五十日目 夜
水本を遠藤邸から事務所に送り届けての夜。
齋夜月は国際経済研究財団の応接室にいた。傍らにはドラムバッグが立て掛けられている。
「貴方から電話がかかってくるとは思いませんでした。ひょっとして私は商談を持ちかける相手を間違えていたんでしょうか」
學習院は不思議な楽しみを見つけた声で齋に尋ねた。
「いえいえ。交渉を持ちかける相手としては遠藤翔一郎さんが全く正しい相手ですよ。正直、あちらに持ちかけなければ、私もこちらには参りませんでしたし」
「では、お支払いの先は遠藤翔一郎氏でよろしいですか」
「ところで――」
「はい」
問を遮る齋に気を悪くする素振りも見せず、學習院は律儀に応じる。
「ところで、貴方、というか御社、というか、母船においでの方々が必要としているのは、物品でしょうか、技術でしょうか、記録でしょうか、ブランドでしょうか」
齋の問いかけに學習院は虚を突かれたようになる。
「――まぁ正直なところ、物品という意味ではあまり大したものはありませんよ。あのお屋敷には」
「そうですか。気負いすぎましたか。しかし、あなたは交渉をおこなう気でいらしたわけですよね。なにか、あってのことなわけだ。面白そうですね」
學習院は改めて齋に興味をもった。
「ところで、先のご訪問の折に、あなたは曜十郎氏に命を救われた、とおっしゃった。アレは本当ですか。そこまで近しいのですか」
「ああ。本当です。高機能遺伝子の暴走というのは、成長期にはままあることで、この体も放棄を検討することになったのですが、手元不如意の中ではいささか苦しい事情もありまして、さて、という時に曜十郎先生をご紹介いただいたのです。緋一郎さんと梅さんもまだご存命で、本当に皆さんには助けていただきました。もちろん備えはあったのですが、備えは備えですので乗員一同、先生には感謝しても、し足りないくらいです。結果として多くの知見を得ましたし、ほんとうのところ以前よりも遥かに体調も良好です」
學習院が手前勝手に説明を省いた説明で齋には十分らしかった。
「――実はこちらも確認したいことがあるんですが、昨晩のアレは予定の戦術ですか」
學習院の問いかけに齋は肩をすくめる。
「私はもうちょっと別の方法を考えていたのですが、事故みたいなものでしょうね。まさか水本先生がそちらの機材の制御につながるとは思ってもいませんでした」
「さすがは曜十郎先生の血筋とこちらでも評判でしたよ」
齋は目を瞬かせる。
「ああ、水本先生は曜十郎先生とは関係ないですよ」
「そうなのですか。それは深刻だ」
學習院は少し考えこむ。
「まぁそういうわけで、本来は昨日の遠藤邸の損害をどうするかというお話をしたいところなのですが、そんなところよりも、一つお願いがあってきました」
「おや、おねがいですか」
齋が明るい声で話を切り替えるのに、學習院は興味を惹かれる。
「彼女の、――再生治療をお願いしたい」
齋はいいながら、ドラムバッグの中から女の首の入った標本瓶を取り出し机の上に立てる。
「ほう、これは見事な。どなたが、曜十郎先生ですか。いや、あの方は生かす治すとなれば、最後まで自分で面倒を見るはず」
「お弟子さんたちです。施術された方は残念ながら亡くなったようですが、彼女もそのお弟子さんのひとりです」
學習院が身を乗り出さんばかりになった。
「遠藤邸を退職された方々とも縁があった幾人かの方とはお話ししたのですが、今ひとつピンとこなかったのですが、そうでしたか。既に亡くなられていましたか」
「で、どれくらいの期間でお願いできますか」
齋は既に學習院が受けるつもりでいる前提で抜け抜けと尋ねる。
「詳しいことは技術畑の者に聞かないとわかりませんが、二年くらいですかね」
「曜十郎氏のメモによれば、リハビリ開始まで三ヶ月。その後のリハビリは本人の精神力という感じのようですね」
ドラムバッグから変色が進んでいる紙束を取り出し、齋は言う。
「それはどこで」
「施術計画書です。これとこの女性がおそらく曜十郎氏の遺品の中で今あなたがたに一番価値が有るものではないかと、見積もっているのですが」
自らの問いを無視したような齋の言葉を、學習院は探るように見つめる。綴込表紙のおもてに曜十郎の筆跡を學習院は認めた。
「いいでしょう。この女性の再生治療。引き受けましょう」
「それはよかった。――良かったですね。夕月さん」
そう言うと齋は、用が済んだ、とばかりに立ち上がる。
學習院が握手に差し出した手を無視して、齋は戸口に向かう。
學習院は空振った手を秘書に向かって閃かせると、振り向いた齋の手の中で破裂音がした。
単三電池ほどの長さの細いダーツが幾つか握られていた。
学習院の秘書が拳銃を抜き撃った姿勢で驚いている。
「コイルガン。いいですよねえ。加速器や弾体が無闇に熱くならないってのが。――彼女の再生治療、よろしくお願いいたします。そちらの機材をそちらの人員で使う以上、コピーとかバックアップとかやめろって言えないですけど、ちゃんとオリジナル返してくださいね。言い忘れてましたけど、彼女、一応就職内定あるんで、九月は無理でも四月には帰ってないと紹介した私が困るんです」
齋は勝手なことをそう言うと、今度こそ出て行った。
秘書の胸元にはいつの間にか、空薬莢がバッヂのように突き立ち、壊れた蛇口のように血をこぼしていた。
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