五十日目 深夜午前

「先生、起きてください」

 夜半を過ぎたころ水本は遠藤邸の同じ客間で寝ていた齋に起こされた。

「いつ、き、くんか、何だ、なにか起きたのか」

 水本は眠りにまだ、しっかり開かない目とボケた頭を職業意識で奮い起こそうとする。

 はっきり分からないが、何やら騒がしい雰囲気に一気に覚醒した。

 ボヤケた視界が一気に覚め、覗きこんでいる齋と目が合う。

 確か齋も寝るときは、水本と同じようにこちらで借りた浴衣を着ていたはずだが、普段通りに背広を着ている。

「起きてください。なにか騒ぎが起きたようです」

 齋は所見を簡潔に告げた。

「物盗りか何かか」

 水本は褞袍を羽織りながら明瞭な声で応じた。あてがわれた和室を見回した。とりあえず身近に異変はない。

「そうかもしれません」

 母屋の客間は屋敷の中では奥めいたところにあり、庭の塀の向こう側は道を挟んで自然公園という立地で、騒ぎは母屋かその向こう側で起きているような気配がある。物音という程のものは客間には伝わらないが、邸内のあちこちの灯りが和室の障子を遠く照らし彩っている。

「先生。これ、預けておきます」

 慌ただしい雰囲気に釣られるように客間から踏み出した水本を齋が呼び止めた。

「何だこんなときに」

「こんな時に、だから必要なものです」

 齋はチャック付きのビニール袋に入った三角形のものを指に吊るすように水本につき出す。

「なんだ。それ、そんなものをどこから」

 次第に夜の闇に慣れてきた水本の目にも拳銃とわかる。

「いつぞや地番調査したお屋敷から」

「そんなもの使ったことないぞ」

「簡単ですよ。相手を親指と人差指で指さして、そのまま腕を突き出してブレないようにゆっくり指を握り込めばいいんです。撃ちたいところをつまむ感じで」

 渋る水本の胸元に齋は押し付ける。

 水本は露骨に眉をしかめるが、邸内のどこからか破壊音と悲鳴のような声が聞こえてきたことで水本は袋を開いて中の拳銃を取り出す。

「どうやって使うんだ。安全装置とかはどこだ」

「取っ手をしっかり握って引き金を引けば弾は出ます。撃つ瞬間まで人差し指は外に出しておいて」

 そう言いながら齋は自分もビニール袋から同じ型の拳銃を取り出す。

 そして、ハンドグリップよろしく人差し指を残した三本の指で仕掛けのある銃把を握ってみせる。穴あけパンチのような音がする。

「一緒に人差し指も握っちゃうだろ」

「輪っかの外に指先を引っ掛けとくんです」

「おう、こうか。分かった。けっこう硬いな」

 ミトンを確かめるような動きで、水本は銃把を握りしめる動作を繰り返す。

 いかにも不慣れで不器用な水本の手つきを、齋は困ったような薄笑いで眺める。

「まぁ使わなければ怪我もさせませんから、使う時まで懐の奥、帯にでも押し込んでおいてください」

「そうだな」

 先とは矛盾したことを齋が言うのに水本は助け舟に飛びつくように応じた。

「さて、では行きますか」

 水本が拳銃を懐の奥に押し込んだのを見て、齋が言った。 

「よし。いこう」

 水本も少しのやりとりで体も目が覚めたことを実感していた。

