五十日目 午後

「こまりますなぁ。敷地内での緊急事態の出来事だったとはいえ、弁護士先生が法律違反を犯しては」

 日曜日の、日が変わって月曜日の未だ明けぬころ。事が終わってようやくやってきた警察に、決着以外はほとんどそのまま説明した水本は、拳銃の無許可での取り扱いについて調書を取られていた。

 碧三郎と橘の猟銃持ち出しの件は手早く片付けた橘の手際で有耶無耶になっていたが、水本が遺品の中から偶然発見した拳銃で威嚇して追い払ったことにした。

「とはいえ、遠藤さんからは先生が邸宅の被害を最小限に食い止めてくれた、という口添えもあるんで多分立件もしないと思うんですけどね」

 担当刑事の富永はそう言った。

 すでに幾度か似たようなことを口にしたが、また再びそう言うくらいには、富永は困っていた。

 このままだと記録を残せる調書にならない。

 手元に半ば埋まっている調書とメモを、富永は視線と思考の逃げ道にした。

 乾き始めた泥に汚れた裂け破れた褞袍と浴衣姿に靴を履いているだけという水本の姿はいかにも哀れで、あちこち掻き傷や小さな出血がある六十すぎの弁護士が調書に応じ説明したところによると、助手が偶然発見した拳銃についての確認を依頼主にしようとしたところ、大きな生き物に追い回され、手に持っていた拳銃で威嚇したところ、生き物は何処へか去った。生き物の大きさは軽自動車ほどだが黒い小山のようで、なんだったかははっきりわからない、らしい。

 目の前で逃げたり争ったりしていたモノの正体がわからない、と言うのは、意地悪く言えば弁護士としての冷静な観察力にかける、と言えるが、一方で途中まで同行していた弁護士の助手の写真の出来を見ればなるほど、大きな黒い小山のような塊、としか表現できず、そういったものに夜の雨の中で一方的に襲われたことでパニックのまま行動したとも考えられるし、実際に現場の様子を見れば、ブルドーザーかパワーショベルなどの重機が暴れまくったようにしか見えず、あちこちに飛び散っている汚泥のような得体のしれない物質は鑑識のステンレスのピンセットを作業の時間で目に見えるほどに腐食させるなど、高卒から現場で叩き上げた刑事には正直なところ秘境探検番組かドッキリ番組かというテレビ番組に連想が及ぶようなありさまで、目の前の水本弁護士がこれほど不可思議で大きな破壊活動を引き起こした関係者とも思えなかった。

 恐らくは当人の言う通り、偶然発見した拳銃の扱いについて内密に家人と相談をしようとしたところ、何かと遭遇し、結果として家を破壊していた何かは去った、という説明理解はそれなりに妥当であるようにも感じられた。

 ただ一方で、二十世紀も終わりになって日本の市街地に、謎の怪物、などというモノが存在するとは、どれほど考えても富永には信じられないし、そんなものが管轄下にいるとしてそれを見過ごすわけにもいかない。

 今ひとたび、富永は目の前の人物が見たであろう事件を、自らわかっている範囲から組み立ててみる。

 普段であれば十五分もあれば駆けつけられる距離の遠藤邸に、増水の手当のために三十分以上、ほとんど一時間かかってようやく一番最初に自転車警官がたどりついた。

 既になにかは逃げ去っており、破壊され荒れた建物をどうしたものかと眺めている一族は、しらけた疲れきった空気で警官を出迎えた。

 邸宅の建物の破壊の状況を見た警官は軽いパニックのまま応援を呼んだが、目の前で事態の決着を見ていた碧三郎が県警本部に改めて連絡をして、出動の労の礼となにものかの賊は既に去り、家財には被害が出たものの命には別状がないこと、居合わせた水本弁護士が活躍して事態の収拾にあたったことなどを告げていた。

 物証も断片的であるが、異常事態と投げ出してしまいたいことが多い。せめて大型の重機やダンプトラックの類が近隣で目撃されていれば、まだ納得もできるが、折からの雨でそんなものが自由に動けるような道路事情でもなかった。

 細かなところで関係者の証言は食い違っているが、大筋のところで一致しているのは怪物――と敢えて言ってしまう――が逃げる直前に水本が拳銃で発砲した、という事実。

 警察が到着するまで、遠藤家の人々は様々な努力をしたようだったが、実際のところほとんど無力で建屋を蹂躙破壊される被害に至っている。

 現場を見る限り、人々の証言を聞く限り、目の前の疲れきった世間一般には老人の域に踏み込んだ人物が、遠藤家の人々を救った、と言ってもおかしくはない。

 なので、水本のこの取り調べはなんなのかといえば、緊急事態の非常手段とはいえ違法行為を認めることはないと釘を刺し、その免責と引き換えに恐らくは現場で一番観察していただろう人物がなにを見たのか、という忌憚ない意見を求めての確認のはずだった。

 ところが当の水本は、なにがどうやって建物を破壊したのかを十分に説明できなかった。そのため最後の拳銃の発砲という件ばかりが大きく扱われ、取り調べる刑事としても自分がやっている行為に後ろ暗さをすら感じるようになっていた。

 こんな調書は当然に読んだ人間に正気を疑われるとは思うが、夜の雨の中のパニック、という風に時間と状況をやや差し替えた上で理解されるだろう。

 立件もされないようでもあるし、はっちゃけた弁護士先生には居心地が悪いだろうが、上の方で意見が定まるまで時間を潰してもらおう。

 富永はそう思うことにした。

 話すことを話したあとは俯くように黙りこんでしまった水本を、どう突くべきか富永はしばし考えていると、戸口がノックされた。

「ああ、富永さん。もういいよ。拳銃の出処も分かった。壁が崩された部屋に拳銃のケースがあった。先生と助手の指紋も出た。まあ大体おはなしのとおりだ」

 水本が廊下に出ると、齋がいた。

「すいません。先生。話しちゃいました」

 齋がおどけるように言った。

「先生。たった今取り調べしていた警察官の立場からこういうのはアレなんですが、今回はお手柄でした。ですがね、せんせい。今回はたまたまうまくいきましたが、先生は本来頭脳労働の仕事なんですから、またこういう危ないことがあったら、手元にピストルがあっても、次は一も二もなく逃げることをおすすめしますよ。……まぁ、今回まったく間に合わなかったウチラが言える義理でもないんですが」

 富永刑事は頭を掻きながら、そう言った。

 水本は、次はそうするよ、と言って齋と共に県警察本部の建物を出た。

「お前は、ずいぶん落ち着いたものだが、アレに心当たりでもあるんじゃないのか」

「いえ。ぜんぜん」

 水本の我ながら穿った言いようにも齋はあまり動ぜずに、困ったような顔で答えた。

「あまり勝手なことをするなよ」

 もちろんなんの根拠もありはしない、ただの水本の直感だったが、それだけに水本は、自分の分からない何かを齋が知っていることを確信した。

 日が昇る前に県警察本庁舎に入った水本は昼をやや過ぎたところで遠藤邸に戻り、翔一郎と軽く今後の打ち合わせをして遠藤邸を辞した。

 わけも分からず振り回され面白くもない事件だったが、遠藤家の人々の月曜のそれぞれの予定には狂いが出なかったようであることが、唯一水本には慰めだった。

 いつもはけたたましいとすら感じる齋の車のロードノイズも疲れた水本には周りの音を覆い隠す帳のように感じられ、高い陽を避けるように瞼を落とした水本はいつの間にか眠っていた。

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