第2話

 少年は名を白月丸となのった。

 含羞はにかみながら言うには──

 自分はすぐ後ろの邸に母とその年老いた乳母めのとと住んでいる。

 飼っていた黒犬だけが唯一、友人のようなものだったが、これが半年ばかリ前、ふいにいなくなってしまった。

「……それで、いつも枝を、こう投げて、取って来る遊びをしていたのを懐かしんで、つい今、やってみたのです」

 白月丸は貴人とはいえ気さくで、何処の誰ともわからぬ九郎のような闖入者にも拘るところがなかった。さもありなん。

 よくよく見れば、貴族とは名ばかり。零落のほどが偲ばれた。

 邸の崩れ落ちた築地塀や四足門は言うに及ばず、白月丸自身が身につけている青葉色の水干も濃紫の指貫も皆古寂びている。

 とはいえ、九郎には却って少年の高貴な美しさが透いて見える気がした。

 率直に身の上を明かす白月丸の傍らで、九郎はちょうど懐に入れてあった、市で買った餅を取り出して勧めた。

 そのことさえも少年は大いに面白がった。

「ああ、これは失礼。実は、クロがいた時も、あいつが何処かからかっさらって来た餅などを、よくこのように二人して分けて食べたものだから……」

 流石に九郎は目を剥いた。

「──まさか」

 いくら落魄したとはいえ、貴族の若君が、犬の拾って来たものを食すなど信じられなかった。

 そう言うと、垂髪を揺すって白月丸、

「本当さ! そのくらい一時は暮らしに窮していたんだ。尤も──今は少しは持ち直してるけど」

 少年は目を伏せて、どこか悲しげに微笑むのだった。




 以来、九郎は盗みで得たものを土産として、足繁くこの白月丸の邸を訪うようになった。

 少年の傍にいると九郎は何とも言えず充ち足りた気分になった。

 唯、そこにいるだけで良かったのだ。

 ほとんど白月丸が喋っていて、九郎はおとなしくそれを聞いている。

 都で起こる様々な出来事の噂話……折々の祭りや市のこと……

 それだけで良い。そして、合間に自分を呼ぶ、その声を聞くだけで。

「それでな、九郎」

「おい、九郎?」

「だからさ、九郎」

「なあ、九郎よ」

 極楽浄土に住む迦陵頻伽かりょうびんがの声とは、こんな風だろうかと九郎は思った。



 九郎のこの頻繁な外出はたちまち盗賊仲間の口の端にのぼるところとなった。

「そんなに貢物みつぎものを持って、また出かけるのか?」

愛物いいひとができたな、九郎?」

 皆、ニヤニヤ笑って囃し立てた。

「だが、ほどほどにしておけよ?」

「おまえは、我等が阿字様にあんなに可愛がられているのだから」

「せいぜい気づかれぬようにすることだ」

 九郎たち手下の男たちは阿字が用意した家に一塊りになって住んでいたが、首領である阿字は始終一緒というわけではなかった。

 〝仕事〟をする前後、何日かやって来るが、普段は別の処で生活している。

 そこが何処で、どんな暮らしをしているのか、盗賊仲間の誰一人知る者はいなかった。



 その阿字にとうとうある日、呼び止められた。

 まさに今経っても〝仕事〟が終わり、盗み出した金品を仕分けしている、都の北の山中。

 阿字も九郎も真っ黒な装束で、灯りといえば時折雲間から顔を出す十三夜の月ぐらいのものである。

「おい、九郎? おまえに愛物ができたと聞いたが?」

 九郎は何とも答えなかった。

 隠そうとしたわけではない。白月丸のことを何と呼べばいいかわからなかったからだ。

 白月丸は自分にとって何と呼ぶべき存在なのか?

