四十一日目

 水本には、挨拶を交わした目の前の人物が日本人であるとは信じられなかった。

 いや、事前に翔一郎から名前を聞いた時点で、齋からどういう人物かの概要は聞いていた。

 齋が調べたところ言うところを信じれば、學習院英麻呂という人物は紛れも無く日本人であるらしい。

 齋が評して言うには、新人類というよりは、宇宙人。

 ふざけた名前だ。と、電話口で翔一郎は目利きをおこなう旨の申し出をしてきた人物の名前を笑って告げた。

 碧三郎に聞き直してもしまったと言っていた。

 なるほど。

 ふざけた話だ。

 目の前にいる黒人が、皇室のために拓かれた学問所の名前を苗字として使っている。

 静かな微笑みをたたえた赤い瞳は、赤ん坊のような淡藍の白目に彫り込まれた作り物のように見える。

 黒檀の仏像に薄く明るいプラチナのヘアピースを乗せるとこんな感じだろうか。

 黒檀長身のアルカイックスマイルに見下され、水本は困惑する。

 齋が脇で呆れたようにこちらを見ているのを意識しつつ、目の前の仕立てのいいスーツに身を包んだ異貌の美形と流暢な日本語で挨拶を交わしてなお、日本人であるとは信じられない。

「せんせい。裾から糸伸びていますよ」

「どこだよ」

「落ちましたね」

 あまりに見え透いた齋の小芝居に救われたことを水本は恥じた。

「改めまして。こちらの相続執行庶務の代理人を努めております水本弘蔵です。こちらは助手の齋夜月。よろしくお願い致します」

 學習院と名乗った人物と水本は、実に日本人らしい挨拶の慣例、お互いの名刺をどういうタイミングで差し出すかを観察しあっていた。奇妙なことだが、些細なこれだけで學習院が日本人であるらしい、と水本は認めて内心笑った。

 応接室には人が多すぎ、洋間造りの食堂に全員が着席した。

 元は和室だったろう造りに大きな椅子とテーブルが収まっているのは、実に日本的な釣り合いのとれた不似合いだった。

 しばし緩んだ空気のあと、改めて立った學習院が口を開いた。

「この度、私共は遠藤曜十郎氏の業績を称える財団を設立しようと考えております。つきましてはご遺族を代表して翔一郎様と碧三郎様に理事となっていただきたいと思い、参上致しました」

 間を飛ばされた形になった碧三郎の上の叔父である藤二郎は、苦笑して碧三郎を眺めたが、自身は医師としてまた県内の有力な病院の理事でもある彼は、とくに何も口にしなかった。

 何を狙ってのことかは分からないが、遺族を取り込むには悪くない手だ、と水本は思った。

「遠藤曜十郎氏の遺された業績は、日本では華岡青洲や杉田玄白以来の巨大な足跡であると言え、その玄妙と跳躍では華陀やパルケルススにも匹敵する天才である、と私共は傾倒しております。恐らくは事業の痕跡から理論へと回帰を待つには十年二十年では足りず、五十年か百年か世紀をまたいでも奇しくもなく、また忘れ去られることを見過ごすには、あまりにも偉大な技術であったと思います」

 本題を切り出すや、學習院は滔々と曜十郎を讃えた。

「遺族の皆様には、或いは身内にありすぎて身贔屓を恐れるあまり疑われるかもしれませんが、戦後の日本画壇や書流の人材を救うにおいては、先生はひとかたならぬ功績を残されております。スポーツ選手や演奏家にも先生に救われた人々は幾人かいらっしゃいます。他にも先生が実際に多くの人々を救ったことは、自宅で医院を営まれていた時期をご存知の皆様には私から何かを申し上げることは口幅ったいのですが、こちらの医院を訪れ退院した人々のうち幾許かの方々は、世界の他の医院では救われることなかった人々であることは間違いありません」

 翔一郎の叔父夫妻の幾人かの間では思うところもあったのか、潜めきれない反応があった。

「――誠に僭越ながら、財団設立に先立ちまして私共の方で、追える限りの遠藤曜十郎先生の医師としての実績を追わせていただきました。また、当時としては技術的な跳躍ともいえる曜十郎先生の手製の医療機器についても、残されているものを幾つか発見致しました。もちろん、全てを網羅する、と言うには大きくかけているものとは思いますが、それでもご覧いただければ、いかに多くの人々が先生の手によって救われたことかを実感いただけるものと思います」

