二十八日目

 水本としてはそうは望んでいたものの意外ですらあったのだが、翔一郎はあっさりと少女の存在を認知し、邸宅の所有権については関知しないことを口にした。

 現実に物があれば、どうあろうとどうとでも使い様や扱い様がないわけではないから、少女についても邸宅についても必ずしも翔一郎の認知が必要であるわけではないが、関係者の線引を依頼主との間で合致させておくことは相続を扱う弁護士としては重要だと水本は考えていた。

 既に幾人かの生命が失われた、命の問題でもある、という認識も水本の中では存在しており、翔一郎が強く邸宅の所有権について主張しなかったことを感謝もしていた。或いは、翔一郎も死んだ女達――恐らくは曜十郎に邸宅の管理を委託された一団であろう、と想像しているに違いない。

 曜十郎に付き従っていた女中たち――家中では炊転びと称される身寄りのない女たちは翔一郎の将来の家族計画の中には含まれていないものの、その扱いは穏やかであるべきと定めているらしいことは、水本としては好ましいように感じられた。

 そういうわけで水本は気分を楽にして少女の容態を確認するために入院している病院に足を向けることが出来た。

 病院と言っても商業地の真ん中にある、あまり綺麗とはいえない雑居ビルの一層にある小児科で、なぜこんなところに小児科がというように飲み屋の看板の中に埋もれるように表札代わりの高坂小児科の表示がある医院だった。

 齋がかつて解説したところによると、小児科というのは総合的な医科で、扱う傷病例目が圧倒的に広く、野心あふれる医師が能力や才能やる気に応じた営業と実務が事実上自由におこなえる医科、だとかいうことだった。つまりは、あまり子供をまじめに相手にしていなさそうなこの立地を察して欲しい、そういうことらしい。

 なんとも不真面目な医師もあったものだが、齋が幾度か使っているところを見ると、高坂という医師は腕は悪くなく面倒が少ない、ということだろうと水本は理解していた。実際に幾度か身元の怪しげな人物やら目つきの胡乱な人物が出入りしているのは見たことがあったし、水本の担当事件でも偶然警察よりも先に身元を押さえられた人物の入院を斡旋したこともある。が、身なりの良い親子連れにはあったことがない。いや、確か異国の言葉で通じる親子は見かけた気がする。そういうところだった。

 日中のビルは静かだった。

 戸をくぐり、いらっしゃいませ。と書かれたプレートの脇の呼び鈴を鳴らすと、カウンターのガラスのカーテンと窓が即座に開き、頭の禿げ上がった目つきの悪い厳つい男が子供用の高さに設定されたカウンターの窓越しにこちらを見上げる。白衣を着ている姿は小児科の看護師というよりは場末の温泉の按摩のようでもあるが、水本は面識があったので驚きを面に出すことはせずに済んだ。

「いらっしゃいませ。診察ですか」

「こちらの入院患者の容態を伺いに来た。わたしは水元弘蔵」

「患者さんのお名前は」

 看護師は外見通りの太い声で丁寧に応対した。

「ササキミキさん」

「名刺か身分証をお持ちですか」

 水本が名刺を差し出すと太い腕が指を揃えた手のひらを上にしてすっと出て受け取る。

「そちらでしばらくお待ちください」

 水本が名刺を乗せると名刺を乗せたままの手でベンチベットの並んだ待合を示した。

 男は名刺の裏表を眺め幾つかメモを取り、窓だけを閉めるとカルテフォルダーを選び取り、奥に消えた。

「水本弘蔵さん。おはいりください」

 いささか音の悪いインターホンの声が快活に呼ぶ。

 見覚えのある高坂医師の姿は白衣を着ていなければ運動選手のような体格で、白衣を着た姿は首元の聴診器がなければ医師というよりは化学の教師だった。

「容態はいかがでしょう」

「極度の栄養失調からくる衰弱。という以外には特に問題はなさそうですね。まだ通常食には移っていませんので予断は許さないとも言えますし、既に一旦筋肉が衰えているので回復に時間はかかると思いますが、成長期ですので今後の生活で回復可能だと思います」

「いつ頃までに退院でしょうか」

「このあと通常食に戻して経過を見て、で一週間位を考えていますが、もう意識は回復してベッドの中で起きたりはしているので、動かすというなら明日にでも。言ったとおり筋肉が衰えているので介護は必要ですが」

「長めにお願いできればと思っています」

「ベッドの開いている間なら、としか言い様が無いですね。時に本当にうちでしか扱えないような患者が来ることもあるので」

「それで結構です。ところで、筋肉が衰えていると言うのは影響は出ないものですか」

「影響は出るかもしれません。出ないかもしれません。といったところでしょう。幼少期の成長傾向というのは個人差が大きいのでなんとも。ただ、今回は幼少期の貧困とか虐待とかでよくある、慢性的な栄養失調というのとは少し違うケースのようなので、出るかもしれません、というべき側かと」

