19

 

それからツェルトは仕事までの間、クローネに飛び方の続きを教えた。


 リヒトか死んだ瞬間を目撃して、さすがにクローネも諦めるかも知れないとツェルトは思っていたので、クローネに教えて下さいと言われたときには驚いたものだった。


「私が影と戦うのは無理かも知れないって、思い知らされました。でも、せっかく習いはじめたのに、途中で投げ出すのは嫌なんです。だから、お願いします」


 頭を下げるクローネに、ツェルトが「契約はどうするんだ?」と尋ねると、クローネは少し困ったようだった。


「契約のことは、もう少し時間を下さい。まだどうするべきか、悩んでいて……。ツェルトが結んでくれるのが、一番いいと思うんです。でも、やっぱり危ないだろうし、それに、ひとりだけ影を倒せるようになったら、もしかしたら酷使されるんじゃないかって、そう思うと決心がつかないんです」


 ツェルトは頷いて、それ以上追求しなかった。


 不安定ながらクローネは三〇秒間浮遊できるようになっていたので、次は上昇だった。今まで釣り合わせていた力を、ちょっと上向きの力が多くなるように調整するだけだとツェルトは簡単そうに説明したが、クローネは相変わらずで、上達には時間がかかりそうだった。


 


 昼を過ぎて、いつもより遅い時間にツェルトは家を出た。リヒトが抜けた穴を埋めるために、勤務時間が調整されていたからだった。


 帰るのが遅くなるという話をツェルトがすると、クローネは心配そうに「気をつけて下さい」と言って、雨避けの魔法をかけてくれた。


 おまじないに近いものだから完全には雨を防げないという話だったが、待機塔に行くまでの間だけでも目に見えて効果があって、ツェルトは感心した。


 籠の中で交代を待っていたコマドリは、ツェルトの同期で、几帳面が売りみたいなクールな女性だった。


 いつも交代の際に、局で聞いたらしい影の出現予定回数から自分が処理した数を差し引いて伝えてくれるのだが、今日もまた、


「シカ七、オオカミとヘビが五、クジラは三、カラス零、ガも零」


 と、事務的に報告をしてくれた。ツェルトが礼を言うと、そっけない感じで彼女は質問を返した。


「あした、リヒト君の葬儀に出るんでしょう?」


「うん? まあ、朝だけな」


 頷いたツェルトに、


「交代が遅れても構わないから、最後まで出てあげて」


「……そうさせて貰うよ。ありがとう、アツーア」


 彼女は一度頷いて、じゃあ、と言って鳥籠から降りて行った。





     ◆





 四時頃になって雨が止んだので、クローネは気分転換を兼ねて買い出しに出た。

 途中でふと思い立って、散歩がてらいつもと違う道を歩いてみたら、


——あ、ここ、私がツェルトに助けられたところだ。


 あの時の場所に偶然たどり着いた。


 確かここに立っていたはずだ、というところに立って空を仰ぎ、クローネは虹を見つけた。


 ツェルトはあの待機塔には居なくて、代わりにもっと遠くの方で飛んでいるのが見えた。


 家を何軒も飲み込んでしまいそうな巨大なクジラの影を相手に、相変わらずのびやかに、悠然と飛んでいた。


 自分とは、何か根本的なところで違っている別の生き物のようだとクローネは思う。影が消えるまでその様子を眺めて、クローネはほうっと息を吐いた。


 ツェルトだけは、影に捕まらない気がした。


「おや。君はあの時の、帽子を飛ばされた子じゃないかね?」


 突然声をかけられて驚いたクローネは、振り返ると同時にわんと吠えられた。


「わ、わん?」


 見覚えのある、おじいさんと犬だった。


「こんにちは」


「……こんにちは」


 挨拶を返したあとで、クローネは青くなった。


 いまこの人は「帽子を飛ばされた子」と言った。


 それの意味するところに気付いて、クローネは「走って逃げよう」と思った。


「この子が帽子を拾ってくれたんじゃよ。また飛ばされたりせんようにな」


 心配するような言葉をかけられて、逃げよう、という気持ちは急速にしぼんだ。


 賢そうな表情をした“この子”に目をやる。


 そっと手を伸ばしてその頭に触れ、


「……あ、ありがとうございました」


 クローネがお礼を言うと、犬はわんと小さく吠えて返した。


「おじいさんも、ありがとうございました。あの、わたし、」


「余計なことは言わんでいい。わしはその帽子の下を、見とらんかも知れんじゃろう?」


「……はい」


 優しく微笑まれて、クローネは大人しく黙っておくことにした。


「なんにせよ、無事で良かった。あのコマドリは、君を管理局なんぞに突き出したりせんかったようじゃな」


「そんな。それどころか、すごく良くしてくれています」


「それを聞いて安心した。君のような子は、ここでは生き辛いじゃろうからな」


 クローネは戸惑っていた。よくわからないが、この老人は随分と尖耳族に好意的なようだった。


「あの、おじいさんは、私たちのことを悪く思ってはいないんですか?」


 その問いには答えずに、老人はひげを撫でて、


