10


 九時半を過ぎて、ツェルトは家を出ることにした。仕事の時間にはまだ早かったが、研究所の友人に「面白いものを作ったから見に来いよ」と言われて約束していたからだ。ついでに所長——兼館長にも、会えるかもしれないと考えてのことだった。


「外に出るなら、鍵は玄関の棚にあるか

ら。俺はだいたい窓から出入りするから気にしなくていい」


クローネは、


「出歩いてもいいんですか?」


と、尋ねた。


「正体がばれなければ。しくじるなよ」


クローネは口を噤む。


「転ばないように気をつけて、帽子を飛ばされないように気をつけて、あとは影が出たら黙ればいいだけだ。そんなに難しいことじゃないだろ?」


「……はい。気をつけます。でも、私が出入りしているのを見られたら、近所で噂になったりしませんか?」


「そのときは適当に言い訳する」


「……兄貴の隠し子だ、とか?」


「そう。あれ、意外と通用しそうだったよな」


 じゃあ、いってきます、と窓枠に飛び乗ったツェルトは、クローネに呼び止められた。


「なに?」


「あの、キッチンを使ってもいいですか?」


「いいけど?」


「お世話になる以上、できることはやります。家事は母に仕込まれましたし、せめてもの恩返しに、夕食をつくって待っています。帰る時間は昨日とおなじくらいですよね? あの、その、ご迷惑でなければ、ですが」


 迷惑なはずがなかった。


「へぇ。それはいいな。楽しみにしとく」


 答えて、ツェルトは今度こそ飛び立った。



     ◆



 ツェルトを送り出してから、クローネはまずお風呂に入ることにした。


 その前に、と、クローネは二階へ上がる。自分が寝かされていた寝室とは別の部屋の扉を開けた。中を覗くと、少し小さめのベッドと机にイス、それとクローゼットの扉が見えた。


 机の上に鞄を置いて、クローネは椅子に座った。


「……やっぱり、そうなのかな」


 食事のあとツェルトは、二階のもうひとつの部屋を自由に使って良いと言った。いまは使っていないが、ベッドも机もあるから、と。それがいまクローネがいる部屋なのだが、何の部屋なのだろうか、と考えてみると、クローネが思いつくことは一つしかなかった。


——料理できないって言っていたのに、キッチンには道具が揃っていたし……


 うーん、と首をひねってから、クローネは勝手に創造するのをやめた。違うかもしれない、と思う。


 立ち上がって、ベッドを確認する。シーツがかけられていなかった。クローゼットを開けてみて、クローネは畳まれたシーツを見つけた。少し悩んでから、長いこと使われていなさそうだったので、一度洗うことにした。


 それから寝室に行った。「クローゼット漁っていいから、適当に着られそうなやつ着て」と言われていたので、少しためらったものの言われた通りにした。ついでに、自分が使ってしまったので、寝室のベッドのシーツも洗うことにした。


 シーツと服を持って降りて、お風呂場へ向かった。


 まずシーツを洗って、それから服を脱いでそれも洗った。


 シャワーを浴びると、汗と一緒に、昨日までの苦労も流れていくようだった。


 三日かけて歩いて来て、入浴できたのは最初の日の夜だけだった。郊外の家から一日歩いた先の街の西端には、わずかだがクローネに好意的に接してくれる知り合いがいて、その家に泊まらせてもらったのだ。そういう相手がいたのは、両親の人望のおかげである。父と母はそれぞれの知識を生かして、ときどき医者のようなことをしていたのだ。


 特に、尖耳族の薬草術は高度だったし、王家の血を引いているという父の魔術は見事なものだった。


——王家。


 確かめる術はなかったが、クローネはその話を信じていた。そうでなければあの本が家にあったことの説明がつかなかったからだ。尖耳族の王家の人間と、船人である母が一体なぜ結ばれることになったのか。


クローネが尋ねると、母は詳しくは語らず「それはそれは素晴らしい大恋愛だったのよ」と答えたものだった。いま思うと、あれは母なりの照れ隠しだったのだろうと思う。


 長い間、父が薬草の採取と調合を行い、母がそれを街へ運んで処方するという方法を取っていた。父が足を悪くしてからは、薬草の採取は主にクローネの仕事だった。


——あとの二日間は、泊まれるところなどなかった。魔法陣を描いて結界を張り、野宿した。当然ながらお風呂などなかったので、川の水で濡らした布で、身体を拭いただけだった。


 お風呂から上がって、クローネはツェルトから借りた服を着た。


 シャツもズボンも明らかにクローネには大きかったが、サスペンダーを見つけたのがラッキーだった。シャツを着てズボンを吊り下げ、裾を折ってどうにか着た。


「……そんなに変じゃないよね」


 自分の姿を見下ろして、クローネは独りごちた。



 洗ったシーツと服をバルコニーに干しにいくと、外は、嬉しくなるくらいの快晴だった。


——あっという間に洗濯物が乾いちゃいそう。


 雲ひとつない蒼い空と、キラキラ光る碧い海が、遥か遠くの水平線で溶けていた。


 今朝ひとつ気付いたことがある、とクローネは思い出す。ツェルトの瞳が蒼かったのだ。髪が黒いからてっきり瞳も黒いものと思っていたのに、意外だった。


——空みたいな色だった。


 クローネがご機嫌な足取りで居間に戻ると、キューンがソファで丸くなって寝ていた。クローネは窓の側に立って伸びをする。


 それから、結い上げた髪を中に入れるようにして帽子を被った。少し脱げにくくなった気がする。


「転ばない。帽子を飛ばされない。影が出たら黙る。……よし!」


 ツェルトの忠告を復唱して、クローネは居間を後にした。


 玄関を出て鍵をしめる。


——あれ?