 無論、〈愛物〉などと言うのではない。

 しかし、〈友〉とも違う。

 彼はもっと──尊くて、大切で、かけがえのないものだ。

 遠く滝の音がした。

 自分が拾われたのも、こんな仕事帰りの夜明け前だったことを湿った草の匂いを嗅いで、九郎は突然思い出した。



 その足で、九郎は白月丸の邸へやって来た。

 少年はいつ訪れようと気にしなかったから。

「また、来たのか?」

「何処で遊んで来た?」

「やあ、戻って来たな!」

 ……等々、その度かけられる声が懐かしくて心地良かった。

 ところが、この日に限って、しかもこんな時刻にも関わらず、先客があった。

 ちょうど客人は朽ちかけた門を出て、その先に停めてある牛車に乗り込んで帰るところだった。

 九郎は自身の高い背と浅黒い肌を朝靄あさもやに巧みに隠して、じっくりとその人物を観察した。

 それは見るからに富貴な壮年の貴人だった。

 豪奢な狩衣に立烏帽子……

 実は、これこそが最近、白月丸の暮らしが多少なりとも安定した所以ゆえんであった。

 九郎はすぐに悟った。



 しとみを下ろして寝直している白月丸の枕元に九郎は立った。

 寝所に入ることに微塵の戸惑いもなかった。

 そんなことは、とっくの昔に許されている。

 ふと、〝昔〟とはいつのことだろう? と思った。

 だが、漠然と頭をぎった疑問を押しやって、九郎は訊いた。

「今、出て行った奴は何者だ?」

 日頃は無口な九郎の、珍しく激昂した物言いに白月丸は少し驚いたものの、例の物憂い調子で教えてくれた。

「ああ? 中納言藤原成明殿さ」

 元々は母の昔の通い人とか。

「大路小路をクロを捜して走り回っていた時、偶然出くわして──と言っても、向こうがそう言うのだ。牛車から見たと。それで、ここ・・を思い出したらしく、また通って来るようになった」

母君の代わり・・・・・・に、か?」

「何をそう怒っている?」

「腹が立たないのか? こんな扱いを受けて……!」

 白月丸は笑った。

「おまえだって、私の母の有様はとっくに知っているくせに。その上──見ろ、ちゃんとした後ろ盾もない私は仕官の伝手つても、そもそも、元服する金の目当てもない身なのだぞ」

 その日その日を食い繋ぐので精一杯だとため息してから、

「せめて、どこぞの寺にでも稚児として入れればと思って見るが、だが、まあ、詰まる処、やることは一緒だ」

 時代が時代である。白月丸のような美しい少年たちが従事する仕事は限られていた。

 それ故、白月丸自身はこの境遇にさほど屈託はなかった。

「いずれ成明殿でも、またその他の誰でも構わないが、後見人になってくれれば良いと期待しているのだ。だから、精々機嫌を取るさ!」


 腹の虫の収まらないのは九郎の方だった。



 再度訪ねて来た中納言の後をつけてその邸の場所を知るや、その夜の内に、憶え込んだ技を用いて単身押し入った。

 自分でも呆れるほど鮮やかな手際だった。

 黒い魔風のように広い邸内を駆け巡って、家司郎党、従者、舎人に端女はしため……

 遮る者、目に付く者、悉く斬り捨てた。

 主殿の寝所で、未だ何が起こったのかもわからぬ中納言本人を捕まえた。

 開け放たれたままの蔀からは月が覗いている。既に黒月のそれである。

「と、と、盗賊か? た、助けてくれ!」

 漸く事を悟った中納言藤原成明、湖のように冷たく光る絹の夜具の上で烏帽子が落ちるほどガクガクと震えながら懇願した。

「命ばかりは助けてくれ! そ、その代わり何でもやるぞ? 私の持つものは全ておまえにくれてやる……!」

「驕るなよ?」

 九郎の頭の中で白い光が疾った。

「俺の欲しいものを……おまえは持ってなどいない・・・・・・・・さ!」

 九郎は存分に中納言を斬り裂いた。

 血飛沫ちしぶきは絹の夜具に花びらのように散って、翌日、検死に来た検非遺使たちの目を見張らせた。音に聞く極楽浄土のお花畑もかくや、と。



 単身だったので大きな物は運び出せなかったが、それでもめぼしい物は粗方盗み取って来た。

 九郎はそれ等を長櫃に詰め、自分の荷と偽って、預かって欲しいと白月丸の邸へ持ち込んだ。

 勿論、何も知らない白月丸は快く引き受けた。

「ご覧の通り、どうせ大した道具とてない伽藍洞の邸だもの。私以外に誰もいないし。

 空いてる処、何処でも好きに使ってくれて結構だよ」



 

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