二日目

 水本弘蔵は自身を自分は辣腕有能ではないが公明堅実な弁護士で、正義の味方ではないが正義を求める遵法の徒でありたいとねがっていた。

 法のために世があるわけでなく世のために法があるからには、法が過っていることもないわけではないが、法の願いは世のため人のためであるはずでそこを疑ったことは一度もない。

 たかが遺産相続に関わる事務処理で、と思わないでもないが、戦後の医薬品事業やその政策にも関わった黒幕、国粋主義的な政治家とも繋がりのある人物、としてそれなりに無視できない人物の遺産処理ともなれば藪をつつくと蛇どころか熊や虎が出てもおかしくはない。

 翔一郎の依頼は幾度か受けたことがあり、人物はわかっていたが、良くも悪くももののわかった人物である翔一郎と鬼才という以外にない祖父曜十郎は棲む世界が違いすぎ、その相続という作業はそれなりの面倒があるだろうと、水本は漠然と覚悟していた。

 当然に面倒が大きいだろう不動産資産は先代の死を契機に大きく処分分配し、最後は曜十郎の鶴の一声で決着をつけたのはそろそろ二十年になるか。師匠筋からの形見分けのような依頼の斡旋だった。

 思えば水本にとっての大きな転機になる仕事だった。

 角が立たないことを第一に配慮した水本の提案は親族からのいくらかの主張に修正を受け、今に至るまで大きな問題は起きていない。

 もちろん、当時は曜十郎が健在だったし、今と状況は異なるが、翔一郎がその後も家のことについて幾度か相談依頼の連絡を水本に寄越すのはそれなりの信頼あってのことだろうと思っている。

 尤も二十年も経てば、主たる不動産を始末したとて人が生きる限り相続するべき資産は動いているわけで、いくつもの怪しげな証文やら請求やらをそれなりの根拠にしたがって捌いてゆくのが弁護士の仕事のひとつでもある。

 最後の決済は依頼主の仕事であるから、材料を調理して出して見せる、というのが弁護士の仕事であるわけで、大きな仕事が面倒事の整理整頓になるのは致し方ないところだった。

 翔一郎からの連絡を事務所からの転送で受け、通夜の前に押し掛けることになった水本は翔一郎の表情が固いものの余裕はあることに安心した。

「この度は御愁傷様です」

「お心遣いありがとうございます。先生には手間をお掛け戴きますがよろしくお願い致します」

 書斎に通された水本は前回の財産分配時の資料などが入ったいくつかの箱があることを眺めて、翔一郎がそれなりに準備を進めるつもりでいることに心強くした。

「葬儀の手配は」

「既にあらかた。お呼び立てしたのは相続の件のご相談です。葬儀が始まれば暫くはそちらに手をとられるはずですので、あらかじめ段取りの確認をとおもいまして。通夜は明後日になります。場所は母屋です。お気兼ねなくおいでいただければありがたく思います」

 翔一郎はそういうと水本に席を薦め、メープルの作りのよいデスクの上の魔法瓶から二人分の珈琲をついで、手伝からローテーブルの水本に給仕した。

「ありがとうございます。参らせていただきます。さて、早速ですが、まずは銀行金融資産と通信光熱費関連や不動産関係からおさらいを始めますか」

「銀行口座と株式は死亡の連絡を出しました。口座はしばらく停止するようですが、当面の生活には関係ないので問題ないと思います。通信光熱費関連は祖父の名義のものはやはり死亡の連絡を出して切り替えしました。請求書の支払いはおこなっていますが、折り返しの形で請求元には新たな発注取引は停止するように連絡しています。多少の損は出るかとは思いますが、追いきれないのが実情ですのでいない鳥を追うよりは待つほうが無難かと。不動産関連は正直いまのところ手がまわっていません。まぁたぶんないと思うんですが」

「不動産は調べてみないとわからないですね。こちらは以前の相続でお父上の分を含めて普段使われている部分については担保賃貸物件も把握できていますが、あちこちで活躍された古い方ですので改めて確認しないと思わぬ累系から相続していることもありますから」

「そうでしょうね。では、水本先生には祖父の遺産の見落としがないか確認していただけますか」

「そうなりますね。まずはいつものことですが、遺産相続に関わる委任状を皆さんの分集めてください。しばらくは事務処理と役所仕事なので必要の都度ご連絡いたします。当面は翔一郎さんの分だけあればかかり始められるので、ここで署名と捺印いただければ進めておきます。ご家族の分も置いてゆきますので、奥様や息子さん方にも署名とハンコを戴ければ後程お預かりします」

「わかりました。あと何か気を付けるべきことはありますか」

「とくに改めて言うようなことではないので口はばったいのですが、ご親戚周りの連絡を密にとって漏れのないようにしていただくくらいでしょうか。二重三重に連絡しても構わないくらいのつもりでいてくださると、ご高齢の方もいらっしゃると思うのでこちらの仕事での手間が省けます。一族の方がけれんなくお集いになれる機会でしょうし」

「生存確認ですか。確かに叔父たちも高齢者という括りになりましたし、せめてもの機会ですね」

 翔一郎は口許で笑って珈琲を口にする。

「他に何かありますか」

「あとは、そうですね。相続の件、話題に上ったら私の名前を出して結構ですので、事務処理を進め始めたと皆様にお伝えするのがいいと思います」

「水本先生の名前を出しても宜しいですか」

「とくに反対はないでしょうし、反対があるとして早いうちに理由があるならお互いはっきりした方がいいと思います」

 生真面目な水本の表情に翔一郎は軽く気圧され、やがて微笑む。

「父の相続の件。助けていただいて皆感謝しています。祖父がまぁああいう人でしたので良い機会でもありましたから。叔父も祖父の顔色をうかがって選挙資金を無心する必要もなくなりましたし。ああ、こちらは父の時の資料です。あと祖父の離れから出てきた資料になりそうな書面の類いです。素人判断なので役に立つかは怪しいところですが、繰り返しになりますが祖父がああいう人でしたので、家族である私も掴みきれていないところが多いのです」

 水本は思いを馳せる翔一郎の顔に前回の遺産相続の財産分与の場に怒鳴り込んできた曜十郎の形相が思い浮かぶ。

「多かれ少なかれどこのご家庭もそんなものですよ。こちらの書類、ひとまずまとめてお預かりしてよろしいですか?」

「そのつもりでしたので」

「では、ありがたくお預かりいたします」

 水本弁護士は小さくもない段ボール箱で三つ分の書類を車に積み遠藤邸を辞した。

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