「それはどういう」

「それなりにいい生活をしていただろうということですよ」

 知らなかったのか、というように高坂は不思議そうな顔をした。

「彼女に会えますか」

「寝ているかも知れませんが」

「話をしたいというよりも、まだ直に顔を見ていないので」

 そう聞くと高坂は察したように頷いた。

「そういうことなら」

 高坂は立ち上がると水本を奥の扉に導いた。

 いくつかの扉を素通りして通路の奥の階段を登る。

「退院を伸ばしてもらうことになるかもしれない、とは齋さんも言っていましたよ。こちらも商売なので顧客の希望には従いたいのですが、そうは言っても人手が足りないのでなかなか厳しいのですよ。どこかにいませんかね。手の空いた看護婦さん。ひとりふたり」

「どこかでそういう話があれば聞いてみます」

「おねがいします」

 お互いに看護師業務の苛烈さを知っている二人は期待もせず、あまり気のない軽い様子で口にしながら、午後の日が差すビルの廊下を歩く。

 すでに半ば公式にササキミキの名前が与えられた少女は病室で静かに眠っていた。輸液の液面は穏やかに止まっている。

 夕陽にはまだ早い傾きかけた太陽がカーテン越しに部屋を照らす。あまり新しいとはいえないビルのエアコンはそれなりに仕事をしていて、静かに清しいそよ風を部屋に送っていた。

 西日混じりの陽光に照らされた天井の照り返しは、ベッドに寝ている幼子の髪の色を定かに見せなかったけれど、却ってそのことが水本を幻想に誘うような色合いに見せた。

 生物として未成熟でやせ衰えている容貌であるにもかかわらず、大人用のベッドには不釣り合いなほどの小さな顔はその将来に道すれ違う誰もの目を引きつけるだろうと想像できた。

 日本人であれば、髪の黒さと肌の白さの際立ちこそが色彩としての美形の証であるわけだが、その細い髪はまるで光を自ら照らすかのように肌の白さを際立たせていた。

「この子は将来有望な美人ですね」

 高坂医師は軽くそう言って水本を用件に引き戻した。

「もう立ち歩けるくらいにはなったのですか」

「今のところ、寝返りを打っているくらいで、あまり長いことは起きていないようですね。オムツ当ててます。この時期だとおねしょが治らなくなるんであまり良くないんですが」

 高坂医師はあまり深刻な響きのない様子で口にした。

「筋肉の衰えというのは」

「触診の見積もりですね。まぁ幼い子の入院患者はハイハイからやり直しということも多いんですが――」

 水本の不安に反し、高坂医師は軽い響きで答えた。

「骨折とか内蔵に影響する外傷とかそういうものがないので、基本的には心配ないと思います。心配していたのは感染症が一気に表面化することだったのですが、衛生状態は悪くなかったみたいですね」

 高坂医師が根拠なく楽観的だったわけではなく、分かりやすい説明をしたので、水本は安堵に表情をゆるめた。

「あと三日ほど流動食で様子を見ます。いまのところ主なアレルゲン反応はないようなので、問題はなさそうですが」

 水本が注意をベッドに移したのに気が付き、高坂医師は言葉を切る。

「それで、いつ頃引き取られますか」

「そういうことは専門家の判断なのでは? 」

 反射的に水本は尋ね返す。

「単純に治療目的という意味であれば、既に問題がないことが確認できたので、栄養失調に関する治療行為と経過観察は、まもなくオシマイです。その後、保険の効かない医療行為をいつまで続けられるのかという質問です。ご覧のとおり当医院は施設設備はともかく人員には余裕が無いので、金銭的余裕があるならどちらかの宿泊施設を使ったほうがよろしいのでは」

水本は高坂医師の意図がわからず、しばし考える。

「――入院患者があるときは臨時で栄養士さんをお願いしているんですが、いつまでお願いするかという、こちらの事情も大きいのです」

 高坂医師の言葉に、ああ、と水本は事情を察した。

「来週の頭までに方針を定めることにします。ところで、併せてお願いしていた件ですが、そちらはどんな具合でしょう」

「週末くらいには結果が出るはずです。あまり利用例は多くないようですが、自信はあるようですよ」 

 水本は少し事態が動いたことを理解した。

 その後、水本は連日で高坂小児科医院に通い、入院している女の子を見舞い、起きている姿も見たが、結局予定した日までに名前を聞き出すことは出来なかった。

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