようとしたが、焦って上手くできなかった。
そのうちに白い渦が散って、下から、二頭のオオカミがすぐそばまで迫っていることに気が付いた。
ツェルトは周囲の熱を根こそぎ奪って速度に変える。
二頭の間を一瞬で抜けて、未だにもがく残りの一頭を目指した。身体には妙な回転がかかったままで、かなり強引に加速したせいで内蔵には押しつぶされるような痛みが走った。
息を吸い込んで、撃った。
核へ手を伸ばして掴み、ぱりんと割れる音が聞こえた瞬間に軌道を逸らして、爆風から逃れた。残りの二頭が上にいることを確認して、身体を安定させた。
ツェルトはようやく、影と渡り合えていることを実感した。
もう、逃げるだけではない。
追われる立場は追う立場に変わった。
影にとっての制限時間は、いまやツェルトにとっての制限時間だった。
思わず笑ってしまいそうになる高揚感と、吐きそうなくらいの疲労感。
その両方をツェルトは押さえ込んで、残りの二頭に向かって飛んだ。
右にした。
腹側から撃ち込んで、最初の一頭と同じ要領で核を破壊する。
そのまま上に突き抜けようとして、わずかに速度が足りなかった。
どうにか熱から速度を得ようと足掻いたが間に合わずに爆風に飲まれて、知覚できた力を片っ端から支配下においてすべて相殺させ、渦の中で身体を停止させた。
渦巻く白い影の中で、最後の一頭が自分目掛けて飛び込んで来るのをツェルトは見た。
オオカミが大口を開けて、上下から牙が迫り、ツェルトはそれを迎え撃った。
もう動く気力もなかったが、核は勢いのままツェルトに向かって飛んできた。
右手で受け止めた。
——そうだ、林檎に似てるんだ。
ぱりんと割れたその音は、きれいに澄んでいた。
最後の一頭の白い渦の中で、ツェルトはもう、限界だった。
何も考えられないくらいに頭がぼうっとして、無抵抗のまま風に殴られた。手足の先が痺れて力が入らず、胃に不快感を感じた。吐きそうなのに喉がカラカラに乾いて、林檎を食べたいと思った。
渦が止んで、全部が終わったら落ちてしまうなと考えて、実際にその通りになった。
背中から落ちながらちらりと下を見やったら、クローネがいるはずの鳥籠のすぐ近くに落ちていっているらしいと気が付いた。さっきまでろくに焦ることもできなかったくせに、落ちるところを見られるのは情けないなとそんなことに頭が働いて、バカじゃないのかと自分がおかしかった。
鳥籠から身を乗り出したクローネと目が合った。
名前を呼ぶ声がやけに遠くに聞こえて——何を思ったのか、クローネが窓枠に足をかけた。そのままクローネは少しの躊躇いもなく窓枠を蹴って、ツェルトの体に飛びついた。
「何してるんだバカかお前」と心の中で毒づいたあと、ツェルトはすぐにクローネの意図を察して途方に暮れた。
クローネは自分を引き上げようとしていた。小さな身体の、体重分の引力をすべて上へ向けて。それしかクローネにはできないはずだった。けれどそれでは、せいぜい加速が弱まるだけで、あまりにも体重が足りない。
このままではクローネまで墜落してしまう。そう思って止めさせようと思ったが、ツェルトはもう声を出すことすらできなかった。頼むから離してくれと思うのに、クローネは必死にしがみついて、離してくれなかった。
——でもまあ、地面のぶつかる直前にでも離してくれれば、クローネは助かるかな。
ツェルトは、ぼんやりとそんなことを考えて、クローネだけが生き残ってしまった時のことを心配した。心の中で謝って、せめて影を一度でも倒したという事実が、クローネを守ってくれるといい——と、そんな願い事をした。
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