四十五日目
水本は虎口に飛び込むつもりでいた。
一応、役に立つのかたたないのか、齋も助手として帯同していた。
だが実際のところは穏やかなものだった。
水本は、国際経済研究財団という名の米国式の見通しの良いオフィスに學習院を訪ねていた。
会談自体ははっきり言えば、拍子抜けという雰囲気で、過日の學習院の熱意雄弁を覚えている水本としては困惑するばかりだった。
とはいえ、この段になっては水本を絞り上げて苦情を並べ立て、責め上げたところで何の役にも立たないことは、理性的であればわかるはずで、このあと報告を兼ねて夕食に誘われている遠藤邸にたどり着けば、まずは水本の仕事は終わりであり、ゆっくりと無駄話をするのは吝かでもなかった。齋の運転で少し離れた遠藤邸へのドライブというのも、仕事が急いていなければいい気分転換になる。
「そうですか。残念です」
当面は遺品の譲渡の予定がないことを水本が伝えると、學習院は静かに言った。
「あの方は本当に天才だった。もちろんいくらか途方も無い幸運が助けていたのは事実だったけれど、それを奇貨として本来この世のヒトがひとりでたどり着くことがありえない結論にたどりついた。言ってしまえば究極を手に入れたのですよ。翔一郎さんはご存知のはずだ。それはかなりの応用を利かせることが出来る技術で、望むならば神にも等しい永遠と力を手に入れることができるものだった。尤も先生の望みは理解し把握できることの証明であって、力やモノが欲しかったわけではないことはよくわかります。緋一郎氏が亡くなられたという話を聞いた時に耳を疑いましたが、その少し前に緋一郎氏の奥様が遠方で亡くなられたという話を聞いた時に、納得もしました。才能や技術というものはそれだけではヒトを幸せに導かないものなのだと」
水本には、學習院の饒舌は異国の呪文か魔法の言葉のようにしか理解できなかったけれど、提案が不調に終わったことに學習員が深く悲しんでいることは伝わった。
「――すべてのものは、正しく理解している者が扱ってみせ、その行為の意味を知る努力があって、初めてその価値が問われるものです。曜十郎氏の業績はあまりにも巨大な炎のようで、氏自身もそのことをよくご存知だったから、敢えて多くは触れず語らなかった。そして、秘儀の危険に触れる者を選んだ」
學習院のほとんど独白といえる言葉は、水本にはほとんど理解できなかったが、學習院にとっては、遠藤曜十郎の遺品についての価値を遺族の関係者に伝える、事実上最後の機会と思って聞き留めることにした。
「――ご存じですか。曜十郎先生は重要なオペには、亡くなった緋一郎さんと梅さんのお二人だけしか手術室に入れなかったのですよ。曜十郎先生はあちこちの病院で腕を振るわれていましたが、たいていの病院で先生のペースについていけないので、実質ひとりで施術を行っていたようです。そういう方が、緋一郎さんと梅さんだけは、必要としていた。翔一郎さんが医師にならなかったと人伝に聞いた時は耳を疑いましたが、さまざまに伝え聞くところを自分なりにつないで納得もしました。ですから――」
學習院は力なく軽く伏せていた赤い瞳を、水本に向けた。
その紅玉の奥の暗い光は水本を吸い込まんばかりに引きつけた。
「――ですから、先生には断りのお運びを頂いた上で、翔一郎氏にもご遺族にもご迷惑を承知で、敢えて私から最後の提案をさせていただきたいと思います」
そう言葉を切った學習院が戸口を振り向くと彼の秘書が封筒を揃えた書類を持ってくる。
「先に拝見しても」
「どうぞ」
水本が条件を眺めるに金額で目をむいた。
この男は原子力空母でも一揃え買おうというのか。
絶句している水本に學習院は悲しそうな目を向ける。
「これでも将来への見積りに比べれば失礼ながら控えめな数字を示させていただきました。私共の実力からすれば、いますぐ示すにこれ以上は難しいというのもありましたが」
學習院が何を確証として言っているのか、水本にはよくわからなかったが、少なくとも目の前にいる人物が自分とは違う世界の人間なのだということは理解できた。
「この先、遺族の皆様がお集まりになる機会はありますか」
「週末日曜が四十九日と聞いております」
「そうですか。では先生の最後のご霊前に、あのときのちびくろサンボは無事このように大きくなれた、とお伝えいただければ幸いです」
「こちらのお返事はどのように」
水本としては手間が増えた形になったわけだが、直接訪れた以上はこういうこともあるとは想定していた。
「四十九日に間に合うように志とお供えいただいて、遺族の皆様にご笑覧いただいて、もし叶うならこの条件でご納得いただければ、電話で封筒の番号にご連絡を。叶わぬようであれば、ご連絡のお手間は結構です」
學習院は言った。
「返答期限は週末いっぱいということでよろしいですか」
「そのように。日付が変わるまでお待ちしておりますが、多少の遅れは気になさらず、夜が明けるくらいまでにご連絡いただければありがたく思います」
水本は内心、これほどの条件では却って請けにくかろうと思ったが、黙って頷いてその場を辞した。
週末日曜は雨だった。
齋の運転するオープンカーの幌は雨音を響かせ、天井も低く、法要にはあまり向かないものだった。晴れている日ならともかく駅前からタクシーを待って、というのはあまり気乗りがしなかったのと、前日雨がふりだした頃に齋から連絡を受け、車を出すが、という言葉が出た時には齋の車についてあまり思いが至らなかったことによる。
法要そのものは午前中で昼におときを終えるまでは、庭をめぐるにも傘を要するものの激しくもなく、多くの来客が訪れたものの混乱もなく、終わりを告げるように激しさを増し、弔客は雨に追われるように自宅に帰っていった。
訪れた曜十郎をよく知る老人は、曜十郎らしい法要の天気だ、と評した。
昼間の法要の後、學習院からの提案の中身を一応は目にするために残った人々は、さらに激しさを増す雨が、夕方には途中の国道の法面を崩落させ、農地を水没させたとの伝えに、今日中の帰宅を諦めた。
無理に帰宅を試みることはいくらもできるが、そこまで急を要する予定の者はいなかった。
家人の誰もが、戦争でも起きなければ町中の自宅よりもよほど備えがあるこの屋敷に逗まることに異論はなかったが、面倒な身内のこの世の最後の面倒かと、皮肉に失笑するのは止まらなかった。
ただ碧三郎だけは、予てから懸念し訴えていたことが実際に起きたことで、四方各所に連絡を飛ばしていたが、いまここにいる彼にできることはそこまでで、あとは身内だけの気安さからか苛立ちを隠さず、邸内を熊のように歩きまわっていた。
學習院からの提案は、内容そのものは先日、彼が口頭で述べたものを型通りの文書に収めたものであったが、彼が口にすることを許されなかった金額があまりの額面で、一同それぞれ思うところはあり、全員が衝撃を受けていたようだが、先日の決定に異を唱える者はいなかった。
碧三郎は唯一、それだけのカネが県政にあればもうちょっとマシな地方経営ができる、という感想を述べていたが、それ以上のことは口にしなかった。
寝床の支度を整え終えたころには雨もやみ、朝には問題なく帰れる見通しもたった。
遺族は、曜十郎の法要にはふさわしい天気だ、と笑った。
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