 患者の顔写真と症状の概要と現状を一人一葉に圧し纏めた分冊状に束ねられたものが、居合わせた四組の夫妻に、水本と齋にまで配られ幾分余った。手づから配って歩いた學習院が一礼して席に戻る。

 驚くべきことに、どうやら全て内容が異なっているらしい。

「これはすごいですよ」

 齋が隣の黄四郎氏から回ってきた分冊を水本に見せる。

 それはちょっとした博物館めいた医療機器のカタログだった。次の植物の標本のような写真と解説があるのは生薬だろうか。曜十郎は近年再び脚光を浴びている漢方や鍼灸にも長年に着目研究していたらしい。

「軸旋回で角度を調整して胃まで到達できるレンズ。胃カメラですよ。屈折率を調整した複数のガラス状素材とグリセリンで構成されたレンズだそうです。一般に知られているシンドラーの胃鏡と同時期のものとは思えない精巧さです。こっちはマグネトロンで脳血栓を見つける機械だそうですよ」

 何を言っているかわからないが、齋がはしゃいで見せるときはろくなことがない。そう思いながら、水本は遠藤曜十郎という人物が多くの患者を専門とは関わりなく医師として扱ってきたかを知ることになった。医師がそれぞれの専門分野を深く掘り下げるのは、人体の複雑な機構を人ひとりで理解することの困難さゆえであるわけだが、曜十郎の鬼才は神経骨格筋肉臓器とその程度の認識しか出来ない水本にも、圧倒的な理解を要求していた。

 満足気に微笑む碧三郎以外の遺族は、自らの父がどういう人物であったかの業績を列挙されたことに、改めて圧倒されていた。

「それで、どういうお話でしょう」

 思いのほか冷たい声で翔一郎が尋ねたことに場が静まった。

「先生の本邸であったこちらには、先生の業績を内側から語るものが多く残されていると考えております。それらの管理を私共の新設する財団にご一任いただきたく、お願いに上がりました」

 學習院がその黒檀にも似た色艶の顔の笑顔のまま、答えた。

「――信用をカネで買う。というのは、あまりよい響きではございませんが、相応の準備と保存への努力を示す意味でも、ただで、とは思っておりません。この場で金額を提示してもよろしいですか」

 學習院は引き取るべきものもみないで見積もりを立てると言っている。およそ正気の沙汰ではないが、學習院には相応の勝算があってのことだろう。彼が持参した資料のまとめ具合を眺めるに、水本にはそう思えた。

「私の祖父、遠藤曜十郎の実績を散逸せぬように保存していただけるという申し出、ただただありがたいと感じます。また、祖父がこのように多くの人々を救ったこと、その方々がひとかたならぬご繁栄を迎えられ過ごされていたことをこのように纏めた形でお伝えくださり、私共遺族に改めて大きな誇りを与えてくださいました。そのことだけで本日のお運びには深く大きく感謝いたしております」

 翔一郎が頭を下げるに合わせて、一同も倣った。

「――ですが、申し訳ございません。この申し出のおはなし、時期尚早に感じられます。我々遺族の内々で気持ちの整理をつける時間をしばし頂きたく思います。重ね重ねありがたいお申し出、また祖父の業績へのご配慮ご厚情感謝するだに絶えませんが、この度の遺品の収蔵管理のお申し出の件、誠に申し訳なくも、一度辞退させていただきたく思います。わざわざお運びいただいた上で誠に恐縮なのですが、本日はこのままお引取りいただけますでしょうか」

「ちょっと待て。どういうつもりだ」

 碧三郎が翔一郎の言葉に激昂して立ち上がる。

「わざわざおいで頂いて、遺品をお目にかけもせずに追い返すつもりか。貴様は――」

「わかりました。申し訳ありません。遺族の方々の胸の内、配慮が足りなかったようです。偉人の死に気が急いてしまったようです。我ながら浅ましさを恥じるばかりです」

 碧三郎の言葉を遮って學習院が立ち上がって言い、そのまま深く頭を下げた。

「――學習院さん。それでは……」

 碧三郎が狼狽える。

「申し出の時期を誤ったことはともかく、私の遠藤曜十郎氏の業績への崇敬と収集の努力そのものが皆様に拒否されたわけではないこと、翔一郎様からのお言葉で理解出来ました。その中でご覧になったかもしれませんが、私も子供の頃に難病の治療で先生にお世話になり、命を救われました。決して単なる好奇心からというわけでなく、単に投機的な意味というわけではなく、時代を超えた宝として、遠藤曜十郎先生の業績を保存したいという私の心をご理解いただけたなら、幸いです」

