二十九日目

 水本は病院で受け取った検査結果と戸籍作成に関する資料を携えて遠藤邸に翔一郎を訪ねた。

 翔一郎は身内の面倒に馴れた人に特有の、鷹揚な落ち着いた様子で水本の話をひと通り聞いて確認した。

「つまり、祖父と保護された佐々木さんの家の少女と、には血縁関係があると、そういうことですかな」

 翔一郎は、それがどうなるのか、と促すように探るような表情で水本の言葉を待つ。

「検死資料の血液試料と彼女の血液の遺伝子検査の結果としてはそうなります。尤も、検査の報告内容によれば、どのような類縁であるかまでは保証していないので、相続に直接係る問題とは捉えておりません。そこで、佐々木未来さんとお祖父様曜十郎氏の庶子ということで戸籍作成をおこなわせていただけないかと」

 水本は先ほどの説明を順番を変え、訪問の目的を示す。

「この場合、私がおこなうべき作業は何になりますか。先生へのお支払いの準備くらいでいいですか」

「ご遺族の代表として許可だけいただければ。私の賃金に関しては、いずれ家庭裁判所には足を運ぶ用もありますから、お気になさらずとも結構です」

 水本の言葉を聞きながら、翔一郎は遺伝子検査の結果報告書を手に取り眺める。

「水本先生にはお手間をとらせます。父の時といい、本当に尽力いただいて感謝しているのです。今後とも宜しくお願い致します」

 翔一郎は水本に頭を下げる。

「ところで、先ほどなさるべき作業はないといった口で、恐縮なのですが、佐々木さんの身元を受け入れる、養育を面倒見られるような方に心当たりはありませんでしょうか。先日はこちらを退職される家政婦さんのことを口にされていたようですが」

「まだきちんと定めたわけではありませんが、心当たりがないことはありません。家にいる女中たちの退職金に多少色をつけて面倒を見させるのがいいでしょうね。行く宛が出来たものから出て行っていますが、新しい生活の条件が定まったところで聞いてみます。ところで名前は」

 翔一郎は事務的以外の興味を見せて尋ねた。

「佐々木未来、さんです」

「それで問題にならないのですか」

 翔一郎はさすがに怪訝な顔をした。

「とくには。思うところがないわけではないのですが、私の依頼主はこちらの遠藤翔一郎氏ですから、少なくともこちらにご面倒はかけません」

 言いながら、水本は戸籍作成に関する書式を改めて示す。

「これであの屋敷の顛末はこの子に押し付けられるわけですかな」

 署名しながら翔一郎は水本を探るような響きで言った。

「もともと、彼女の物ですから」

 水本は今は伏せて見えない翔一郎の目を感じながら応えた。

「そうでした」

 翔一郎は書類の文言を確認しながら認めた。

 週明けの月曜日、水本は家庭裁判所からの帰りがけに病院に佐々木未来を迎えに訪れた。

 二代続けて同じ名前ということも、裁判所の手続きには問題にならなかった。

 交通機関での移動と同じくらい待合で待たされた以外には、手続きはほんの数手間、せいぜい切符を窓口で買って改札をくぐるような、小さな切符をポケットで探すほうがよほど手間に感じる、水本にはそんな感覚だった。

 この日、佐々木未来となった彼女は相変わらず口を開かなかったが、まだ痩せているものの立ち歩くのには支障がなく、水本の言葉におとなしく従い、翔一郎の手配の車で共に遠藤邸に向かった。

 偶々出迎えた翔一郎の次男慎二郎は水本の連れてきた子供に驚いたようだったが、多くの詮索はせずに翔一郎氏に取り継いだ。直感的に不快なものを水本は感じた。


 水本が慎二郎によって戸口まで案内された翔一郎の書齋は、どうにもならない雰囲気になっていた。

 翔一郎の叔父である碧三郎が、遺品の目利きを頼んだらしい。

 単に子供を送り届ければおしまいのつもりでいた水本にとっては、なんとも言えない状況だった。

 翔一郎は祖父曜十郎の天才を認めていたが、同時にその奇行も、とくに国法や人倫を歯牙にもかけない言動行動には恐々と過ごしていたし、自分が当主として収まった後に家中で死人が出なかったことが祖父がなくなってのひとつ好事だった。

