第4話引っ越し

 夕方、ジェイスは僕の部屋に現れた。叔父さんからアパートの鍵を預かってきたらしい。しかし、考えてみればジェイスの同室者だった人も、突然独りになってしまって淋しいのではないのだろうか。せっかくジェイスと同室になれたっていうのに、僕のせいでジェイスは出ていってしまうのだ。

「何言ってんだよ。独りになれた方が嬉しいに決まってるじゃないか」

しかしジェイスはそう言って取り合ってくれなかった。他の人ならともかくジェイスだと…これは惚れた欲目ではない。人気者の恋人というのは恨まれるものだ。

 僕達の新居は、割に大学に近い、徒歩で十分位の所だった。自分の家具を持っているわけではないので引っ越しは至って簡単である。ただいっぺんに全ての荷物を運べるわけではないので何回か往き来しなくてはならない。

 とりあえず一つ荷物を持ち、下見に出かけた。アパートというから狭くてボロいものを想像していた僕は、僕達の新居を見て唖然とした。

「ここ…?アパートって言うのか、こういうのも?」

「二人だからさ、マンションじゃ広すぎると思って。それにここが一番大学に近かったんだ。ちょっと狭いけど、いいかな、ここで」

「いいよ、全然。僕にしてみれば広くて新しくて最高だよ」

「気に入ってくれたならよかった。明日来て掃除しようぜ」

そうか。アメリカ人の感覚では狭いのか、ここは。しかし、寮の部屋よりはずっと広い。確かにでっかい男が何人も遊びに来たら狭いだろうが、とりあえず二人で暮らすには充分だった。

「日本は狭いからさ」

「ん?」

「家も狭かったけど、道路とか駐車場とかギュウギュウでさ、息が詰まりそうだったよ」「だからアメリカに来たの?」

「本当はどこでもよかったんだ。日本を出られればどこでも」

「……」

「ごめん。君が日本を好きだって言ってくれるのに。こんなこと言って」

「いや。それでも俺は日本が好きだよ。優輝が育ったところだし、優輝が嫌がるところであってくれたために、こうやって俺たちは会えたんだから」

僕はジェイスに抱きついて腕を首に絡めた。

「はじめはどこでもよかったけど、今はアメリカに来て本当に良かったと思ってるよ。ジェイスと会えたから」

「優輝…」

僕が目を閉じたとき、ドアの外で足音がした。僕達は慌てて離れた。ドアが開けっぱなしだったのだ。

「じゃ、とりあえず帰ろうか」

「うん」

それから僕達は寮に帰った。そして別々の部屋で夜を過ごす。久しぶりに独りで過ごす夜はとても淋しくて、今までディーンと一緒だったおかげで随分ホームシックから助けられていたのだと思い知った。

 実は家には連絡していなかった。なぜ寮を出るのか、その理由をどう言えばいいのだろう。同室者に襲われそうになったとは言えまい。きっとうちの親、ジェイスの叔父さんに悪いと言って簡単には許してくれないだろう。 結局僕は新しい住所と電話番号を手紙で知らせた。考えてみれば別に理由などいらなかった。友人のおいしい誘いにのっただけのことなのだ。両親は恐らく納得したのだろう。その後しばらく連絡をしては来なかったのである。


 さて、下見をしに行った日の翌日、僕とジェイスは何往復かで荷物を寮からアパートに運び、最低限必要な家具だけを注文しに行った。そして退寮手続きを済ませ、これからはアパートに住むことになった。

「日本では、引っ越しをするとソバを食べるんだよ」

「へえ。ヌードルか?パスタでもいいの?」

「いや、日本ソバでないと駄目なんだ」

「よし、それ、食いに行こう」

ということで、僕らはわざわざ日本料理の店に行き、日本ソバを食べた。日本人の店員さんがソバを運んで来るのを見て、何だかものすごく懐かしくなった。

「おや、日本人の坊ちゃんですか」

「ええ。実は今日は引っ越しだったんですよ。だから引っ越しソバを食べようと思って」「そうですか。やっぱり引っ越しにはソバですよね」

店員さんと僕が日本語で話していると、ジェイスはじっと僕達の顔を見比べていた。店員さんはジェイスの方を見て愛想笑いを一つすると、ペコッと頭を下げて行ってしまった。僕は本当に久しぶりに日本語を話した。