 向き直った學習院の目がつと潤み、瞬きとともに涙が溢れるのに一同がさざめく。

 場の中で心当たりがあった藤二郎の妻が該当箇所をめくり直し、夫に示している。藤二郎が声もなく驚き、學習院を見る。

 學習院は席を離れた。

「また落ち着いた頃に、改めておはなしを進めさせていただくお許しをいただきたいと思います。皆様には、お時間をいただき、お迎えくださったことに、心より感謝をいたします。本日はありがとうございました」

 學習院がきれいな最敬礼をしたのに合わせて、翔一郎以外の遺族が慌てたように立ち上がり、礼を返す。

 日本人ばなれした異貌の美形は、しかし日本的な人物であったらしい。

 學習院が礼を終えると、翔一郎は静かに立ち上がり、學習院を玄関まで送った。一同も勢いついて行く。

 庭先の車に乗り込むにあたっては、碧三郎が學習院に寄り添うように送り、車の扉の開く脇で色々と恐縮して見せている。

 齋が白けたような顔をしているのに、水本が掣肘した。


 見送っての一同は學習院を見ての感想がそれぞれにあるようで、緩んだ空気で戻ってきた。概ね好意的な雰囲気だった。

「それで、いつならいいんだ」

 碧三郎が翔一郎に詰め寄るように問いただした。

 翔一郎は不思議そうな呆れたような顔をしていた。

「何だ。その顔は」

「お祖父様のことを知っているヒトがいる間は、家にあるものは外に売りに出しませんよ」

「どういうことだ」

 碧三郎は更に詰め寄る。

「どういうもこういうもありません。相続に関する限り、お祖父様の残された現金や有価証券だけで処理が行えるからです。不動産の類も売る気はありません」

「そうしたら、いつ、あそこのガラクタを売るんだ」

 興奮した碧三郎は、翔一郎の表情には気が付かなかった。

「水本先生。お願いしていた調査は間に合いましたか」

 翔一郎は目の前の碧三郎を無視して、水本に首を巡らせた。

「齋。どうなんだ」

「お知りになりたいところの大凡はお伝えできると思います」

 齋が応えたのに、水本は翔一郎に頷く。

「どういうことなんだ。翔一郎」

 この場で一番年かさの藤二郎が翔一郎に事情を聞く。

「學習院という人物について水本先生に調べていただくようにお願いしたのです。もちろんウチの会社の付き合いでも分かる範囲での評判は聞いてみました」

「詐欺師だってことなの。――子供の頃助けられたって言ってたけど」

 藤二郎の妻の明子が驚いたように言った。

「そうは言っていませんよ。明子さん」

 翔一郎が言った。

「水本先生。調査ってことですが、一体何の調査だったのです」

 黄四郎が直に水本に尋ねた。

「基本的には信用調査です。齋。報告を君から直接」

 一礼して齋は夫婦にそれぞれ一部づつ資料を配る。

「端的に言えば、學習院英麻呂氏はいわゆる詐欺師ではありません。彼は複数の投資会社の幹部として名を連ねる国際投資家です。學習院英麻呂というのも本名です。しかも彼の曽祖父は日露戦争にも従軍しています」

「しかし、あんな肌と目では」

「帰化人です。貿易商だったようですね。明治の時代に様々な政府の許可を容易に取得するためにロシアから帰化したようです。神戸と函館に親族がいたようですが、満州に渡って家系が細ったようです。明治当時、白ロシア系の帰化移民は積極的に亡命者を家系に組み込むことで苦難を助けあっていたようですから、記録に残っていないことはわかりませんが、苦労したことでしょう」

 水本は咳払いをして先を促す。

「ともかく、帰化申請の折にどういう拍子か、學習院という苗字を得たまま今に至るということのようで、当時の帰化申請書類も外務省に残っていました」

 あまり、写真の質は良くないがかろうじて読める文字でペン書きの帰化申請書類とその受理番号が載った公式の書類が資料で示されていた。

「で、その學習院氏とあの學習院氏が同一人物である証拠はあるのかね」

「過去に彼は都内で駐車違反で捕まっているのでその時の記録がありました」

 失笑が漏れる。

「――その時のお巡りさんが石頭の先走りで、日本人かどうか免許が偽造ではないか、と大揉めに揉めたらしく、裁判沙汰になっていまして、結局は和解に至ったのですが、裁判資料の中に写真もありました。裁判資料は名前がそのまま載っていました。証言の中に、黒人と見紛う黒い肌、色の薄い金髪、赤い瞳、長身男性ということで特徴はあっています。その経緯は、写真週刊誌でも話題になってました。アイラインが乗っていますが、面影はあります。どうもテレビでも取り上げたらしいのですが、すみません。そこまでは追いきれませんでした」