 奥の女中たちが拳銃を身につけているのを翔一郎は知っていたし、日常蓋をしていたことだったわけだが、曜十郎が亡くなるということは、そういう諸々の蓋の中身をどうするべきかという問題を、翔一郎自身が決着することでもあった。

 翔一郎の感覚では曜十郎の実績はあまりに理解不能で、仮に曜十郎の業績を理解し継ぐ者があるとしても、それは自分ではないし、曜十郎を知る者でもなく、ただどこかいずれで生まれた誰かが些細な事から同好の士の足跡をみつけ、たどり着くべきものだろうと直感していた。

 とすれば、翔一郎は蓋をきちんと閉じて、余人には濫りに触れさせないことを、祖父の遺品についての自らの役割と定めていた。

 はっきり言えば、祖父の業績を訳も分からず売り払おうという魂胆に浅ましさを感じていたし、それ程に金が必要な何かが叔父の身辺にあったろうかと疑っていた。碧三郎の妻は祖父とは距離をおいて、自分で夫を支える器量を持っていたから、叔父に魔が差したとしか翔一郎には理解できなかった。

 翔一郎は、欲しいモノがあって欲しい奴がいて、それを要らない人間に代わりにカネをくれると言っていることのどこがおかしいのだ、的な碧三郎の言葉に、お互いの根底にある価値観が全く異なることを理解し、説明できない苛立ちを感じていた。

「父さん。水本先生。あと、しばらく預かるって子もいっしょ」

 慎二郎は、年頃の息子が親に対してとる生意気な、投げ出したような声で書齋の空気をかき乱した。

「ここが取り込んでるのはお前もわかっているだろ。応接間にお通ししろ。あと、楓と橘を呼んでおけ」

「母さんが機嫌悪くなるんじゃね」

「余計なことを言うな」

 父の様子を面白がっている慎二郎の様子はともかく、書齋の中の様子は水本の今後の方針にも大きく影響する重大な雰囲気をはらんでいた。

「お忙しいようだったら出なおす、とお父上に伝えてくれますか」

「水本先生は良くても、その子は可愛そうだな。ありゃアオおじさんが悪いんだよ。いきなりデカい助っ人外人みたいなヒト連れてきてさ」

 慎二郎は水本の慎重な口調に目を向けて、水本の腰のあたりにある未来の顔を眺めて言った。

「何の話をしているか、知っていますか」

「離れの中身を売るの売らないのってことみたい。売るったってあんなの安く買い叩かれるのがオチだろうと思うけど」

 慎二郎は軽く言ったが、安く買い叩かれるならまだいいくらいで、法外な値付けをされて一家が噴き飛ぶなんてのも、水本はいくつも知っていた。

「この子、名前はなんての? 綺麗な髪だね。歳はいくつ?」

 覗きこむような慎二郎の好奇の目に未来は押し込まれるように水本の背後に回る。

「名前はミキ。この間、三歳になったところです」

 丁寧な口調に不機嫌を隠さない水本の表情を見て、慎二郎は肩をすくめた。

「しばらくこちらでお待ちください」

 その場限りの気取った態度で慎二郎は水本を応接間に通し、出て行った。

 雰囲気の悪くない応接室だが、途中で見かけた望ましからざる展開を想起させる出来事に、水本は戸口に立ったまま部屋を見回す。さりとて首を巡らすだけでは間が足りなくなって、一歩下がったところで未来の存在にようやく気が回る。

「すまん。足を踏まなかったか」

 黙ったまま首を振る未来に水本は微笑む。

「少しかかるようだから、ソファーに座って待っていよう」

 未来はこちらの言っていることはわかるらしく、水本がソファーに向かうのに併せて並んで座る。

 水本の娘も嫁いで久しいが、まだ子供の話は聞かない。というよりも、作らない方針でいるらしいので、水本は孫というものをほとんど諦めていたが、ひょんなところから疑似体験が出来たことで、まぁこれもいいかと思えるくらいには余裕を自覚できてきた。

