04



 憎しみをぶつけるべき誰かは、それにふさわしい存在であるはずだった。


 クローネと名乗った少女は、ツェルトの想像していた“誰か”から、あまりにもかけ離れていた。尖耳族は、卑劣な手段で自分たちを苦しめ続ける悪魔だと聞かされて育ってきたのに、それがまさか、自分に助けられる形で現れるなど、ツェルトは考えたことがなかった。


——あの弱々しさは、卑怯だ。


 ツェルトはクローネを助けた時のことを思い出す。抱え上げた身体はバカみたいに軽くて、細い腰は、簡単にへし折れるのではないか、と不安になるほどだった。か細い指で服をつかんで、肩に顔をうずめていた。


 震えていたと思う。


 あんな弱々しい存在が恨むべき相手であるなど、ツェルトには悪い冗談としか思えなかった。


「————っ!」


 後方から近づいてきたヘビのような影を、ツェルトは寸でのところで避けた。もう一瞬反応が遅れていたら、触れていたのではないかという危うさだった。


 クローネの問いに、ツェルトは答えることができなかった。あの言葉のあと、すぐにまた影が現れてしまったからだ。


 影を倒す方法がある。その言葉に衝撃を受けて唖然としているうちに、クローネの右側の窓から回転針が止まったのが見えた。おそらくクローネも、ツェルトが居た窓の向こうで回転針が止まったのが見えたのだろう。


戸惑うツェルトに、クローネは「行ってください」と言った。私はここから動けませんから、と。


 影に追われるツェルトは、混乱していた。そのせいで何度も反応が遅れた。余計なことは考えまいとするのに、頭は言うことを聞いてくれなかった。集中しろ、と何度も言い聞かせて、影の出現時間が終わるまで、どうにかやり過ごした。


 ツェルトは近くの道へ降りて、上がった息を整えた。


 もしも兄が見ていたら、きっと呆れて笑うだろうな——と思うような、無様な飛びっ振りだった。


 上に戻らなければ、ツェルトは思う。またいつ影が現れるか分からないのに、いつまでもこうしてはいられない、と。


 そして鳥籠へ戻らなければ、と思って、ツェルトは気が重くなった。


 答える間もなく影が現れたことが、ツェルトにはありがたくさえあった。返す言葉を考える時間が与えられたのだ。


 ツェルトは一旦、待機塔と同じくらいの高さまで飛び上がった。それから周囲の屋根より少しだけ高い位置まで降りて、この辺でいいか、と高度を定めた。


 宙を歩く。


 いつもなら空中散歩は楽しいはずはずなのに、全く気分が上がらなかった。

 どうするべきか、とツェルトは考える。


 安全な選択をしようとするなら話は簡単だ。尖耳族を助けてやるなど、人に知られたら裏切り者と罵られても仕方のない行為なのだから。


 鳥籠へ戻って、余計なことに巻き込むなと突き放して、どこか適当な場所に降ろして別れればいい。管理局に突き出さないだけマシだと思え、と言えば大人しく引き下がるだろう。


きっと失望して、それでも律儀に「助けてくれて本当にありがとうございました」などと頭を下げて去るのだ。


帽子を無くしているから、人に遭えばすぐに正体がばれるだろう。追われるかも知れないし、性質の悪い奴に見つかれば暴力を振るわれるかも知れない。とは言え、あまり人のいない場所に降ろしてやれば、あとは一人で上手く逃げ回ることも可能に思えた。


そもそも、心配してやる義理はない。


 それが賢い選択のはずである。


 できるかと言われれば、話は別だった。


 混血だとか、影を倒す方法とかだって、もちろん気になった。いくらか冷静になると「あれは身を守るための嘘だったのではないか」とも思えたが、嘘でも本当でも、どちらでも良い気がした。


 耳が尖っているだけだ。


 それ以外は、どう見てもただの非力な少女だ。


 そんな相手を、ツェルトは見捨てる気になれなかった。


 悩むだけ無駄だとツェルトは思う。自分は昔からそうだ。かわいそうだと思ってしまったら最後、見捨てられなくなる。


 いつだったか、翼のある、小さな獣が怪我をしているのを見つけたときもそうだった。どうにか助けたくて手を出したら、怯えた獣は死にかけのくせに散々暴れた。引っ掻かれて噛み付かれて血まみれになった。


兄に「やめとけ」と止められて、それでも諦められなくて、暴れる獣をむりやり抱きしめて連れて帰った。どうにか手当てをしてエサを与え、獣が眠った頃には、兄に「お前の方が重症だな」とからかわれる有様になっていた。


 なんだっけ? とツェルトは思う。確かあの後、兄に手当てされながら言われたのだ。


——お前はほんと、弱々しいものに弱いよな。


 その通りなのだろうと思った。


 クローネが待つ待機塔は、もう近い。


 塔の手前で、ツェルトは唐突に呼び止められた。「おーい」と言った声の主を探すと、下の道で、犬を連れた老人が手を何かを持って振っていた。クローネの帽子だった。


 老人の前に降りると、犬が一声吠えた。


「飛んでいくのが見えたが、さっきのお嬢さんの帽子じゃろう? この子が拾ってくれたんじゃ」


 ツェルトは礼を言って受け取って、拾ってくれたという犬の頭を撫でてやった。賢そうな顔をしていた。


「あのお嬢さんは、」


 老人の言葉に、ツェルトはぎくりとした。耳を見られただろうか、と心配になる。既に情が移ってしまっている証拠だった。


「いや、いい。事情があるんじゃろうて。できれば、悪くせんでやってくれ」


「……そうですね」


 老人の一言が、最後の一押しになった。


 ツェルトは宙を蹴って、待機塔の窓の高さまで飛んだ。静かに窓枠に降り立つ。待機塔の中で、クローネは膝を抱えて顔を伏せていた。ツェルトがほとんど音を立てなかったせいで、帰ってきたことに気付いていない様子だった。


 もとが小さくて細いのに、そんな格好をするとますます小さい。


「ほら」


 ツェルトが帽子を差し出しながら言うと、クローネが顔を上げた。

 帽子を見て、クローネの顔がみるみる明るくなっていく。


「あ、ありがとうございます……!」


 立ち上がったクローネが伸ばした手をひょいと避けて、ツェルトはその頭に帽子を被せてやった。


 悩んでいたことが嘘のように、言葉は出てきた。


「六時に交代だから、それまで待ってくれ。話って、人に聞かれない方がいいだろ? うちでいいか?」


 帽子を両手で押さえて、クローネが笑って「はい」と頷く。

 見捨てられるはずがなかった。

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