02



 少女は街を歩いていた。


 ごつくて黒い帽子を目深に被って、華奢な身体に小さな鞄をかけていた。人目を気にするように辺りを見回しながら、わずかに坂になった細い路地を下っていた。ゆるく波打つ髪はうすい金色で、背中に少しかかるほどの長さで揺れている。大きな目はきれいなアーモンド型をしていた。帽子の下に隠された耳は見えないけれど、実はこの街の住人よりも、大きく、そして先が尖っていた。


 “耳が尖っている”という特徴は、この街では隠さなければならないものである。

 なぜなら、街を襲うあの黒い怪物は、とがった耳の人々——尖耳族が呼び寄せたものだとされているからだ。


 少女は、確かめるように両手で帽子を引っ張って、深くかぶり直した。ばれなければ大丈夫だと分かっていても、気が気ではなかった。加えて少女はこんな街中にひとりで来ることも初めてだったので、不安と孤独で胸がはち切れそうだった。


 ——ああもう、帰りたい。


 そう思いながらも帰れないのは、少女が大切な目的のために街を訪れているからである。使命といってもいい、彼女に流れる血と黒い怪物——影にまつわる、重大な役目のためだ。


 道を折れた先で犬を連れたおじいさんが腰掛けていて、少女は犬におびえながら、その前を通り過ぎる。


——吠えられなくてよかった。


 もし吠えられて、びっくりして飛び退いて、帽子がはずれでもしたら——

 少女にとっては、街は危険でいっぱいだった。


 特にコマドリの鳥籠が忌々しい、と彼女は思う。あんな高いところに人がいたのでは、自分が丸見えではないか。一番近い待機塔は無人だけれど、その向こうの塔の黒髪の青年からは、おそらく自分が見えている。特に自分に注目しているわけではない。ただぼんやりと外を眺めている、ように見える。が、少女は監視されているようで落ち着かなかった。


 青年が伸びをした。


 自分はこんなに不安で仕方がないのに、対するあの青年の、なんとのほほんとしたことか——青年が悪いわけでもないのに、その気楽な様子が少女には腹立たしくさえ感じられた。もちろん彼女だってコマドリ達の仕事を知らないわけではない。影が空を割って街へやって来れば、彼らは問答無用でその囮にならなければならない。対応が遅れないために、そして空を駆けて逃げるために、あんな高い場所にいるのだということを、よくよく彼女は理解していた。


 それでも、いや、だからこそ「なぜのんきに伸びなんかしているのだ。もっと緊張感があってもいいのではないか。あの辺りは確か大通りがあるはずだから、そこを任されているとなるとそりゃあそれなりに実力があるコマドリなのかも知れないが、だからといってそんな余裕をかましていて大丈夫なのか。油断は大敵というだろう。」などと、毒づかずにはいられなかった。


 そして実際のところは、怒ってみることで不安を紛らわそうとしていることも、少女は自覚していた。


 不安で仕方なかった。



「きゃあっ!」


 余計な考え事をしていたせいで、少女は何かにつまずいた。無様に地面に転がったものの、なんとか手で庇って顔を死守した。代わりに打った腕が痛い。転んだ拍子に脱げてしまった帽子を慌ててつかみ、乱暴にかぶり直してから、這いつくばったまま首を回して目撃者がいないことを確認した。


——あ、危なかった。


 ついで、そのまま足下を確認するが石もなければ段差もない。また何もないところで転んでしまった、と少女は落ち込んだ。


 情けないなぁ、と呟きながら立ち上がろうと膝を立てたとき、


——笛の音が響いた。


 鮮やかな弧を描くような、音色だった。


 少女は驚いてびくりと肩を震わせたあと、急いで立ち上がって待機塔を見上げた。ずっと動いていた回転針が止まっている。針の指す方向を目で追って、その先で、少女は目を奪われた。


 さっきのコマドリの青年が、四頭の影を相手に空を駆けていた。


 彼にしか見えない地面でもあるかのように宙を蹴って高く浮上し、迫り来る影を難なく躱してまた笛を鳴らし、身体を反らせて後方へ飛ぶ。左右から挟み込むように襲ってきた影をぎりぎりまで引き付け、突然、急降下する。二頭がぶつかって、黒い身体が水しぶきの如く弾けた。それから彼は猫のように宙でくるりと一回転して影たちに向きなおり、再び笛の音を響かせた。