 未来もとくに騒ぐでもなく、水本も話すわけでもなく、どこからかかすかに聞こえる時計の音を二人して聞いていた。

 やがてお仕着せを着たふたりの住込み女中が、茶道具を揃えた盆を持って現れた。

 ふたりは目配せをするとひとりが一礼して退室した。

 ローテーブルの脇に跪き、煎茶の支度をする。湯冷ましから昇る湯気に、水本は見るともなく見入る。

 やがて、煎茶の青い甘い香りが応接間の軽く湿気た香りに混ざる。

 新しい良いお茶特有の産毛が水面で軽く揺れている。

「いただきます」

 水本が座ったまま頭を下げるのに合わせて、未来も同じようにする。

 未来の小さな手には湯のみが大きかったらしく、両手で抱えていたが、手間をかけた煎茶は熱すぎるということはないらしく、困った顔もせずに口にしている。そして、笑顔を水本に向けた。

「美味しかったか。良かったな」

 水本は三十年以上ぶりに子供と接している喜びを感じている自分を発見した。職務上の倫理や義務感以外のどこか危険な甘い何かを感じている自分を、水本は束の間と許した。

 やがて廊下に気配がして、翔一郎が先ほどの女中を従えて現れた。

「おまたせして申し訳ありません。その子が佐々木未来さんですね」

 チラリと目の隅に未来を捉え、翔一郎は水本に確認する。

「そうです。この子をお願いしようと思います。ですが、よろしいのでしょうか。先ほど慎二郎さんは、奥様は反対のようにも言っておられたようですが」

 翔一郎は少し不思議そうな顔をし、思い当たったようだった。

「いえ。家内がと言うのは、彼女たちの身の振り方が遅くなることを案じているだけです。彼女たちも再就職が決まりそうなのですがやや遠方で、既に再就職した者達も落ち着いたというには程遠い状況ですので。どのみちひとつきほどの事ですから、うちにいる間は彼女らに頼もうかと」

 翔一郎の口ぶりは庇っていたが、女中を快く思っていないのは翔一郎の妻であるらしい、と水本は察した。

 見えない聞こえないところであればまだしも、翔一郎の叔父たちは女中を炊転びとして扱うことを公然と口にして恥じないというのは、昭和も終わった昨今では時代錯誤も甚だしい、とは水本も内心同意できる。

「――いいね。ふたりで未来さんの面倒を見てやってくれ。楓、橘」

 戸口に立つ二人の女中の顔を見て、翔一郎は言った。

「はい」

「承りました」

 どちらがどちらか水本には区別がつかなかったが、ふたりはそれぞれ声に出して了承を返事した。

「着替えやいるものは離れのものを、お前たちのいいように。足りないものは、あるようなら追って言うこと」

「畏まりました」

「頼むよ」

 翔一郎は指示に疑問を挟まない二人の顔を見て、頷く。

「未来さん。この家にいる間は、このふたりが面倒を見ます。自分の家と思って楽にしてください」

 翔一郎は全く静かなやわらかな口調で未来に語りかける。

 未来はとくに返事をしなかったが、二人の女中が促すと水本の顔をじっと眺めた。

「こちらでお世話になっていなさい」

 そう言って水本が頷くと、未来は立ち上がり女中に導かれ、部屋を出た。

 水本は知らず、ため息をつく。

「お願いしておいて、今更ですが、奥方様とは大丈夫でしょうか」

 翔一郎がじっと見つめているのに気が付き、水本は言う。

「ああ。優子――妻が腹を立てているのは、彼女たちにではありませんよ。叔父や私の彼女たちへの扱いに腹を立てているのです。祖父の威を着て、好き勝手に弄んで、と。息子たちにも悪い癖がうつることを怖れているのです」

「ああ」

 翔一郎の言葉に水本は曖昧に相槌を打つ。

「もちろん私には私の、叔父達には叔父達の言い分があるところで、盛りのついた小僧にはアレはアレで効果のある躾だったとも思うのです。ですが、祖父が亡くなったという区切りを考えれば、この辺りが潮時ということでしょう。私どもの世話ばかり焼かせるのも勿体無いことだと思ってはいたのですよ」

 水本は、ため息混じりに困ったように懐かしむ翔一郎を、しばし眺めた。

「これが、佐々木未来さんの戸籍です。すでにお伝えの通り、お祖父様と佐々木未来さんの庶子ということで戸籍を作ってあります。生年月日は詳細不明だったのですが、来年四月に幼稚園に通わせることにして、三歳ということにしてあります。生まれ日は勝手ながらお祖父様のご命日と致しました」

