1
その日夜遅くまで起きていたのは、本当に偶然だった。
家族はもうみんな床に就き、僕だけがリビングで読書に耽っていた。
すっかり熱中して読破をし、ふぅと息を吐いた後、読書のお供にしていたコーヒーを一口飲む。
随分前に冷め切ってしまっていたそれに顔をしかめた。
――淹れ直すか……。
椅子から立ち上がると、ふっと窓の外を見た。いやに静かだなと思う。
集中していたから周りの音が聞こえていないのだと思っていた。けれど、もともと音がないと思うほどに静かだったようである。
都会と言うほど都会な訳でもない。日によってはそんな静かな日もあるものだ。それは同時に、それほど遅い時間なのだと言うことも示していた。
――今、何時だ?
時計を見ようとした時に、窓からさぁと光が差し込んだ。何気なく外に視線を戻す。曇っていたらしく、光を遮っていた雲が晴れたのだ。僕は目を瞠る。
雲の隙間から月が覗いていた。ルビーかガーネットのような、真っ赤な、視界に収まるか収まらないかと言うくらいの大きな月が。
見たことのない大きさとその美しさに呆気に取られていると、何処からか微かに音楽が聞こえてきた。
何処からだろうと辺りを見回す。音はどんどん近付いて来る。どうやら外からのようだった。僕はまた外の方へと目を遣った。
空には相変わらず深紅の満月が浮かび、その前を線香の煙のような夜の雲が纏わりついている。
その雲の右側から、何かが飛び出してきた。
次から次へと飛び出してくる。なんだろうと目を凝らした。僕はその正体を確認して唖然とする。
それは龍だった。ドラゴンだった。
古今東西のあらゆる龍やドラゴンが群れを成して、右の雲から月を横切り、左の雲へと消えていく。
ますます状況が呑み込めずぽかんとしていると、先程から聞こえてきた音楽は、鳴き声なのだと気が付いた。
まるで蓄音機で聴いているような、心地良いほんの微かなノイズのかかった音。横切る龍の数が増えるにつれ、その音は大きくなっていく。そしてまた、龍が少なくなっていくにつれ遠ざかっていく。
最後の一匹らしい龍が通り過ぎて行った。
次第に消えていく旋律を掻き消すように、今度は大きな羽音が響く。何事かと思えば、月の前を幾羽もの大きな鳥が飛び立った。逆光の鳥は飛び立ったかと思うと、まるで月に吸い込まれていくように、その黒いシルエットはふっと消えてしまった。
そしてやはり、真っ赤な月だけが未だに我が物顔で、空一杯に居座っている。
しかしどうだろう。真っ赤だった月は、急に色を変え真っ青になり始めた。そしてどんどん風船がしぼむかのように小さくなっていく。
僕は大慌てでリビングを飛び出した。階段を駆け上がり、リビングの真上の部屋へ――自分の部屋へと駆け込んだ。
真っ青になった月はバスケットボールより少し大きいくらいにまで縮んでいた。
月を見詰め、ぐっと息を詰める。耳鳴りがするような静けさが暫く続いた。ごくりと固唾を呑む。
その中から不意に、こぽっと言う音がはじけた。そんな音と共に、月の前を一瞬何かが通り過ぎる。
またその影が月の前を通り過ぎた時、それが何かをはっきりと認めることが出来た。
魚だ。夜空を魚が泳いでいる。
当たり前だと言ったような顔で、悠々と泳いでいた。
月は冴え冴えと蒼い光を放ち、輝き続けている。
その月が纏う灯りで、月の背後にも何かがあるのがぼんやりと判別できた。随分前に買って貰った、家庭用の天体望遠鏡を覗き込む。
月の後ろには石が転がっていた。硝子玉のような、微かに青や緑掛かった石だ。その石が転がった上に、月が鎮座している。
望遠鏡を覗いていると、月の横を何かが動いた。覗きから離れて肉眼で見てみれば、月のすぐ脇を蛸が一匹、べたりべたりと闊歩していた。時折その足が月に掛かって月光が翳る。
たぷん、と。今度は先程よりも重い音が耳に響いた。次はなんだろうと思えば、窓の外ぎりぎりを、本当に目の前を、白い鯨が通り過ぎた。
目を剝いている間にも、鯨の尾びれが滑らかにしなって泡をまき散らしていく。窓の外が泡で一杯になった。
泡が全てはじけると、魚も蛸も鯨も消えていた。残っているのは、相変わらず月だけである。
沈黙が夜の暗闇を支配した。
あの魚達は何処に行ってしまったんだろう……。
僕はまた望遠鏡を覗いてみた。大きさとその蒼さ以外はなんの変哲もない、ただの月。倍率を上げてみる。
クレーターと暗い海がはっきりと見えた。
あぁそうかと、僕は不意に思い至る。
月はきっと、星の表面じゃなくて内側に世界があるのだ。クレーターの凹凸部分はきっと向こうじゃ山や谷になっていて、月の世界からすれば宇宙は広大な海なのだ。だから夜空を魚が泳いでいる。
突拍子もないがそう思った。きっと、そうなのだと思った。
納得したところで急に眠気が襲ってくる。いい加減寝ようと思った。そう言えば、結局今は何時なのだろう。
ふとそんなことを思っていると、甘い香りが鼻腔を掠めた。花独特のかぐわしい香りだ。
僕はまさかと思って空を見上げる。
そのまさかだった。
いつの間にか見慣れた姿に戻っていた月から、まるで月が球根だとでも言わんばかりに、大きな鬼百合のような橙色の花が生えている。香りの原因はそれだった。
揺れている花の雄しべから金砂のように花粉が降り注いでいる。
僕は何を思ったのか、窓を開けて、その降り注ぐ粉を掴もうと手を伸ばした。ぎゅっと握り締めて手を引っ込めると窓を閉める。
そこまでしてから、百合なんかの花粉は服に付着するとなかなか落ちないことを思い出したのだが、もう遅い。
手を開くと、本当に僅かに金の砂が握られていた。
なんとなく満足した気分になった。写真を撮れば良かったなとも思ったけど、デジカメしか持っていないから、綺麗に撮れる自信がなかった。ずっと前から一眼レフが欲しいとは思っているのだけれど。
なんにせよ、掴んだこの砂をどうしようと考える。
何か小さな瓶にでも入れようと思った時だった。
むせ返るような強い香りにぐわんと世界が回って、いつの間にか床に倒れ込んでいた。そして不思議に思う暇もないままに、僕の意識は暗転した。
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