 齋がやや先導するように遠藤邸の廊下をすすむ。

 離れを廊下でつないだ数寄屋風書院造というべき遠藤邸の贅沢な作りは夜目にも美しいものだったが、ガラスの引き戸を開け、渡り廊下に出た水本の鼻に異臭が感じられた。

「齋、何かくさくないか」

「ヤバい感じですね。緊張してますか」

 齋が水本を振り返り、軽く微笑んで足を止めた。

「バカ、そっちもだが、匂いだよ」

「なんの匂いでしょうね。毒ガスとか血の匂いって感じじゃありませんが。建物もたまに揺れているようですね」

「急ごう」

「そうしましょう」

 勢い、なんとなく歩き出した水本が先導することになった。

 水本に特にあてがあるわけではなかったが、大きな池のある庭を目指した。邸内を見回すのに都合がいいだろうと判断したからだ。

 その直感はあたった。

 騒ぎの原因はわかった。

 だが、水本には、それが何であるのかは判別できなかったし、正体なぞ想像もできなかった。

「どうやらアレが騒ぎの元であるようですね」

「何だ、アレは」

「クマ――というか、カエル――ですか。あんなに大きなものは見たことありませんが」

 水本には巨大なナメクジのようにも見えたが、触手というよりは前腕であるのかもしれない。

 先ほど感じた異臭の正体はあれで間違いないようだった。

「バカか、あんな生き物が日本にいるものか」

「これだけ暗いと、フラッシュ無しじゃ、まともな写真にならないだろうな」

 探偵の習性からか齋はポケットカメラを取り出し、撮影を始めた。

 屋敷の外向きの灯りはほとんど全てつけているようだったが、巨大な生物は表面の起伏に乏しく滑らかで、日の光の下で写真をとったとしても、それがなんの写真でどんな大きさなのかがわかるように撮影するのは難しいだろうと、水本には思われた。

 巨大な生物は這うように転がるように、酷くゆっくりと動いており、昆虫の触角のように前腕を不規則に振るい、まるで解体現場の重機のように触れたものを破壊してゆく。

 大きさもナメクジやミミズがそうするように多少伸び縮みしているが、軽自動車よりやや小さいくらいくらいの大きさか。

 庭を見れば四阿が破壊されていた。

 怪物が這った跡と思しき溝が綺麗だった下植えをえぐっている。ほとんど真っ直ぐに渡り廊下を破壊していた。

 少し離れたところで庭師が倒れ、幾度か見かけた運転手と思しき人物が面倒を見ている。

 無謀にも戦いを挑んだらしく、柄の途中からが失われたショベルだか熊手だかの傍らに倒れていた。

 庭師は何を思ったか、背中には農薬散布用のタンクを背負っていたらしい。

「石油でも撒いて火をつけようとでも思ったのか」

「そういう匂いじゃないですね。たぶん農薬かカビ取り剤の類でしょう。ナメクジやミミズには覿面だし、カエルも水場から離れてのんびりしていれば死にますよ」

「アレはそういうモノなのか」

「さて。着眼点は悪く無いと思いますが、大きさを考えれば効果は薄いでしょうね。あの大きさだとカビ取り剤のプールで泳いでも効果がわかるまで半日くらいかかると思いますよ」