 水本が書類を取り出し話を切りだすのを、翔一郎は聞いていた。

「わかりやすく妥当なところだと思います。彼女に関して、この後の流れとしてはどうなりますか」

「当面はとくにありません。時に応じて後見人になっていただけるなら、進学が楽になるというくらいでしょうか」

 翔一郎は目を瞬かせた。

「意外と簡単なものですね。いなかったはずの人間がこの世に現れるというのも」

「失礼ですが、彼女はいなかったわけではありません。私達が気が付かなかっただけです」

「そうですね。気が付かなかったために、本当に亡くなってしまった方たちもいたのでした」

 水本が指摘すると、翔一郎は素直に言った。

 しばしふたりは黙って書類に目を落とす。

「今回、お邪魔した件はこちらで完了です。ですが、私が伺っておいた方が良さそうな件が出来たようですが」

 水本が水を向けた。

「先程は失礼致しました」

「どなたか遺品の整理を請け負う話があるとか」

「遺品の整理というか、値付けを頼めるモノがあるかみてもらうということを叔父が、――碧三郎が頼んだようなのですよ」

「それは面倒な」

 国際的な系譜の存在する美術品にはある一定のレートや評価が存在するが、一品物の工芸品の類には実質的な基準が存在しない。だが、遠藤曜十郎の名前は墨蹟の類がそこそこの値が付く程度に評されており、医学関係者であれば知っている者は知っている種類の人物であり、世に出すつもりのモノではなくても、世に出せば欲しがる者がいないわけではない。

 おそらく碧三郎氏は訃報を聞きつけた誰かから善意の斡旋を受け、小遣い稼ぎ程度の軽い気持ちで受けたのだろう。

 古い看板や埃をかぶった人形にも十万の値がつくこともある。離れの規模を考えれば、会社の年商ほどの金額が動くことすらも考えに入れなければならない。

 水本は苦い表情が浮かぶのを自覚した。

「それで、その話はどのように」

「受けるにせよ断るにせよ、私が直接あって応えることにしないと、叔父の面子の問題もあります」

 思いの外淡々と応える翔一郎に水本は少し焦れる。

「お断りになったほうが良いと思います。買い叩かれるならまだしも、とてつもない金額がついた場合には生活自体が破壊されます」

「そうでしょうね。杉田玄白以来の人物だと評する人もいるらしいですし」

 翔一郎が少し白けたような投げやりな困った口調で言った。

「――正直なところ、身内目ではただの偏屈者という程度の感覚だったのですが、祖父の目を気にせず離れをゆっくり歩くと、その業績の痕跡は空恐ろしくなるほどです。狂人の妄言と言うにはあまりに緻密な経緯が残っており、大変な人物のそばにいたのだと、今更ながらに実感しているところです」

 翔一郎が何を見てそう思ったかまではわからなかったが、水本は前回の相続の折に、遠藤曜十郎に関わる依頼を受けたと知った同業関係の人々からの掛けられた羨望と漏れ伝えられた事柄から、相応に凄まじいものなのだろうとは思っていた。

 水本には医学の心得はなかったから、通夜の折に案内されて離れに足を運んだ時にも、せいぜい高校の生物の準備室か小さな博物館位の感覚しかなかったが、思えば博物館に収蔵されている品々の価値を金額に換算して考えれば、個人の財産としてはあまりに巨大なものになる。

「処分なさるにしても、ほとぼりが覚めるのを待ってからのほうがいいと思います。例えば、どちらか信用できる会社に一時資料としてお預けになって、その後ゆっくりととか」

「私もそう思っておりました。私の関係の倉庫会社に担保として預けて、地所を借りたことにするとか、そういう方向が無難だろうと」

 水本の好みとは多少違うが、少なくとも順当な方法ではある。

「――そういうことで、叔父のいう人物と会うことになります」

「日取りは」

 水本はほとんど反射的に問うた。

「それを先生とご相談したいと思います。叔父には、今週中に改めて期日の連絡をつける、ということで帰ってもらいました」

 ふう、と水本はため息をつく。

「わかりました。今回の件の助手を同席させたいと思います。あまり引っ張りすぎて先方の同業の仲買辺りが群がってきても困りますし、再来週あたりでいかがでしょう」

「結構ですが、再来週というのは」

「おそらくその辺りまでは役所巡りで大車輪しているはずですので」

「なるほど、承知しました」

 水本は翔一郎とおおまかな段取りを定めた。

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