無為
千
無為
僕は黄色い海を見ている。萌黄色の砂浜に座って、白い飛沫が上がるのを見ている。黄色い海は暖かそうだけれど、触ればひどく冷たいことを僕は知っている。そうでなくても僕は水に浸かるのが嫌いだし海水はベトベトしてるからもっと嫌いだから波打ち際に寄っていって黄色い水に手を伸ばすつもりはないけれど、砂浜に座ってうねうねと海が動くのを見るのは楽しい。というか、僕は波の音が好きだ。
僕はもうすぐ死ぬ。それだけは分かる。
もし、僕が今まで積み重ねた様々な徳と引き換えに死に方を決められるならば、僕は船の上で死にたい。僕一人が横たわれるくらいの小さな舟を海に浮かべて、大陸も島も他の舟も見えない海の真ん中でゆっくりと死んでいきたい。もう起き上がる気力もなくて手指も動かせなくてただじっとりと空を見る。ーー否、空しか見えないのはやっぱり不安だから、椅子に座らせてもらって、大きな空と大きな水面を見られるようにして欲しい。たまに頭上を通る鳥はきっと家族が使わしたもので、僕がまだ生きているか死んだのかを確認して去っていく。クジラだかイルカだかが僕の舟をくるくると回り、そして去っていく。顔を見せてくれたら素敵だけれど、舟が揺れるのは少し迷惑かもしれない。
僕は妻を思い出すだろうか?夏には向日葵柄のワンピースをよく着ていた。向日葵は、種がうじゃうじゃと詰まって汚い顔で僕を見下ろすからそれ程好きではなかったのだけれど、黄色い海の真ん中ならば趣が出て良いかも知れない。僕は記憶の中の妻に向かって似合うよ、と、ぎこちない笑みで言うのだろうか。そもそも、あれは妻なのだろうか。僕には一時一緒に暮らしていた女性はいたように思うけれど婚姻関係を結んでいたのかは定かでない。とてもきれいな人だけれど妻をきれいと思ったことはない気もするから、向日葵のあの人は別の、特別な女性かも知れない。それとも結婚前の妻は美しかったのだろうか否僕は結婚というものをしたのだろうか子どもはいたのだろうか家は持っていたのかどこに…。
僕は目を閉じ耳を澄ませて波音を聴く。
そう、僕は海の上で死んで生きたい。今日はそんなことを考える日だった。僕は24時間かけてゆっくりと死んでいく。もちろん波は荒れていない方が良いのだけれど、太陽が眩しすぎるだろうか?秋ならどうだろう潮風は冷たいだろうか?小さい舟は揺れやすいと聞くけれど、死につつある僕は船酔いをするのだろうか?嘔吐きながら死ぬなど風流のカケラもないなと僕は苦笑する。それから息絶える前にどこかの海岸に着いてしまうのも格好悪い。出来れば骨か木乃伊になってから太平洋の向こう側にひっそりと打ち上げられて欲しい。まあ、死んだ後なら、海鳥でもサメでも食べてくれて構わないのだけれど。体は全て何者かに食べられて失って、小舟だけがひっそりとどこかの海岸に辿り着く。見つけた人々がいろいろ推測するけれど何者でもないまま死んだ僕のことなどその頃にはもう忘れられているだろうから、小舟は結局そのままゴミなり子どもの遊び道具なりになって、ゆっくりと朽ちていく。僕はサメの腹のなかで純粋な魂の塊になって、そうして天に昇っていく。そんな死に方をした僕を、天国の人々は暖かくーー尊敬も込めてーー迎えてくれるだろう。
「よし、決めた」
「何か言いましたか?」
僕の体を拭いている何某かが僕に薄っぺらい笑みを向ける。
「明日のレクリエーション、参加します」
何某は一瞬呆けた顔をして、
「きっと楽しいですよ」
また、薄っぺらく微笑んだ。
無為 千 @c-obachan
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