頭がお花畑

別府崇史

頭がお花畑

 それは『何気なさを装った』とこちらにも伝わってしまうような、不自然なまでのさりげなさだった。

「前のカレと別れることになった出来事って言ったっけ」


 三年前、智子さんにはテンプレートのような不倫をしていた時期があった。

 もう少しで離婚する、男は一年そう言い続けた。

 結婚は失敗した。

 君と最初に出会っていれば。

 嫁は一緒に生活しているただの女だと思ってくれ。

 アイツもどうやら他に男がいるみたいだ。


 後に判明したことだが、交際しているその間に男は二児もうけていた。

 当時、私を含めた友人たち数人は何度も別れるよう説得した。

 他にもいい男はいる。お前が不倫している男は確実にその場しのぎの嘘をついている。仮に奥さんと離婚してお前と一緒になったところで、今度はお前が浮気されるハズだ。

 しかし繰り返される言葉も届かない。それはそうだろう。私はまだ二十代だった。知ったように吐き出される言葉はワタアメのごとく軽い。かといって数年経た、三十を超えた今では到底同じ言葉を口に出せない。

 ひどく退屈な結論だが、結局のところ男女の機微は当事者にしか絶対にわからないのだ。はたから見ていかに生産性のないものに見えても客観性にはまるで意味がない。

 だが当時は分からなかった。

 あの人は優しいだけなの。

 あの人の誕生日プレゼントは凄いの。

 私の喜ぶこと何でも知っているみたい。

 あの人の子供、可愛いって思えるかしら?

 頬を上気させながら言う智子さんを私たちは苦々しい思いで眺めていた。

 私たちの苦りきった表情を見たせいか、次第に智子さんも交際相手のことを話題に出さなくなっていた。

 そしてしばらく疎遠となり、ここ半年で再び連絡ととりあうようになった。


「ほらあの人って結婚していたじゃない?」

 三年後の現在、まるで彼女は私がそれを忘れているかのように話す。

「そうだったね」

「大変だったのよ本当に」

 当然だろ、と私は頷いた。何言ってんだと思った。

「別れる三ヶ月くらい前、カレはとある宗教にはまっていたんだけど。別にその時はなんとも思わなかったの。うちだってお母さんお父さん創価学会信じてるし。私はなんか楽しくなくてやめたけど。それでカレが信じてる宗教って、終末思想ってわかる? 要は『世界が終っちゃうよ、この宗教信じていないとヤバいんじゃない?』ってキャッチフレーズだったの」

 智子さんは演技的に笑った。

「そのうちカレはのめりこんでいって。こんなこと言ってた」

 智子、今日はこんな話聴いたんだ。智子、この世はもうだめだね。智子、俺はわかったんだ。俺は親のコピーじゃないんだ。

「訳わかんなかったけど、カレは幸せそうだった。私と会ってから一番幸せそうだった。けどその時私はけっこうしんどかったんだよね。両親からは交際相手を紹介しろって言われるし。銀行員の人って言ったから、両親も喜ぶじゃん? けど紹介できるわけないじゃない、ねぇ」

 よくわからないまま頷いた。

 話の着地点がまったく見えない。

(俺こいつに怖い話集めてるって言ったっけ)

 そんな台詞がぐるぐる頭をまわる。

 私は彼女と遊んでいた当時、巷にありふれているアンチオカルトの理屈屋だった。

「カレに言い出せる訳ないよねぇ。カレ幸せそうなんだもん。その度に私は嫌なのに笑ってた。優しかったなぁ」

(なんでこいつ俺にそんな話するんだろう)

 軽い不気味さを感じながら話の先を促した。

「カレ、どんどんのめりこんでいって……その宗教の儀式みたいなのやり始めたの。どこでだと思う? 自分の家でやれないから、私のアパートでだよ? 智子、探してくるの大変だったんだよ、ほら見てくれよって言いながら鞄から鼠の死骸を取り出すの。うぇぇぇって感じじゃない? 想像してよ、白く濁った目玉」

 私は顔をしかめた。

「カレは鼠のお腹を裂いて、フライパンで炙り始めた。それはもう本当に酷い匂い。けど一応さ肉だからちょっと焼肉みたいな匂いするの。それでもう私、吐いちゃって……」

 智子さんが胃液しか吐けなくなるまで、カレは鼠を炒めた。


 焦げついた死骸を皿にのせ、テーブルに置いた。

「北の方角はどっちだ?」

 智子さんが指さした方向にカレは枯れた雑草を並べた。「お水」と指示された智子さんは呆然とコップに水道水をいれ、皿の脇に置いた。

 まるで原住民のご馳走みたい、と智子さんは思ったという。

 そしてカレの口から唱えられた祈りは日本語とは思えなかった。


 ええとね、憶えてるの、そこまで。


 コップを見つめていた智子さんの頭に、コンクリートブロックを落としたような衝撃が走った。

 天井をぶちぬいて隕石でも落ちてきたんじゃないかと思ったという。

 頭は真っ白になり、瞼の裏で火花が散った。


「気がついたら、その日から一年五ヶ月経ってたの。焦ったね。あの時は。今だから言えるけど。ねぇ、私と連絡つくようなったのここ半年じゃん?」

 頷いた私に、智子さんはめくりあげた袖からのぞく傷を見せる。

「気づいたら、これ。仕事は夜の仕事してた。住んでるアパートも違ってた。本厚木に住んでたのに、武蔵小山よ。携帯にカレの番号もなかった。片っ端から電話して。友達の番号、一つだけ残ってたから、事情を説明して。そりゃあテンパってた」

 友人の女の子はうまく事態を飲めこめないように言った。

「先月会ったとき、あんた普通だったよ」

 友人曰く、智子さんと半年振りに遊んだが、いつもと変わらずお酒を飲みながら馬鹿話に興じていたという。

「けれど私にはその記憶がない。親に事情説明したら、あっちも焦ってた」

 退去の手続きや仕事のことは親に任せ、実家に戻った。

 だがすっぽり抜けた記憶は、その後病院に幾度も通ったが戻ってくることはなかったという。


「最近になってさぁ、友達にこの出来事を告白したら、不倫してた代償だって言われた。罰が当たったんだって。一年と五ヶ月の記憶喪失は罰だって。けど私はカレがしてた意味わかんない儀式が原因だって思うの。もう連絡先も知らないから、ハッキリと尋ねられないけど。ねぇ、どう思う?」

 私はなんとも答えられず、押し黙った。

 智子さんは眉をひそめていた。

 次いで一つのひっかかりを感じた。

 あれ、俺聞かなかったか? 

 知人から一年ほど前「智子さんが結婚をして、半年で離婚したって」と聞かなかったか? 噂の発信源は信頼度の高い人間だった。

 ただそれが絶対に間違っていない記憶かと問われると自信がない。一年も前の話だし、さほど興味も持てなかった。

 だが智子さんの話が事実であれば、彼女は記憶が戻ってからすぐ結婚したこととなる。そんな都合のいい相手がいるだろうか?

 知人に確認することを考えたがやはりやめておいた。

 本当か嘘とかそういった白黒つく話ではない、彼女の物語なのだとぼんやりと思いついた。

 ただ何故私にこの話を聞かせるのか目的は見当もつかなかった。

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