 少女が見惚れるのも無理はない。


 空の中で、彼は自由な鳥だった。影に追われていると言うのに、相も変わらず悠然と、ただ軽やかに飛んでいた。


 巨大な影に囲まれて、その姿は小さく見えた。鳴らす笛の音も鳥のようだった。コマドリと例えられるのも頷ける。けれど、そこに弱々しさはかけらもなかった。


 少女はすっかり目を奪われて、その様子を見上げていた。



 不運だったのは、青年が人混みから影を遠ざけようと、大通りから離れる方向へ

——それも、少女のいる方向へ移動していたことだった。


 少女は至近距離で影を見たことなどなかった。

 青年が少女の上空を通り過ぎた。

 それを追う影もまた、少女の上空を通ってしまった。


 一体の影が、身体中の目玉をぎょろりと回して、少女を見た。

 空を見上げていた少女は、影と目が合わせてしまい、そして——


 悲鳴を上げた。


 青年の名誉のために言っておかなければならないことが二つある。


 ひとつは、たとえ余裕綽々に見えようと、影を相手にしている最中のコマドリは命懸けであるということ。


 ひとつは、この街の住人なら、「影がいる間は決して声を上げてはならない」と幼い頃から教え込まれているはずだということ。


 つまり、たとえ行く先に少女が居ようと、青年は気にしなくて良いはずだった。

 悲鳴を上げた少女が悪い。


 転んだ時の悲鳴とは比べ物にならない、本気の悲鳴だった。

 やってしまった、と少女が気付いた時には遅かった。


 影の標的は、少女に変更された。

 影だって、少しくらいの知能はあるのだ。新たに現れた声の主を無視して、いくら追っても捕食できない相手を追い続けるほど馬鹿ではなかった。


「————っ!」


 影が、自分目掛けて襲い来る光景は、少女の頭の中を恐怖で塗り潰した。


 再び影の注意を引き付こうと、焦ったように繰り返される笛の音が、少女の耳に不思議なほど遠く聞こえた。それが功を成していないことを、少女は頭の隅で理解した。


——ああ、食べられる……!


 脚が震えて動くことすらできず、涙を浮かべた目をもはや開けていることもできなくなって、少女は頭を抱えて思いきり、目をつむった。


——いや、いやだ!


 腰が抜けて、その場に崩れ落ちそうになったときだった。正面からぶつかるような勢いで何かが当たり、そのまま少女はとんでもない勢いで空へ引き上げられた。



 コマドリの青年が自分を抱え上げたのだ、ということを理解するのに、少女は一秒かかった。


「口を閉じて、舌を噛まないように。怖かったら目も閉じとけ」


 ほんの数秒宙に留まって、青年はそれだけ告げた。

 少女は必死に言葉を追った。


 目も口も、ぎゅっと閉じた。

 すぐに、わけが分からなくなった。


 なにやら左や右にめちゃくちゃなスピードで動いている。

 たぶん二度、上下が逆転した。

 うっすら目を開けてみたら、青年の肩越しに影が見えた。

 怖かったのですぐに目を閉じた。


 落下する感覚。

 耳元で笛の音が聞こえて。

 二度の上昇。

 弾かれたように右へ。


 いくらか落ち着きを取り戻した頭が「振り落とされそう」と心配したが、背に回された腕はしっかりと自分を支えていた。


 こんな状況じゃなかったら、どきどきしてしまいそうだった。

 むろん、それどころではない。


 脈拍は速かったが、それは主に恐怖のせいである。

 主に?

 残りは何だ。


 前方に回転した。


 また上昇。


 それから、急に、速度が落ちて。



 ふわり、と浮いているような感覚に変わった。


「……終わった」


 その言葉に、少女は目を開けた。振り返ってみると、影たちが散り散りになりながら、空の割れ目に吸い込まれていくのが見えた。


 助かったのだ、という安堵が少女の胸に広がって、それからすぐに、あることに気付いて少女は青ざめた。


 恐怖のあまり、今の今まで気付かなかった。

 青年だって逃げるのに必死で、気付かなかったのだろう。

 少女は振り返ったまま、動けなくなった。


 青年がまじまじと自分を見ているのが感じられた。


 いつどの瞬間だったのかは、もはやわからない。耳を隠していた帽子は、どこかへ飛んでいってしまっていた。


「お前、なに、その耳?」


 ギチギチと音がしそうなぎこちなさで、少女はどうにか正面に向きなおって、


「……あの、えっと、助けてくださって、ありがとうございました。」


 頭を下げた。

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