第1章 鳥籠とスカイ・ブルー

01


 ツェルトの仕事は、逃げることだった。

 

 彼は敵性魔法生物嚮導員——通称コマドリだったからだ。

 今でも耳に残っているヒメルの口癖を、ツェルトはたまに思い出す。


「——俺たちの仕事は、逃げることなんだよ。ただし、名誉ある逃走な」


 いつもそう言って笑うヒメルは、ツェルトにとって兄であると同時に、コマドリとしての師でもあった。


 兄の口癖を思い出しながら、ツェルトは待機塔から街を見渡していた。


 街は白い。屋根も壁も、すべてが漆喰で塗り固められていて、日の光を反射して眩しかった。青色の窓枠と真っ赤に咲く大きな花が、街に彩りを与えていた。遠くの海には貿易船が見えた。


 待機塔は、そんな街の中にいくつもそびえ立っていた。人が抱えられるほどの細さですっと高く伸び、先端が丸くふくらんでいる。つぼみを付けた花のような格好をしていた。つぼみの部分には、アーチ型の大きな窓が5つ穿たれていて、その見た目とコマドリという通称にちなんで、鳥籠と呼ばれていた。鳥籠の下には長いトゲのようなものが一本生えていて、水平にくるくる回転している。俗に“回転針”と呼ばれる、敵性魔法生物探知装置だった。


 ツェルトは窓の一つに肘をついていた。


 背中の目抜き通りから楽しげな喧噪が伝わってくる。街は海へ向かって傾斜していて、下るほどに人が疎らになっていく。


 ツェルトは、待機塔から街を眺めるのが好きだった。



 犬の散歩の途中らしいご隠居が、建物の陰に腰を下ろしてしばしの休憩を取っている。


 庭で遊んでいた幼い兄弟が、母親に手招きされて家の中に入って行くのが見えた。もう三時前だから、おやつでも用意してもらったのだろうか。


 帽子を目深にかぶった華奢な女の子が、やけにキョロキョロしながら、細い路地を歩いて行く。帽子からのぞく髪がずいぶんうすい金色をしていて、珍しい色をしているな、と思った。見覚えがないから、この辺りの子ではないのだろう。



 待機塔とはその名の通りの建物で、コマドリ達はここで、影と呼ばれる敵性魔法生物の襲撃に備えて過ごす。街を眺める以外にできることもなく、暇と言えば暇なのだが、元よりのんびり屋のツェルトにとっては、たいした問題ではなかった。


 街を眺めながら、ツェルトはもちろん、回転針の確認も怠らなかった。「針が止まったらそれは影がやってくる合図だから、一瞬の遅れも取らないように常に目を配っておけよ」とは、さんざん兄に叩き込まれたことである。


 自分の下を回る針は、一定のリズムで左から右へ現れては消える。他の待機塔の回転針も、くるくると回り続けている。問題なし、とばかりに、ツェルトは伸びをした。



 日傘をさした老婦人が、誰かの家の呼び鈴を鳴らした。


 パン屋の袋を抱えた母親が、子供の手を引きながら階段を上って行く。


 遠くのベランダから自分に手を振っていた男の子と目が合ってしまって、仕方なく振り返す。何が楽しいんだか、と思うが、子供がコマドリに憧れているのはよくある話だ。


 犬とご隠居が散歩を再開し、それと同時に帽子の女の子が何かにつまずいて——



——針の回転が止んだ。



 眼下を回っていた針は、巡って来なかった。他の待機塔の針は、一様にツェルトの後ろを指していた。


 かしっ、と響いたのは、影が空を引っ掻く音である。


 ツェルトは窓枠に脚をかけ、そこから鳥籠の頂上へ、かるく飛んだ。

 さっきまでの喧噪が嘘のように、街は静まり返っていた。


 そして、空の割れる音。


「……オオカミか」


 ツェルトはひとり呟く。

 なるほど確かに、それは狼を真っ黒に塗り潰したような姿をしていた。


 ただし、その巨体は普通の狼の五倍以上はあろうかという大きさで、その身体には真っ赤に裂けた口と濁った目が、至るところに開いていた。たくさんの傷を負っているようにも見えるその姿は、醜く歪んでいて気味が悪かった。


 それが四頭、空の裂け目から姿を現し、割れた声で、耳をつんざく咆哮をあげた。


 ツェルトは首から下げていた小さな笛を口にくわえると、高らかに一節、響かせる。


 影は笛の音の主を捕食の対象に定めた。


 ツェルトは空へ躍り出た。


 影には、鋭利な刃物も、強力な火器も、あらゆる魔法も効かなかった。怪物は人の身体をすり抜け、心臓だけを喰らっていく悪魔だった。その出現は星の運行に基づき、存在可能な時間は平均にして一七三秒。その間、笛の音で彼らを呼び、引きつけ、魔法で空を走り、逃げ切ることが、敵性魔法生物嚮導員、コマドリと呼ばれる者達の職務だった。


 宙を蹴り、空を駆けながら、ツェルトは兄の言葉を思い出す。まさしくコマドリとは、逃げることが仕事である。


 命懸けの鬼ごっこだ。

 上等だ、とツェルトは思っていた。

 逃げるしかないのなら、何度でも逃げ切ってやる、と。


 それでも心の奥底で、逃走以外の対抗手段を待ち望んでいたこともまた、事実だった。

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