「どうするんだよ」

「お庭でガソリンって訳にはいかないでしょうから、効果は怪しいですが、農薬作戦を続けてみますか」

 そう言って齋は踏み石の上にあったツッカケを眺める。一足しかない。

「先生は靴を履いてきたほうがいいと思います」

 ぼくは、と水本がパニックになる前に齋が言った。

「目的はわかりませんが、目的地はわかっていると思います。先回りしてください」

 阿呆のように水本が幾度も頷いているのに齋は苦笑する。

「すみませんが、よろしくお願いします」

 齋が踏み石の上のツッカケを履くときの音で水本は自分が呆けていたことに気がつく。

「わかった。とりあえず洋館に向かうことにする」

 齋は既に庭へ踏み出していたが、水本の言葉に振り向かずに片手を上げて応えた。


 齋が庭の二人の元へ駆け寄ったのを横目に怪物は無視して、直感的に玄関までの最短ルートと感じる屋敷の中を突っ切るコースを水本は選んだ。

 庭先には遠巻きにしていた怪我人とそれについていた人物の他には二・三人しかいなかったが、屋敷にいた者は事態をあらかたが知っているようでパニックに陥っていた。

「お前もおやじも猟銃を持っていただろう。アレで撃ち殺す。確かおやじは規制前のライフルを幾丁か持っていたはずだ」

 碧三郎氏だろう。翔一郎の叔父で長く県議を務めている。議員らしい印象の太い通る声が襖の向こうから聞こえてくる。

 物騒なことだ。と思っているところで襖が開いた。

「これは水本先生。お休みになれませんでしたか」

 水本をいきなり咎めることもせず、極自然に態度を切り替え、碧三郎は言った。

「靴をとりに玄関に行こうと思ったところです」

「お連れの助手の方は」

 探るような笑顔で碧三郎は水本に尋ねた。

「家の方が庭で倒れていたので、できることがないか、残してあります」

 碧三郎の顔が一気に強張る。

「わかっているとは思いますが、見聞きしたことは口外なさらぬようにおねがいいたします」

 笑顔を保つ努力を捨て去り、碧三郎が言った。

「当然です。警察には連絡をなさいましたか」

「あんなバケモノ。警察に何ができるっていうんだ」

 碧三郎は目を剥き激昂して叫び、腕を振るった。

 間取りも立ち位置も考えずに激情に振り回された手は襖を叩く。

 水本も勢いに押され、つと身を引かなければ、叩かれていただろう。

 碧三郎は襖がそこにあったことに驚いたように目を向け、騒ぎを追うようにして部屋から出てきた翔一郎と目を合わせた。

「ともかく、俺は勝手にやるからな」

 そう叫び、碧三郎は大股に踏み鳴らすようにその場を離れた。

「先生、このような騒ぎに巻き込む形になり、申し訳ありません」

 碧三郎を見送った翔一郎が丁寧に頭を下げる。

「いえ。ところで警察に連絡はなさいましたか」

「一応は。ただ、なにぶんにも建物を破壊する猛獣ということで、叔父は好奇の目にさらされるのが耐えられないと反対してまして」

 悠長なとは思ったが、見たこともない生き物が家屋を破壊するとして、警察に何ができるのかという疑念が湧くのを止めることは、水本の職業意識を以っても困難だった。

「アレ、に心当たりは」

「とくには。周辺も猪や鹿が出るという話はたまに耳にしますが、我が家に野生の動物が入り込むのはネコやモグラくらいまでですね」

 パジャマにガウンという寝起き姿の翔一郎があまりに落ち着いているので奇妙な感じもした。

「失礼ですが、落ち着いていられるので何か心あたりがあるのかと思いました」

 翔一郎は水本の直截な言葉に驚いた顔をしたが、怒るでもなく皮肉に口元を歪めた。

「目の前で色々感情をむき出しにされていたもので、少々疲れて感情の間を失っているだけです」

 ああ。と水本が嘆息するのを慰めと受け取ったのか、翔一郎はつかれた笑顔を向ける。

「祖父ならいきり立って、このくらい何とかしてしまうのでしょうが」

「息子さんたちや従兄弟の皆さんはどうなさいましたか」

「財産の話は私と叔父たちだけで済ませることで昼間のうちに決着しましたし、従兄弟同士はそれなりに事前に話をつけてありましたし、彼らは帰りました。息子たちは興味があったようですが、私が面倒だったので小遣いをやって追い出しておきました」

「不幸中の幸いですな」

 そう水本が言うと、翔一郎は肩をすくめた。

「ところで先生は靴を履いてどちらへ向かうつもりだったのですか。その格好では騒ぎに慌てて逃げ出す、という雰囲気でもないようですが」

 翔一郎がいまさらのように確認するのに、水本は自分がそれなりに急いでいたことを思い出す。

「アレ、あの怪物が庭を突っ切って洋館の方角に向かっているようだったので、追いかけてみようかと。そういえば、あの子はいまどちらに。――まさか洋館にひとりということは」

 途端に翔一郎の顔が苦く曇る。

「親族が出入りする母屋よりも騒がしくもなかろうと思って、離れに部屋を割り当てました。この邸内では一番頑丈な建物ですし」

「ただの確認です。怪物が洋館に向かっているという確証もありませんし、そんなわけで、怪物がどこに向かっているかの確認をしておこうと玄関に向かっていたところです」

 翔一郎が弁解するような口調になったのに慌てて、水本は割りこむように言った。

 自分が時間を無駄にしたことに気がついた水本は、再び玄関に向かう。

 翔一郎も水本について来ていた。

 ふと気づいて水本は尋ねる。

「翔一郎さんは洋館の鍵はお持ちですか」

「いえ」

「怪物が洋館に向かっているとして、鍵があったほうが有利かと思います」

 翔一郎は、おう、という表情を作った。

「それに警察が来たとして、聴取に付き合うとして寝間着姿だとたぶん寒いかと」

「叔父の言い草ではないですが、事情聴取で私どもに何が言えるとも思えませんが、そうですね。着替えてきます。一応御母屋側の戸口の鍵は開いているはずです。橘と楓が離れには居るので、鍵は彼女らに言ったほうが早いかもしれません」

 そう言って翔一郎は足を止めた。

「先生。申し訳ありませんが、よろしくお願いします。離れには叔父も向かっているはずです」

 別れ際、翔一郎は水本にそう言った。

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