第3章 オレンジ色の食卓

09


 翌朝ツェルトは、二階がなにやら騒がしくて、目を覚ました。


——なんで俺、ソファで寝てるんだろう。


 寝ぼけた頭で一瞬考えて、すぐに昨日の一連の出来事を思い出す。


「んー……」


 ツェルトは身体を起こした。壁にかかった時計を確認すると七時過ぎだった。

 上階の騒がしさはまだ続いている。何か言っているが、聞き取れない。


 昨日の夜、二階のベッドにクローネを寝かしたから、騒がしさの原因はまずクローネだろう、とツェルトは適当に考えた。あるいは、キューンも二階にいるはずだから、一人と一匹で何かをしているのか、と。


 ツェルトは「なんだろう」と思ったが、たいしたことでもない気がしたし、確かめに行くのも面倒だった。


 一〇秒待った。


 一向に騒がしさが収まらないので、様子を見に行くことにする。


 居間を出て階段を上り、寝室の扉の前まで行くと、声が聞き取れるようになった。「おーろーしーてー」と言っている。


——降ろして?


 扉を開けると、キューンがクローネの右手を掴んで、部屋の中を飛び回っていた。


「……何やってんだよ……」


 呆れて呟くと、ツェルトの存在に気付いたクローネが、


「あ、おはようございます!」


 と、キューンにぶら下がったまま、元気に挨拶をした。

 とりあえず、もう泣いてはいなかった。



「いや、えっとですね、目が覚めて、部屋を見回したら、カーテンの隙間から光が射し込んでいて、ああもう朝なんだ、って思って、起きて、カーテンを開けてみたら、バルコニーの向こうに海が見えて、朝日がきらきら反射してすごく綺麗だったんです。それで、外を見ていたら、キューちゃんが起きてきて、私の近くでくるくる飛んで、それを見て、私も飛べたらいいのになって呟いたんです。そしたら、あんなことに」


