懐に犬の屍を入れている男の話

sanpo=二上圓

第1話

 時は建歴(1210)の頃と言う。

 京の鴨川の河原──六条辺りか──で懐に犬の死骸を入れている若い男のことが噂になった。

 なんでも、死臭凄まじく、周囲に住まう非人仲間でさえこれを嫌って寄り付かないそうである。

 一人の高僧が弟子たちの止めるのも聞かずその若者に会い行った。

 ちょうど後鳥羽院から栂尾とがのおの地を賜り寺を創建したばかりの高僧は、憐れな狂人の仔細を直接聞き、これを諭して、何とか救済したいと思い立ったのだ。

 ところが、行ってみると、川風の吹き抜けるむしろの上に衰弱した体を横たえている若者の、懐から覗いているのは噂とは違い犬ではなかった。

 美しい黒髪の残った人間の髑髏だったのである。

 薄目を開けて、尊い僧形を見留めた若者は、自分と、犬だと言い張る髑髏との不可思議な因縁を語りだした……




阿字あじ様、あれを……」

 呼び止められて女は男たちの指差す彼方を透かし見た。

 朝露に濡れる草の中に黒い塊がある。

 それは血みどろの男の屍骸──いや、違う、

「──生きておるな?」

「今のところは。しかし、時間の問題でありましょう。ふむ? 若いな。どうせ喧嘩かなんぞに巻き込まれたのだろうて」

「憐れよのう? 身ぐるみ剥がされておる。へえ! いい体じゃ!」

 近くで滝の音がする。その飛沫がここまで飛んで来るような気がした。

「連れて行こう。誰か、荷と一緒に担ぎなさい」

 女主人の言葉に男たちは一様に驚いた。



「気がついたようじゃ。阿字様を呼んで来い」

 最初に聞いた声はそれ。

 それから、久方ぶりに見た眩しい陽の光がまた翳って、美しい顔が覗き込んだ。

 男の装束を着けているが女だとすぐにわかった。

「命を拾ったな? おまえ、名は何と言う?」

「……名?」

 男はそれに応えることができなかった。

 名どころか、自分が何処の誰で、何をしていたのか、霞のようにモヤって判然としない。

「まあ、いい。ゆっくり養生することだ」

 女は笑った。

「ボチボチ思い出すこともあろうし、思い出さなくとも別段、支障はないさ」

 だが、名がないと言うのは、やはり不便だ。

「どうだ、それくらいは何か見当がつかないか?」

「そう言えば──」

 血の染みた薄い夜具の中で男は首を傾げる。もとどりが切られているせいで、美しい黒髪が肩に零れた。

「……く……ろ」

「九郎か? よし、それで良い!」



「それにしても──何故、あんな素性も知れない男の面倒をみようなどと思い立たれたのですか?」

 九郎を残し外へ出た阿字に年嵩の男が訝しげに訊いた。

「御名の通り、阿字・・様の仏心は、常日頃から、我等、身に染みて知ってはおりますが」

「仏心、か」

 梵語の第一番目の字を名に持つ女は明るい声で笑うのだ。

「それは違う。あの男、使えるぞ。あの体を見たろう? 屈強で鋼のようではないか。それに、まるで、獣のような物腰だ……」

 この女こそ、昨今、都を跋扈する盗賊団の首領であった。



 やがて、傷の癒えた九郎に阿字は自ら手解きして盗みのやり方を教え込んだ。

 女首領が見込んだ通り、九郎は敏捷で膂力りょりょく強く、その性、勇猛果敢。

 大いに役に立つことがわかった。

 尤もその頃には、自分たちの首領がこの男を拾ったのは機敏さとか腕力とかのせいだけではないのを手下たちは十分に察知していたが。

 豊かな黒髪といい、日に焼けた肌といい、そして、スラリとした肢体といい……

 九郎は押し入った邸の庭の暗闇の中のみならず、ねやの闇の中に置いても大変絵になったのだ。

 こうして、阿字様の片腕として九郎が重用されるのにさほど時は要らなかった。



 九郎は阿字の望み通り能く働いた。

 九郎の方も、十分な分け前を与えられ、日々は平安に流れて行った。

 そんなある日。

 例によって闇の仕事で潤った懐を市中で遊び散らしての帰り、気がつくと九郎はいつしか見覚えのない道に迷い込んでいた。

 崩れた築地に沈丁花の香が強く匂っている夕間暮れ。

 先刻『見覚えがない』と言ったが、不思議なことに無性に懐かしい思いに駆られた。

(いつか何処かで? これと似た風景の中に身を置いたことはなかったろうか……?)

 そんなことを思いながらぼんやりと佇んでいると、ビュッと枝が飛んで来て、肩に当たった。

「ツッ! 何処のガキの悪戯だ?」

 足下に落ちたそれを拾い上げた、まさにその時、背後で声がした。

「クロ……!?」

 九郎は吃驚して立ち竦んだ。

 それは、年の頃、十四、五の垂髪の少年。

 少年の方も九郎を見つめて、射抜かれたように立ち尽くしている。

 どのくらいそうしていたことか。

 やがて、少年は頬を染めて詫びた。

「すみません。人違いをしました」

「人違い?」

「いや、正確には──犬違い、かな?」


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