第6話

 それは、飢えた野犬の群れ……!

 涎を垂らし、ただならぬ凶暴な光をその眸に宿した畜生ども……!

 

 平生は死肉を食らってこの山辺を徘徊しているのだろう。

 それが、今、新鮮な生肉にありつこうと熱い息を吐き、次々に飛びかかって来た。

「白月丸──!」

 抜いた刀で一匹、また、一匹……

「九郎……?」

「気をつけろ! 動くなよ! そこに……じっとしていろっ!」

 たった今、白月丸自身を斬ろうとした刃を翻し、九郎はその汚らわしい塊を、降りかかる雪もろとも斬って斬って斬って、斬りまくる。

 爪に頬を裂かれ、牙が腕を削ってもものかは。

 宛ら、これら醜い獣が、最前、自分の胸を穿うがった暗い情念……悪趣の顕現でもあるかのように斬りまくった。


 気づくと犬たちは、全て、赤い血を吹いて雪原に墜ちていた。




 九郎は白月丸を連れて、無事、鳥辺野とりべのから戻ることができた。

 その九郎が病の床に着いたのは、それから数日後のことだ。

 鳥辺野で襲って来た野犬に裂かれた傷が悪化したのだ。

 傷そのものより、それのもたらす熱と乾きが九郎を責め苛んだ。

 白月丸は高価な薬を求めたり、加持祈祷、霊験あらたかと聞く御札、等々……

 可能な限り手を尽くしたが甲斐はなかった。

 その内に、とうとう九郎は白月丸さえ遠ざけて一人、室に篭ってしまった。

 室からは、始終、のたうち回る不気味な音と恐ろしい唸り声が響いていた。

 と、深更。

 床を引っ掻き、壁にぶつかる身も凍る音がふいに止んだかと思うと、白月丸を呼ぶ九郎の掠れた声がした。

「白月丸様……白月丸様……」

「おう、私はここにいるぞ、九郎!」

 襖を開けて跳び込んだ白月丸が目にしたのは──

 これが、あの美しかった男かと疑うばかりに変わり果てた九郎の姿だった。

 目は爛爛として金色の光を帯び、口からは涎が糸を引いている。

 己の爪で引き裂いたらしく、一衣もまとっていない尖った裸形。

 その肌に後から後から油のような汗が吹き零れる。

 唯一変わりないのは、射千玉ぬばたまの髪で、肩に胸に、黒い滝のように降りかかっていた。

 その様が、却って妖しく、凄まじかった。

「わ、わかっている……」

 引き攣って激しく震える体に抗いながら、九郎は言った。

「そうとも……俺は……犬に……戻るのだ……」

 やはり、自分はおまえの犬であった、と九郎は繰り返した。

 せっかく人間になれたのに。だが、これも仕方がない。自分は邪悪な心を持ったからな。

 たくさんの人を殺め、挙げ句の果てに、おまえ・・・を──

 あれほど、後生大事に護り通すべきご主人様のおまえ・・・・・・・・をすら、殺そうと思った──

「それで……バチがあたったのだ……」

「九郎──」

 何か言おうとした白月丸を遮って、九郎は続けた。

 既に人とは思えぬ、吠えるようなしゃがれた声で、

「こ、こんな俺が……もはやどうしたって救われないのは承知しているが……唯一つ、頼みがある」

「な、何だ? 言ってみろ。何でも、叶えてやるぞ?」

「俺は、犬には戻りたくないのだ。せめて、人間の姿で……形なりとも人間のままで今度は死にたい……」

今度・・は……?」

「そう。俺を抱いてくれ。昔のように」

 白月丸が膝に抱きかかえると、九郎は残る最後の力を振り絞って、刀を引き寄せ、己の喉を掻き斬った──




「何とも、奇異あさましき話かな……!」

 流石の高僧も、その弟子たちも、話を聞き終えた後、身動みじろぎもなかった。

 気を取り直した高僧が改めて御仏の尊い教えについて説き聞かせようとした時、若者はもどかしげに細い腕を振った。

しばし。まだ、終わりではございません。

 今まではクロの話。肝心の、私の話・・・はここから──」




「憐れなクロは最後に臨んで、こうなったのは全て自分の犯した罪のせいだと言いましたが、それは違います。

 本当に悪いのは……全ての元を作ったのは、この私なのです。

 そもそも全ては、私の殺生から始まったのですから。

 最初にクロを・・・・・殺したのは・・・・私だったのです・・・・・・・


 でも、どうしようもなかった。

 ひもじくて。


 あの日、食おうとして呼んだ私の膝に、その時ですらあれは尻尾を千切れんばかりに振って飛び乗って来ました。

 ああ、どうか、そのような嫌悪のお顔をなされますな、上人様。

 だって、その時の私には他にすべがなかった。

 邸中に喰らうモノはもう何もなくて……

 母と乳母めのとすら、とっくに食い尽くしてしまっていたのですから。


 そう言うわけで──

 クロが九郎となって立ち現れた時、私は愛犬が私を罰するために戻って来たのだとすぐわかったのです。

 私は観念して、九郎が私を責め出すのを今か今かと待ちました。

 恐ろしかったですよ。生きた心地はしませんでした。

 でも、九郎は、一向に私が為したおぞましい行為については触れず、昔同様、それはそれはよく尽くしてくれた。

 それで、私は愚かにも自分は許されたのだと思い、安堵しました。

 実際、クロが戻って来てくれて日々がどんなに楽しかったことか……!

 九郎が傍にいてくれて私は本当に幸福だった……!

 

 でも、結局、クロは私のやったことを忘れたわけでも、いわんや、許したわけでもなかった。


 九郎は別のやり方で私の罪を問うたのです。

 私が必要とした者……私が愛した者をことごとく私から取り上げると言うやり方で。


 ああ、丹菓たんかには本当に可哀想なことをしたと、今も心から悔いています。

 私の相手をしなければあたら若い命を散らすことはなかったのに……

 中納言様だとて、私と関わらなければあんな風に無惨な死に方はしなかった……

 それもこれも、全て私のせいなのです。

 私から出たこと・・・・・・・……!


 再び私の腕の中で死んで行ったクロを見た時、私は、人は自分の犯した罪から永遠に逃れられないのだと、今度こそ身に沁みて知りました。

 だって、あいつ──

 かつて私がやった通りに、

 今度は・・・自分の手で・・・・・喉を掻っ斬った……!」


 若者の嗚咽の声だけが河原に低く響くばかりであった。

 やがて、顔を上げて、若者は話を締め括った。


「そう言うわけで、上人様、今は唯唯、二度ながら私の腕の中で死んで行ったクロが哀れで、申し訳なく、愛おしくてなりません。

 供養してやりたくても、この者、元は畜生の身なれば──

 まして、殺生さえ犯している。

 そうして、そこまで堕しめた、この私。

 一番最初に殺生戒を犯した私は更に罪深い。

 全く、クロが生前、その口で言い切った通り、私は極楽浄土には金輪際行き着けぬ身でございます。

 ともに救われることのない一人と一匹なら、

 せめて、今生は離れず、こうして一緒に漂っていたいと思うのです。

 ですから、

 どうぞ、どうぞ、この懐の犬の屍を取り上げる真似だけはおよしください……」




 その後、高僧がどうしたのかは伝わっていない。




          

          《   了   》



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

懐に犬の屍を入れている男の話 sanpo=二上圓 @sanpo55

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