「すげーな、今の日本語か?ペラペラだな。かっこいいー!」

ジェイスは本気で感激しているらしい。

「母国語なんだから、話せるのは当たり前だよ」

日本語が話せてかっこいいと言われるなんて思ってもみなかった。

「そうか。じゃあ、英語をこうやって話せる方がすごいのか」

「んー、まあ」

「俺も日本語勉強しよう。優輝、俺に日本語教えてくれよ。少しずつでいいから、な?」そう言ってジェイスはウィンクした。うーん、ウィンクが決まるなあ、この人は。

 家に帰ってきたのは夜の八時頃だった。帰ってきてみるとベッドが一つ届いていた。ジェイスが叔父さんの家で使っていた家具をこれからいろいろ送ってもらうのだが、とりあえず今日、ベッドだけは必要なので早速送ってもらったのだ。ベッドはダブルサイズで大きなものだが、もちろん一つだ。今日は嫌でも一つのベッドに二人で寝なければならない。いや、決して嫌ではない。が、やけにベッドを見てから僕は緊張気味である。

「端へ動かすのは明日でいいか。疲れたもんな」

「う…ん」

「どうした?」

「えっ、いや、別に何でも」

ベッドは部屋の真中に置かれていた。他に家具がないのでなんとなく妙である。この部屋は日本で言うと二十畳くらいのワンルームにキッチンとバス、トイレがついており、真中にカーテンが取り付けられるようになっているらしい。確かにこんなに大きいベッドが二つも置かれればあまり広くないかも知れない。しかし僕なら、ベッドと机とクローゼットが置ければ、あとは別に空間がなくても不満を感じないだろう。今は特にベッド以外何も無いので、広いなあと思ってしまう。

「さて、何も無いし、寝るか。優輝、先に風呂入っていいぞ」

「うん…お先に」

僕はバスタオルとパジャマを出し、そそくさとバスルームへ向かった。ジェイスを振り返ると、何とも嬉しそうに僕を見ていた。僕はドキンとして慌ててバスルームへ姿を隠した。

 シャワーを浴び終わり、髪を拭きながら部屋へ戻って来ると、ジェイスは一枚の絵を丁寧に壁に貼っていた。

「もう出たのか?」

「うん。あ、それ…」

「ああ、これ、俺が唯一持ってる浮世絵。月岡芳年の絵なんだ。ここに貼ってもいいかな」

僕は辛うじて頷いた。その絵―単なるポスターだが―から目が離せなかった。その絵は確かに浮世絵だが、誰もが知っている役者絵や、北斎などの風景画とは全く違う、近代的な絵だった。確かジェイスは明治時代の絵だと言っていたはずだ。風の吹いている絵だった。月夜に怪物一匹、侍一人。侍は、怪物が迫っているにもかかわらず、目を閉じ、ただ静かに笛を吹いている。しかしそのスキの無さはひしひしと伝わって来る。どこかで聞いたことのある物語の場面かも知れない。

 絵も素晴らしかった。しかしそれだけではない。僕はこのポスターに「日本」を感じて、そして「日本の良さ」を見てしまった。日本にいるときには感じたことの無かったそれは、今、郷愁と共に胸を打つ。こんないいものを、日本で見たことが無かった。それとも、見ていても何も感じなかったのだろうか。

「優輝?」

僕が何も言わずに立ち竦んでいたので、ジェイスは不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。

「あ?ああ、もちろんいいよ。これ、いい絵だね」

「だろ?」

ジェイスは嬉しそうにそう言うと、バスルームへ行った。僕はベッドに腰掛け、改めて絵を見た。何だか瓦の屋根が見たくなった。神社や寺や盆栽が。そして今日、久しぶりに話した日本語が懐かしくなった。頭の中にはいつもある日本語。しかし少しずつ消えかけていた。