 そこでクローネは、ふと気がついた。


——昨日は帽子を飛ばされてしまったし、影を見て悲鳴を上げたけど、ツェルトさんの前で転んだっけ?


 何もない所で転んだのを見ていたのだろうか、とクローネは恥ずかしくなった。





 クローネは、迷わず市街地まで辿り着いてほっとした。道は憶えていたものの、昼と夜では印象が違うだろうな、と少し不安だったのだ。


 市場はどっちだろう、と、不審がられない程度にきょろきょろしながら通りを歩いた。一番賑わっている目抜き通りはさすがに避けた。それでも歩いている通りには、いくつもの屋台や露天商が並んでいて、クローネは誘惑に負けないようにするのが大変だった。両親が渡してくれたお金はあるけれど、無駄遣いするわけにはいかなかった。


 そんな風に通りを歩いていると、トントン、と急に肩を叩かれて、クローネは驚いた。


 振り返ると、


「俺です俺! 昨日の!」


 後輩くんがいた。


 クローネはラッキーだ、と思った。今日はなんだかついている。


 考えてみれば、クローネはツェルトのことをたいして知らなかったのだ。林檎が好きらしいことは分かったが、他に何が好きなのかとか、逆に苦手な食べ物はあるのかとか、知らないことが多すぎた。この後輩くんに聞けば、大抵の情報は得られる気がした。




——実は夕食を作ることになったのだ、という話を、クローネが詳細をごまかしつつ説明すると、リヒトと名乗ったツェルトの後輩は、「カノジョがつくってくれる初めての手料理」的な勘違いをしてくれた。


 お昼時だから、とリヒトはクローネに屋台のクレープを奢ってくれて、海沿いにあるという市場に案内しながら、聞かれもしないうちからぺらぺらと、


「やっぱペスカトーレですよペスカトーレ! 先輩すごく好きだから。貝はあさりとかムール貝じゃなくて帆立がいいです。殻が面倒みたいだから。あとはエビとイカですね。オレガノはあまり入れすぎないよう気をつけてください。

あとは量です。先輩はもともと食べるほうだけど、俺らってちょっとキツいくらい食べてないとがんがん痩せちゃうんですよ。これでもかと作ってください。余っても、たぶん次の日の朝には食べちゃいますから」


 と、そんな勢いで、サラダに使う野菜は何がいいとか、スープの具材はあれがいいとか、実に多岐にわたってツェルトの好みを語ってくれた。初めは感心していたクローネが、だんだん怖くなってくるくらいだった。


「デザートにシナモンたっぷりの焼き林檎を出せば完璧! これぞパーフェクトなメニューです。胃袋キャッチ間違いなしです。がんばってください。応援してますから!」


「——あ、ありがとうございます。がんばります!」


 クローネが気圧されつつも、リヒトと同じくらい元気良く返事をすると、リヒトはにっこり笑った。それから声の調子を下げて、先輩って、と言った。


「いや、先輩に限らず、コマドリってちょっと人から距離を置く人が多いんですよ。身内がいない人も多いし。俺はそうでもないんですけどね。あと、一部の人は逆に遊びまくったり。早死にする人が多いから、心配とか苦労とか、かけたくないみたいで。ほら、コマドリってけっこう給料いいじゃないですか。あれも穿った見方をすると、死ぬ前にせいぜい遊んどけって言われてるみたいで。いや、もちろん、そんな理由だとは思ってませんよ。でもやっぱり、命を懸けてるから高いんですよ。だから、人とは距離を置きたいって気持ちも分からなくはないんですが、俺は、甘えればいいと思ってるんです。だから——だから、俺、すごく嬉しいんですよ。先輩のこと、よろしくお願いしますね」


「……リヒトさん、本当にツェルトさんのことが好きなんですね」


 やっぱりリヒトはにっこり笑った。


「そりゃ、先輩すごいですから! お兄さんもすごかったけど、たぶん今のコマドリの中で、一、二を争うくらい速くて、自由に飛べる人ですよ!」


 そう言った声は、もとの調子に戻っていた。


 クローネは「実は恋人と言うのは嘘なんです。強引にお世話になってるんです」と言い出すことなんてできなくて、罪悪感を感じながら黙った。


「ところで」

 リヒトの声にクローネは顔をあげる。


「どうして先輩の服を着てるんですか? ぶかぶかだし、男の子みたいになってますよ」


 まあ、その帽子のおかげで誰かわかったんですけどね、とリヒトは続けた。


「……いろいろ事情があって、自分の服がないんです」


「服がない?」


「はい」


「まったく?」


「……はい」


 クローネは、それ以上は聞かないでくれ、と目で訴えた。リヒトは少し考えるようにして、


「——ああ、じゃあちょうど良かった。もう、すぐそこが市場だから、買い物しながらちょっと待っていて下さい。そのうち戻ってきますから」


「……え?」


 不思議そうに首をかしげたクローネににっこり笑って、リヒトは屋根の上へ消えていった。

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