第5章 瑠璃色の憂鬱

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 クローネとツェルトは日没を見届けたあと、郊外の墓地から歩いて街まで戻っていた。


 キューンは途中で、まるで拗ねたような声で鳴いてどこかへ飛んでいってしまった。


 道すがらツェルトは兄の話をして、街中まで戻ってきた辺りでクローネに両親について尋ねた。


 父も母も健在だとクローネが答えると、安心したように笑った。クローネがたったひとりで街にやってきたために、もしや既に他界しているのかと思って聞けなかったらしい。


 兄の死を明らかにしたことで、やっと聞けたのだと言った。


「私は早く街に出て、契約して、影をどうにかしたかったのに、ずっとお母さんやお父さんに反対されていたんです。お父さんがだいぶ前から足を悪くしていて動けなくて、お母さんも看病で離れるわけにはいかなかったから、一人で行くしかなくて、でも一人で行かせるわけにはいかないって」


「そりゃそうだろ」


「それで、私も危ないって分かっていたし、心配してくれているのも分かったから、じゃあ何歳になったら許してくれる? それまでは待つからって言ったら一六歳って」


「一六になった途端に飛び出して来たのか?」


「だって五年も我慢したんですよ?」


「五年もあったなら、何か策を練ってこいよ策を。何かなかったのか?」


「うう。何も思いつかなかったんですよ。それに、ちょっと楽観的に考えていたというか、きっと事情を話せば分かってもらえるって思っていたんです。お母さんは、立場の違いはあっても、船人にも優しい人はたくさんいるって言っていたから」


 クローネの声は、最後は小声だった。街灯に照らされる時間になっても、辺りにはまだたくさん人が歩いていたからだ。


 船人などとわけの分からないことを言っていたら不審に思われるかも知れないと心配だった。「裏通りに行きませんか」とクローネは提案しかけたが、もう暗いのにわざわざ街灯のない裏通りを歩くのも不審に思われそうだと思ってやめた。


「お人好しだな。危なっかしい」


「でも実際にツェルトさんは私を助けてくれて、話を聞いてくれて、いまは心配までしてくれてるじゃないですか」


「………………うるせえよ」


 機嫌を損ねてしまったようなので、クローネは話を変えて「晩ご飯、何がいいですか?」と尋ねた。


 既にツェルトがいつも担当している大通りにまで帰ってきていたので、リクエストによっては市場に寄って買い物をしていこうと考えていた。


 ツェルトは簡単に機嫌を直して、


「んー、なんでもいいのか?」


「私が知っているものであれば。たいていの物はつくれると思います」


「そう言われると悩むな」


 子供みたいに笑った。


 悩むツェルトの隣でふと視線を上げたクローネは、遠くの鳥籠から誰かが手を振っているのを見つけた。


「あ、リヒトさんだ」


 鳥籠から手を振っていたのは、ツェルトの後輩のリヒトだった。


「ああ、そっか、もう六時過ぎてるもんな」


 ツェルトが顔を向けた途端にリヒトの手の振り幅が明らかに大きくなって、わかりやすいな、とクローネは笑った。


 それから、リヒトが居る待機塔の下の辺りから、女の子の泣き叫ぶ声が聞こえて来て、リヒトの注意がそちらに向いた。迷子らしく、大きな声で父親を呼んでいた。心細さが膨らんで、我慢できなくなったようだった。


 女の子の周囲もざわついて、小さな騒ぎになっていた。


「——影が出ないうちに、親に会えるといいけど」


 ツェルトが、腕時計を見るみたいに、左手に巻いていたバンド状の何かを覗き込んだ。それに嵌め込まれているものが赤く光ったのをクローネは見た。


 まずい、とツェルトが呟いて、駆け出した。クローネはよくわからないまま、慌てて後を追いかけた。


 たいして近づきもしないうちに、回転針が止まった。


 下へ向かってリヒトが笛を吹いて、注意を促す。


 リヒトの居る鳥籠のもっと上の方の空が割れて、黒色の影が溢れるように出てきた。


 空を見上げるツェルトに少し遅れて追いついたクローネは、空を仰いだ。


「うわ、ガだ。多い」


「……っ」


 子供が手を広げたくらいの大きさの、蛾の影の大群だった。一匹一匹に、横に裂くような真っ赤な口と白く濁った目玉が一つずつ付いていた。黒い躯は暗闇に溶けて、口と目だけが嫌にはっきりと見えて蠢く。