 キューンにクローネを降ろさせて、階段を下りる途中で、クローネはわたわたと説明をした。


 昨日はあんなに理路整然と話をしていたのに、今度はずいぶん要領を得ない話し方をするな、とツェルトは不思議に思った。


「……あー、昨日の夜にめちゃくちゃ泣いてたから、遊んでやって元気づけようとか思ったんじゃないのか、たぶん」


 ツェルトが、居間の扉を開けながら振り返って言うと、クローネは一気に耳まで赤くなった。


「あああぁぁ、ごめんなさい! 昨日は子供みたいにわんわん泣いちゃって。しかも、そのまま寝ちゃったみたいで、本当に、見苦しいところをお見せしました!」


 ずいぶん気にしているようだった。あたふたしているのはそのせいか。と、ツェルトは思う。


 扉を開けたまま立ち止まって、


「いや、いいよ。大変だったけど」

「……ご迷惑をおかけしました」


「二度目はない。また同じことで泣くようなら放置するからな」


 クローネは上目遣いに窺って、


「……別のことなら?」


 泣く予定でもあるのだろうか、とツェルトは不審に思う。昨日の様子からすると、涙腺はあまり強くなさそうだった。


「泣くなよ。面倒くさい」


 ツェルトが切り捨てると、クローネは「……はい」とうなだれて返事をした。


「あの、」


「なに?」


「キューちゃん、意外と力持ちですね」


 話題を変えたいらしいのでツェルトは乗ってやる。


「あー、あれな。俺もびっくりした」


「ツェルトさんでも持ち上げられるんですかね?」


「さあ」


 居間に入ってから、ツェルトはキューンを呼んだ。「キュ?」と寄って来たキューンに、右手を上げて見せて、「俺もやって」と言う。


 理解したキューンが、その右手に全身で抱き着いて、ぱたぱた羽ばたいた。


「…………」


「…………」


「……きゅう」


「さすがに俺は無理か」


 キューンががんばるので、ツェルトは魔法で自分にかかる重力を操作してやった。重さを三分の二くらいまで削ってやると、ゆっくり浮いた。


「キュー!」


 キューンが、どうだ見たかと言わんばかりに鳴いた。


「すごいすごい」


 ツェルトは適当に褒めてやって、クローネは拍手した。


「キューン。もういい。降ろせ」


 キューンは言うことをきかなかった。ツェルトを持ち上げることができたのが嬉しいらしい。


「おい。……おーい。もういいって」


 埒が明かないので、ツェルトは重さをもとに戻して着地した。


「だいたい四五キロが限界ってとこか」


 ツェルトが呟く。持ち上げるのは四五キロが限界で、さっきキューンはクローネを持ち上げたまま飛び回っていた。とすると、


「お前、相当軽いな。もうちょいしっかり食えよ」



 そんなわけで、朝食のバゲットは半分に切られた。


 食べる前に、クローネが魔法で霧状にした水をバゲットに吹きかけ、オーブンで暖めなおすのを見て、ツェルトは感心した。ツェルトはそんなことをやろうと考えたことさえなかった。


 クローネの横でツェルトは紅茶を淹れた。それから、せっかく暖めたのだから、と戸棚からバターを取り出すと、クローネに驚かれた。何もないものと思っていたらしい。いやさすがにバターくらいならある、とツェルトは思ったが、いま家にあるものを思い出してみると、そう思われても仕方がない気がした。


 バターと、茶葉と、コーヒー豆と、それにビスケットと林檎。どう考えてみても、その五つしかない。何か不都合が起きたら、飢え死にする気がした。


 暖めなおしたバゲットはぱりっとした食感が戻っていて、美味しかった。半々に分けたことが、少し惜しくなるくらいだった。


「昨日、聞きそびれたんだけど」


「はい」


 前置きしたものの、聞きそびれたことはいろいろあって、ツェルトはしばし迷った。


「俺に会ってなかったら、どうするつもりだったんだ?」


「……王立図書館に、忍び込もうと思っていました」


「はあ?」


 危険を冒す気まんまんだったらしい。


「私、混血だって言いましたよね」


 ツェルトは頷く。


「父が尖耳族で、母が船人だったんですけど、母はむかし、敵性魔法生物管理局の学者だったらしいんです。そこでお世話になっていた恩師が、すごく尖耳族びいきだったらしくて、その方が今、管理局研究所の所長と、王立図書館の館長を兼任しているって聞いて」


 ツェルトは、研究所の所長が尖耳族びいきだという話は耳にしていた。管轄が違うため会ったことこそなかったが、噂はいろいろ聞いていた。研究所に入所したら、なによりもまず「卑劣な手段を用いて国を奪ったのは他でもない我々なのだ。決して彼らを怨んではならん」という話を延々と聞かされる、とか。