「日本に、帰りたい」

日本語で独り言を言ってみる。日本語を話したい。何も考えずに気楽にしゃべりたい。

 気がつくと、僕の体はジェイスの腕に包まれていた。いつジェイスが風呂から上がって来たのか全く分からなかった。そして驚くべきことに、僕の頬は涙で濡れていた。

「どうしたの?優輝」

僕の後ろからジェイスの優しい囁きが聞こえる。すごく不安になっているに違いない。僕がなぜ泣いているのか分からないのだから。いや、なぜ泣いているのかなんて自分でも分からない。

「ごめん、何でもないよ」

「この絵のせい?」

ジェイスは肩に掛けていたタオルで僕の涙を拭い、目を覗き込んで言った。

「いい絵だね。日本の良さが良く出てる」

「日本を思い出した?」

「うん」

「帰りたい?」

ジェイスはそう問いかけたと同時に僕の唇を奪った。

「帰るなよ。ずっと一緒にいたいよ」

「…帰らないよ。君とここにいるよ」

ひとしきりキスをした後、なんとなく気まずいので試しに言ってみた。

「何だか日本語を話したくなっちゃった。この絵を見たら懐かしくなっちゃって」

「話せよ、日本語。俺、分かんなくても聞いてるから。好きなだけしゃべっていいよ」

ジェイスはそう言ったが、できないと思った。自分が話しても意味を理解してもらえないというのは、よけいにジェイスを遠くに感じてしまうだろう。きっともっと淋しくて辛いに違いない。

「いいよ。大丈夫。ジェイスに早く日本語を覚えてもらって、その後だな。それより、この絵、どうして気に入ったの?」

僕は話題の転換を図った。ジェイスは目を細めて絵を見た。

「この武士がかっこいいからかな。すごく強そうで。いや、喧嘩に強いってことよりもさ、危険が迫ってるのに余裕ぶっこいてて、それでいて怪物をビビらせるほどに全身に強さを漲らせてるっていう、そういう目に見えない強さがかっこいいんだ。日本の男ってかっこいいよな」

日本の男が平均的に強いかといったらノーである。現に僕はちっとも強そうじゃない。もちろん強くない。

 考えてみたら、ジェイスが日本人を好きな理由と、僕という人間の性質はかなり食い違ってはいないだろうか。これだけ僕と付き合っていれば僕がちっとも強くなくて情けない男だということは分かるだろうに。

「どうして僕を好きになってくれたの?僕は強くないし、かっこ良くないよ」

「優輝は強いよ。意志も強いし我慢強い。黙って立ってるだけで意志の強さが感じられる。すごく、かっこいいぜ」

「う、うそー」

「それでいて、可愛いい」

「ど、どこが?」

「この長い睫毛、二重で切れ長の目、黒くてキラキラした瞳、すっきりした顔立ちに、赤紫色の柔らかそうな唇、さらさらでつやつやの髪、きゃしゃな造りで清潔感溢れる体、抱きしめると微かに感じる淡い香り、などなど。こんなに綺麗で美しい男を見たのは初めでだよ、俺」

「ちょ、ちょっと、褒め過ぎだよ」

ジェイスの呪文のように囁かれる褒め言葉は、僕の心を甘やかに溶かしてゆく。とろけてしまわないように少し抵抗の言葉を発してはみたものの、もう体は抵抗を放棄していた。

 ジェイスはゆっくりと僕の体をベッドに倒した。優しく僕の前髪を掻き上げると、おでこに軽く口づけをした。もうとろけてしまう。目を閉じてしまうと、ジェイスは僕の体全体を愛撫し始めた。

「ジェイス」

「優輝、いい?」

「……ん……」

「愛してるよ」

「でも…怖い」

「大丈夫。優しくするから」

そうして僕の口は塞がれた。そして少し強く抱きしめられた。体全体にジェイスの体が押しつけられると、もう僕の心は完全に飛んでしまった。何も考えられないほどとろけてしまった。後はただ、全てをジェイスに任せ、心のままに感じていった。

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