気味の悪さにクローネは息を飲んだが、その口は既にツェルトの手で押さえられていた。


 女の子は、まだ泣いていた。



 リヒトはすぐに下へ降りて女の子を抱き上げ、地面に弾かれたみたいな勢いで空へ飛び上がった。


「手伝ってくる。大人しくしとけよ」


 小声でクローネにそう言って、ツェルトは次の瞬間には上空で笛を鳴らしていた。


 リヒト達を飲み込もうと動いていた影の一部が、その音に反応した。


 二分された大群は、それぞれ波打つように動きながら二つの笛の音を追う。


 距離が狭まると数にまかせて囲い込むように広がり、逃げ道を奪った。


 クローネは怖くなって、壁に寄って背中を預けた。


 ——危ない。


 影が広がる動きを見せるのは、決まってリヒトだった。


 ツェルトは近づけさせすらしなかった。


 見ていられない、と思いながらも、クローネはリヒトから目を離すことができなかった。


 リヒトは何度も追い込まれ、その度に群れの隙間から飛び出して逃れていた。


 けれど。


 上空で、ツェルトがリヒトの名を叫んだ。


 きっともう影がいなくなるまで数秒だった、とクローネは思う。


 クローネのすぐ近くの空でふたりは影の大群に飲み込まれて、飛び出して来なかった。


 代わりに意識のない肉塊になって、影の群れから墜落した。


 リヒトは女の子を庇うように、その身体を抱きしめていた。


 落ちてくるふたりを避けようと、道に居た人々が輪のように広がる。


 嫌な音がした。


 人垣の向こうで赤いものが広がったのをクローネは認めたが、それでも誰もが沈黙を守り、冷たい静寂が響いた。


 獲物を仕留めた影は残ったひとつの笛の音に狙いを定め、さらに大きな波のようになってツェルトを追った。たいして時間も経たない内に、散り散りになって空へ帰っていった。


 街にざわめきが戻ってきて、男の声が、クローネの知らない名前を呼んだ。


 その人は、リヒトの腕から奪い取るように女の子を抱き上げて、何度も何度も名前を呼んだ。


 女の子の父親だった。


 ツェルトがクローネの横に降り立ち、「先に帰ってろ」と言って、クローネの手に鍵を握らせた。


「ツェルトさ……ツェルト。リヒトさんが……」


 泣きそうな声で呟くクローネに「大丈夫だから」と言って、すぐにツェルトはざわめく人の輪の中に消えていった。


 ツェルトは周囲の人々に、しばらくは自分が代わりの嚮導員を務めると告げて、それから、女の子の父親に謝罪した。激昂した父親に胸倉をつかまれても、それ以上は何も言わなかった。ただ黙って、父親を見ていた。やがて父親は力を失ったように手を離し、女の子の身体を抱きしめて、また名前を呼んだ。


 クローネは立ち尽くしてその様子を呆然と眺めていたが、誰かが呼んで来たのか、管理局の制服を着た男がふたり駆けつけて来るのに気付いて我に帰った。


 真っ白になっていた頭に思考が戻ってきて、震える身体をむりやり動かして、裏通りに隠れた。


 足早に歩いて、ふっと喧噪が掻き消えた途端に、言いようのない恐怖がせり上がって来て、クローネは走り出した。


 走り出してからはもう、止まらなかった。よく知らない道を、およその方角を頼りに、めちゃくちゃに走り抜けた。知っている道に出て、立ち止まった。わずかな安心を感じた瞬間に、涙が溢れて来た。


 息が上がって苦しくて、嗚咽も出そうになったが、クローネは少しだけ呼吸を整えて涙を拭うと、頭の中から余計なことを振り払って、再び走り出した。


 そしてツェルトの家に辿り着くと、逃げ入るように、その中へ飛び込んだ。


 いったい何を、自分はこんなに泣いているのだろう、とクローネは思う。


 リヒトが死んでしまったことが悲しかった。リヒトが影に飲み込まれた光景が、そして地面に墜落した光景が、怖くて仕方がなかった。けれどそれとは別の、漠然とした恐怖と不安と悲しみが、波のようにクローネに押し寄せて、それがどうしようもなく耐え難かった。


 最後に窺い見たツェルトの瞳が、いっそ綺麗なくらいに、透明だった。何も見ていないような、ずっと遠くを見ているような、心なんてどこにも無いみたいな、そんな目をしていた。


 空っぽみたいだった。


——私はいったい、誰を、何を、見ていたの?


 砂の城が、波にさらわれてしまったみたいなあっけなさで。


 自分が頼りきっていた相手は、平気そうな顔の裏で、とっくの昔にボロボロになっていたのだと気付いた。兄を失い、仲間が次々に消えていく中で、傷ついていないはずがなかったのだ。


 お墓参りのときだって、まるで死がすぐそばにあるような物言いをしていたではないか。


 ツェルトの抱える危うさに初めて気が付いて、クローネは涙を流した。


——先輩のこと、よろしくお願いしますね。


 ふと、リヒトの言葉が耳に甦った。


 クローネはようやく、その言葉の意味を理解した気がした。


 ツェルトはいま、どんな気分で飛んでいるのだろうか。それを考えると、クローネは心配でならなかった。けれどすぐに、ここへ帰ってくるはずだ、と思った。


 どれくらい遅い時間になるのか見当も付かなかったが、それでも、待っていればツェルトはこの家に帰ってくるはずだった。それなら、せめて自分にできることを、ちゃんとやって待っていようとクローネは思った。


 だって、とクローネは自分に言い聞かせる。


——リヒトに頼まれてしまったのだから。

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