船人に両親を殺されてしまった尖耳族の子供を引き取って、密かに育てている、とか。そんな噂がいくつもあった。


 しかし、である。


「その方にどうにかして会おうと思ってたんですが、さすがに管理局に行くのは怖いから、図書館に忍び込もうと思ってました」


「……あっぶな」


 ツェルトは呆れた。「綱渡りじゃねーか」


「でも、他に手段がなくて」


「そうかもしれないけどさ」


「私を助けて下さったのがツェルトさんで、本当によかったです」


「ほんとな」


 バゲットを食べ終えて、ツェルトは林檎に手を出した。


「まあ、済んだことはいいか。それで、これからどうするんだ? 契約するつもりなんだろうけど、それって俺が相手でもできるのか?」


「できます。純血と純血か、あるいは純血と混血、混血同士でも、とにかくそれぞれの血を引いているという条件さえ満たせば、誰でも契約できるみたいです」


 ただし、とクローネは言った。


「契約は一度きり。それに、契約者のどちらか一方しか、力を得ることはできません」


「……へぇ」


 意外と制限がかかるらしい。


「それなら、おいそれと契約できないな」


 言って、ツェルトは少し考える。自分が契約すればいいものと思っていたが、たったひとりしか力を得られないなら、その相手は慎重に選ぶべきだ。


「はい。あの、それで、」


 クローネが歯切れ悪く何かを言おうとするので、ツェルトは「なに?」と促した。


「私に、飛び方を教えてくれませんか?」


「……どうして?」


「飛べるようになって、私が影と戦いたいから」


 何かの聞き間違いだろうか、とツェルトは思った


「……もう一度言ってくれ」


「飛べるようになって、私が影と戦いたいんです」


「やめろ。やめとけ。バカかお前」


 ツェルトは慌てた。


「お前みたいな鈍臭そうなやつが、まともに飛べるようになるはずないだろ? それに、昨日だってめちゃくちゃ怖がってたじゃないか」


 あんなに怯えていたやつが、影を相手にできるわけがない、とツェルトは思う。しかも昨日聞いた話を思えば、影を倒す方が、逃げる以上に危なそうだった。


「で、でも、できるようになるかもしれない」


「ねーよ。お前にやらせるくらいなら、俺がやる」


「そんな、それはダメです! 助けてもらったのに、そんな危ないことをさせるなんて」


「俺はいい。俺たちが助かるためにやるんだから」


 それでもなお、クローネは「でも」と言って俯いた。異常なくらいの頑なさだった。


 なにをそんなに必死になっているのか、ツェルトにはわからなかった。


「あのな、お前賢そうだから、ちゃんと考えればわかるだろ? たとえ飛べるようになるにしても、それまでにかなりの練習が必要になるし、十分な技術が身に付く前に焦ってやろうとすれば確実に死ぬ。


よりによって、なんでお前がやらなきゃならないんだ。俺じゃなくてもいいから、せめて他のコマドリにやらせろ。さっき話してた館長に相談すれば、誰か協力してくれる奴が見つかるかもしれないだろ?」


 クローネは俯いたままだった。


「クローネ、聞いてるか?」


 諭すように、ツェルトは言った。


 クローネはゆっくり顔をあげて、


「でも、私、自分でやらなきゃ」


 そう言った声は、どこか熱を帯びていた。


「私は役に立つんだって、示さなきゃ。だって、そうでしょう? 私が生きていていいって言ってもらうには、誰もが認めてくれるくらいの価値を、証明しなきゃダメでしょう?」


「……それは、影を倒す方法をもたらして、誰かと契約するだけじゃ、足りないのか?」


「……わかりません。でも、もし契約したあと、拷問とかされて、あるいはツェルトさんを人質に取られて、契約の詳細を全部話せって言われたら? ぜんぶ話したら、私は、用済みになっちゃう。……ツェルトさんは優しいけど、他のみんなもそうなの?」


 ツェルトは何も言えなくなってしまった。クローネにとって、契約は唯一の切り札なのだ。それを手放してしまったら、彼女を守るものはなくなる。


——俺が契約したとして、守りきれる保証はない。


 悩んだ末に、ツェルトは折れた。


「わかった。わかったよ。やるだけやってみよう。上手くいかなかったら、その時にまた考えればいいだけだ。とりあえず明日が休みだから、どこか人目につかない所で教えてやるよ。家は遠いらしいから、好きなだけ泊まっていけ。こうなったらもう、最後まで面倒みてやるよ」


 ツェルトの言葉を聞いて、クローネの顔にようやく光が射した。


「ありがとうございます! 私、ツェルトさんに会えて、ほんとによかった!」


 笑顔でいうものだから、ツェルトはたまらなかった。これはもう敵わない、と思う。


 クローネは、ツェルトが思っていた以上に頑なで、強かだった。それ自体は悪くない、とツェルトは思う。混血などという危うい立場で生きていくには、きっと必要な強さだ。


 まともに飛べるようになるとは思えなかったが、教えるだけ教えてみよう。思いのほか、すごい才能を秘めているかもしれない。上手くいけばそれでよし、ダメならダメで、他の方法を考えればいい。


 クローネは嬉しそうに、教えてもらえることになったとキューンに報告している。


——生きていていいって言ってもらうには。


 ツェルトはその言葉が、妙に耳に焼き付いて離れなかった。

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