「他にはないの。本人かどうかってことじゃなくて」

「學習院英麻呂名義の物件が都心部の一等地に二十年以上動かずにあります。物件は鉄筋コンクリート造五階建てで、堅牢なものですが、あまり大きなものではありません。尤も都内なので私が買えるような値段ではありませんが。これは長いこと抵当に入っていないものですが、他の資産はめまぐるしく動いており、時価なのでなんともですが、数百億から千億近い金額を動かしているかもしれません。住所地は都内の高級賃貸を使っているのですが、名義は彼の関係する資産投資会社で実質的には持ち家のような状態ですね」

 求めに応じバラバラと答えていた齋に目が集まる。

「どういうことか、もうちょっと整理してくれないか」

 藤二郎が場を代表する形で言った。

 助けを求めるような顔の齋に水本は顎をしゃくる。

「學習院英麻呂氏は日本国籍を持った実在の人物で独身。本日の人物が彼その当人でほぼ間違いありません。學習院氏は数百億から千億程度の名義資産資金を直接流動的に扱う立場にあり、経済的にとくに追い詰められた様子はなく、好んで詐欺をおこなう立場にはありませんが、人脈や経済的な実力からすれば詐欺を必要とせずに合法的な手段で何らかの攻撃を行うことも可能です。ですが、現実問題としてこちらの遠藤さんのような立場であれば、慎重に行動をすれば問題になるような関係はないと思います。あと、これは多分重要なのですが、碧三郎さんの後援会の比較的新しい一員でもあります」

「――親父が死ぬ前からの付き合いだ。県の墨蹟会で紹介されて、意気投合したんだ。若いのに見かけによらず、良い字を書く青年だ」

 概要を述べる齋に、慌てたように碧三郎が割り込み補足する。

 皆は、なるほど、という顔をした。

 遠藤家は曜十郎の意向によって誰もが書道をそれなりに学ばされたが、政治の道に進んだ碧三郎は、単に趣味というだけにとどまらない理由で書に打ち込んでいるのは、一族の誰もが知っていた。

「學習院さんが本物で、財団を作れるくらいお金持ちで、碧三郎兄さんのお友達だっていうのはわかったけど、翔一郎さんが乗り気でないのはどうしてなの。優子さんも納得しているの」

 黄四郎の妻である泰子が不思議そうに聞いた。

「私達がお金に困っていないから、というのでは理由になりませんか」

 溜息を付くように翔一郎は言った。視線が流され、叔父たちの集まりということで遠慮していた優子も頷く。

 碧三郎以外の誰もがなんとなく察したようだった。

「私も、……僕もじいさんには困らされてはいたけれど、おじさんたちほど苦しめられてはなかったし、おばさんたちほど怒り狂ってもいないんですよ。せいぜい変な人だなあってくらいで」

 四十男の独白にしては妙に内輪の雰囲気で、水本は足元が生ぬるくなるのを感じた。

「私も梅姉さんが死んだときはお父様には色々言いたいことがあったけど、死んだ人のことはもういいわ」

 明子は翔一郎の母が若くして亡くなったことを言っていた。翔一郎はきちんと覚えていないが、梅は旅先で自殺して亡くなっていた。

「親父が凄腕だってのは知っていたけど、二十年以上も前にあんな手術をなぁ。まともに話ができる人だったらよかったんだが……」

 心底惜しむような声で藤二郎が言った。

「単に丸投げでお願いすればよかったんじゃないの」

 明子が軽い口調で場を切り替えた。

「お前がそれをいうか」

 明子は藤二郎の病院に曜十郎が踏み込むことを許さなかった。曜十郎が医事法を無視するような医療行為と病院全てを私するような態度を改めなかったためだが、それ以上に明子と曜十郎はそりが合わなかった。

「緋一郎兄さんがいればな」

 兄弟の中でほとんど唯一曜十郎と話ができた翔一郎の父はしかし、妻の梅が亡くなったあと人が変わったようになり、翔一郎にとっては祖父よりもよほど怖い人物だった。その父も翔一郎が成人する前に亡くなった。

「ともかく、叔父さんがたが、既に分けた財産をどう処分されようと私は斟酌しませんが、いまこの家の中にあるものは当面売りに出すつもりはありません。財団を立ち上げて理事にと言うのは一見ステキな提案ですが、機能と可能性というだけに限れば私も会社にその程度のことをさせる度量はあります」