「ちょっと、そこに腰掛けても良いかね?」


 民家の塀の、小さな段差を指差した。


 クローネの返事を待つことも無く老人が腰掛けたので、クローネもそれに倣って隣に座った。


「この老いぼれのさらに祖父さんが、子供だった頃の話じゃよ。わしらは耳の尖った人たちから、この国を取り上げた。恨まれて仕方のない仕打ちをした。


それは今となっては、どうにも出来んことじゃ。影は恨めしい存在じゃが、今の君らにはどうにも出来ん相手だということも、わしは知っておる。恨みばかりが残って、とうとう君らの代にまで引き継がれてしまった。……そのことを、わしは申し訳ないと、そう思っとるんじゃよ」


 すまんな、と老人が頭を下げようとしたので、クローネは慌てて止めた。


「そ、そんな、謝らないでください! おじいさんは何も悪くないのに」


 クローネの言葉は、老人にやんわりと遮られた。


「いやな、わしがまだ若かったころに、あれが、影が、過去の人の命令で動き続けているものであると、わかったんじゃよ。わかったのに、それをすべての人に信じてもらうことはできんかった。すべての人どころか、聞く耳をもってくれたのは、ほんの一握りの人たちだけじゃった。


証拠がなかった。きっかけがなかった。もし多くの人に、この話を信じてもらえていたなら、今の君らは、少しでも生きやすくなっていたじゃろうに。わしの力が足らんかったばかりに、何も変えることができんまま、子供たちに要らん荷物を残してしまった」


「——あの、わたし、」


「君らのことを、悪く思っとるはずがない」


 最後に老人はクローネの問いに答えて、しばらくの間、沈黙が流れた。


「そんなことを知っているなんて、おじいさん何者なんですか」


 クローネの問いに、老人は笑って


「わしか? わしはただの散歩好きなじいさんじゃよ」


 と答えた。


 期待したような答えは得られなかったが、クローネは老人の話に応えるように、尋ねてみた。


「おじいさん。もし、何かきっかけがあったら、何か証拠を示せるものがあったら、人は変わってくれるでしょうか。私、もしかしたら、それができるかも知れないんです」


 クローネの言葉に老人は驚いたようだった。


「それはいったい、どういうことかね?」


「……いえ、まだ、うまくいくか、わからなくて。いろいろ問題があって、すぐにはできないし、ただ、ただ可能性があるっていう、それだけなんですけど」


 しどろもどろに答えたクローネの言葉を老人はじっと聞いて、それから柔和な笑顔を浮かべた。


「絶対に、とは言い切れんよ。じゃが、人の心は変わるものじゃよ。わしはそう信じとる。それにな、何かを恨み続けるというのは、人を疲弊させる毒じゃ。きっかけを作れるなら、どうか作って欲しい。誰もが心の奥底で、それを願っておるんじゃないかと、思っとるよ」


 その言葉は、ゆっくりと心に染みわたって、クローネを勇気づけた。


「……ありがとうございます。おじいさんとお話しできて、よかった」


 別れ際に老人は「なにか困ったことがあったら訪ねておいで。わしもできる限り、力になろう」と言ってくれて、クローネは嬉しかった。




 遅い夕食のあとで、クローネはその日の練習の成果を披露した。


 成果といっても、上達と言えるほどの上達はなくて、いちおう上昇できたものの実に怪しいコントロールだった。スピードが安定しなくて、上手に止まることもできすに天井に頭をぶつけ、クローネはツェルトに笑われた。


「まあ、こんなもんだろうと思ったけど」


 呆れたようにツェルトは言って、それから思いがけない提案をした。


「がんばれよ。それが上手くできるようになったら、ご褒美に何か買ってやるから」


「え?」とクローネは素っ頓狂な声をあげた。「それは、プレゼントってこと?」


「まあ」


「ほんと?」


「忘れてたけど、この前誕生日だったんだろ? だから、誕生日プレゼントも兼ねて。えーと、帽子がいいかな。せっかく可愛い服着ても、帽子が合ってなくて台なしだろ? 何か、服に合う可愛いやつな」


 クローネは帽子そのものよりも、ツェルトがそんな提案をしてくれたことが嬉しくてたまらなかった。


「——だから、がんばって練習しろ。明々後日が休みだから、できればそれに間に合うように」


「えっと、ちなみに、どれくらい上手にできるようになったら合格ですか?」


「一定のスピードで安定して上昇できるようになったら、だな」


 なかなかに難しい、とクローネは思ったが、モチベーションが一気に上がって「はい!」と大きく頷いた。




 それから丸二日必死に練習して、どうにかクローネは一定のスピードで上昇できるようになった。


 ゆるゆると遅いスピードだった上、危なっかしい様子ではあったものの、力のコントロールに一応の成長が見られたということで、ツェルトは及第点をくれた。


 クローネは、明日が楽しみでならなかった。




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