 先年すでに土地建物に関して、曜十郎の資産は一切が分割されており、金融資産ばかりが公式にはある状態になっているところで、翔一郎は叔父に対して財産分与上の負い目をほとんど持っていない。藤二郎は忙しい身だったし、黄四郎も既に子をなした甥に今更の後見は必要なかろうという立場だった。

「――アオおじさんが気にされているのは、今後の選挙のことですか」

「……そうだ」

 翔一郎に正面から話題をふられて、しぶしぶ碧三郎も認めた。

「水本先生の方から、この提案を受けた場合、受けなかった場合の面倒のケースはありますか」

 翔一郎は水本に確認した。

「受けなかった場合は、今後まとまった形で処分する機会が減るだろうと思います。金額も相応に。受けた場合は、相手の値付けにもよりますが、私がおこなう手続き上、主に税務上の作業が増えます。今のところ単なる一般的な業務資料として扱っているので、法律で定められた以上の金額にはなりませんが、美術品等の扱いになると金額が一気に変化する可能性があります」

 水本は、単に事務方の手間、という問題で流す。

「私の知っているところですと、一般家庭で使っていた椅子にオークションで生涯年収を超えるような金額がついて、嬉しやと遊んで翌年の税金で年収を超える請求が降って現れて、一家離散っていうケースがありましたね。今日の學習院氏の入れ込み具合を考えると、どういう金額になるか、見当もつきません」

 軽い例として軽い口調で告げたであろう齋のエピソードは、一同を却って困惑させた。

「金額を聞いてみるくらいはいいんじゃないか」

 それでもと渋る碧三郎が、すがるように言う。

「百兆円。とか言われて札束で出来た家を作られたらどうするの」

 明子が冗談めかして軽く言った言葉に、場は更に困惑した。

「私の会社の社員でも相続で受け取った美術品を売却して身を持ち崩す話は聞いたことがある。他人事と思っていたが、金額によっては私達もひとごととは言い切れないな」

 黄四郎が言った。

「なるほど、翔一郎が慎重になる理由は分かった。私はとくにカネが必要というわけでも、義理があるわけでもない。翔一郎に任せる」

 藤二郎が言うとなんとなく場が納得した。

「あなた。選挙のことを考えているのはわかるけど、今回のことは諦めましょう。そもそもこちらのお家はもう翔一郎さんの財産なのよ」

 それまで黙っていた碧三郎の妻の雅子も明確に意思を示した。碧三郎は驚いたように雅子を見たが、太り肉の雅子は殴り合い取っ組み合いの実力ではこの中でおそらく一番強そうにみえる。

「すみません。雅子さん」

 翔一郎は頭を下げる。

「家の人、道路と水道と石油は結構頑張ってんだから、その分助けてあげて。お父さんの面倒みないで良くなったんだから、離れにいた人たち、あなたから言ってこの人の事務所に回して頂戴。あの人達、ご下命ならなんでもってことなんでしょ」

「それぞれ就職させてしまっているので、いっぺんに全員という訳にはいかないでしょうが、都合をつけるように頼んでおきます」

「そうして頂戴」

 雅子は力強く頷く。

「――これでいいでしょ。いつも人が足りないって言ってたんだから」

 雅子が碧三郎に言う。

「アオ。困ってるなら、いつでもいってくれ」

「兄さん。俺も大したこと出来ないけど、言ってくれればできることもあるよ」

 雅子の具体的な妥結案に碧三郎の応対が注目された。

「わかった。奥の女達の身の振り方も含めて、離れの品はお前の好きにしろ。それと勘違いされると困るんだが――」

「わかってます。一新の機会だと思って下さったのですよね」

「――そうだ。女達の行き先は順調か」

 碧三郎が口にした言葉に、ぎょっとした場の目が雅子に集まるが、雅子当人は涼しい顔だった。

「いまのところは」

「そうか」

「オヤジの隠し子って子はどうだ」

 碧三郎は微妙な問題を埃を叩くように持ちだした。

「しばらくウチで預かって、奥の女中の誰かに預けようと思っています」

「そうか。行く先に困ったら、ウチで引き取る」

「ありがとうございます」

 翔一郎は頭を下げた。

「あと言うべきことはあるかしら」

 雅子が碧三郎を促した。

 おう、と碧三郎は応じた。

「遠藤碧三郎。県政真面目に努めております。今後とも変わらぬご支援よろしくお願いいたします」

 夫婦揃って一同に頭を下げる。

 碧三郎も納得したらしかった。

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