目が覚めるほどの青

真夜猫

目が覚めるほどの青

季節は巡る。

新しい夏が来るらしい。

僕がそう感じなくなったのはきっとあの夏からだ。

巡ってきた夏は、またしてもあの夏だ。

この夏もあの夏の再構成。

それなら早く終わってくれないか。

もうあの夏なんて見たくないのに。

また夏が来る。


彼女の墓は永遠の高校生にふさわしく、不自然にファンシーだ。

日々死に思いを募らせる彼女の心に両親は一滴さえも気づくことなく、死んでも気づかない。その両親が作った墓だ。

らしいといえばらしい。

その両親さえも気味悪がって今じゃもう顔も見せない。

僕のせいだ。


振り返ってみるのも何度目になるのだろう。

高校生だった彼女は、インターネットで知り合った僕と密かにやり取りをしていた。

僕は当時大学生。

最初は高校生の女の子とメールを交わすことが少しだけ後ろめたかった。

楽しく話して仲良くなるうちに、不意に見せる暗い雰囲気から彼女の心に澱のように溜まっている感情に気がついた。

彼女は嫌気が差していたのだ。

高校に通うことに、友達と過ごすことに、両親と暮らすことに、生きていくことに。

全部をぐちゃぐちゃに壊してくれる何かを望んでいた。

僕とやり取りを始めたのもそんな理由からだった。

インターネットで知り合った男とやり取りをするのが、真面目な彼女にとっては小さな反抗だった。


大学生の僕もまた、真面目だった。

彼女の求めるような破壊を僕は与えてやれない。

それでも話を聞くことが、心に寄り添ってあげることが、彼女のためになると思っていた。

毎日のように来る「死にたい」というメールに、僕は毎日答え続けた。


そんな日々を過ごすうちに二年がたった。

僕は大学を卒業し、IT企業に就職した。

彼女は高校三年になり、受験生になった。

毎日のように来ていたメールも、時間に追われてか来る頻度は減っていた。

それは良い兆候だと思っていた。

どんなに死にたくても忙しく過ごしていればつらいことなんて忘れてしまえると思っていた。

甘く見ていた。


夏のある日、疲れきって寝ていた僕のケータイにメールが来ていた。

僕は気づかなかった。

「つらい」

「なんで生きなきゃいけないの?」

「もう無理だよ」

「ごめんね」

「迷惑かけないようにするから」

「さよなら」

翌朝起きた僕が何度メールを送っても、届くことはなかった。


すぐにテレビをつけてニュースを見た。

幾つものニュースに混ざって、ひき逃げのニュースを取り上げていた。

遺族の母親が泣いていた。

「葵には未来がありました。どんなに泣いても戻ってくることはありません。犯人は早く名乗りでて下さい」

顔を初めて見た。

天真爛漫な、楽しく話しているときなら、まさしくそんな顔をしていそうな、彼女の名前はアオイ。

僕は震えてその場から動けなかった。


彼女は自分の自殺を見事に事故と偽ってそのまま物言わぬ存在になった。

その後、犯人は捕まり、和解し、悲しみは癒えずとも円満に終わるはずだった。

彼女は綺麗な墓に埋葬され、家族は事故で子供を失った可哀想な遺族になった。

僕の心だけ残された。

その夏から、僕は苛まれている。


少しだけ、僕には思い上がりがあった。

誰にも知られず、彼女のことを精一杯支え続けてきた。

その年まで彼女が生きられたのは自分のおかげだと。

遺族だって本当のことを知らずにいるのは可哀想だと思っていた。

僕は遺族に手紙を出すことにした。

ずっと彼女とメールのやりとりをしていたこと。

毎日のように相談に乗っていたこと。

ひき逃げ事故の真相は自殺であること。

メールに気づけずに死を招いてしまったことを謝りたいということ。

本当に思っていたことをありのままに綴った。


その手紙のせいで、彼女は『不慮の事故で未来を奪われた可哀想な女子高生』から『ネットで知り合った男と親に秘密でやり取りし、自分で命を絶った恥晒し』になった。


その手紙のせいで、僕は『人殺し』になった。


恥晒しには関わりたくもない。

顔も見たくないから、彼女の墓には誰も訪れることはなくなった。


人殺しには、罰が必要だ。

しかし僕を刑法で裁くことはできない。

罰というには軽すぎるが、彼女の家族は僕を厳しく罵った。

「お前と出会って娘は変わった」

「娘が死ぬのを止められたのはお前しかいなかったのに」

「娘に自殺教唆をした」

「娘の命を奪った人殺し」

「お前がいなければ娘は死ななかったのに」

「娘の代わりにお前が死ねばいい」

「お前のせいで娘は穢れた」

「お前とやり取りをしていた娘が気持ち悪い」

「お前のような人間に殺されるくらいなら娘は生まれないほうが良かった」

「娘がお前に出会う前の綺麗だった時間を返してくれ」

ついに家族が誰も訪れなくなった墓石。

その墓がある霊園の目の前のアパートの、墓が見える二階の部屋に、僕は引っ越してきた。


自分は彼女を殺した償いをしなければならない。

罵られるたびにその気持ちが変わるどころか激しくなっていった。

自分は笑ってはいけない。泣いてもいけない。

彼女が表現できなくなってしまった感情を、僕のせいで表現できなくなってしまった感情を、自分が表現してはいけないと思っていた。

そのことだけは忘れてはいけない。

そのために、仕事をやめて引っ越しをした。

この気持ちに終わりなんてない。

きっと自分が死んでも、悔いはどこかに形に残る。

そんな気がする。


そうやって、何年か経った。

僕はずっと、何かに怯えながら、怠惰に暮らしていた。

病院に行っても本当のことなんて言えない。

飯はほとんど食べない。

お金がなくなったら短期のバイトをして、それ以外は、何もしていない。

越してきた当初は窓から墓を意味もなく眺めていた。

墓石の灰色は、霊安室で見る人の色に似ている。

違うのは、顔がないということだ。

彼女の墓は今風な横長の形で、首を落とされて胴体だけ埋まっているみたいなのだ。

自分で白百合を買ってきてそこに挿したら、ウエディングドレスみたいで、何とも言えない気持ちになった。

その日以来花を買うのはやめた。

墓を意味もなく眺めるのも、つらくなってやめた。

それでも視界の端に入るのは避けられないのだった。


今でもたまに夢を見る。

メールが来る夢だ。

来た時の僕の感情は、いつも違う。

「あ、アオイからかな?」と少し楽しげだったり、「また悩み事かな……」と少し面倒くさかったり、ただただ死の臭いからの焦りだったり。

どんな気持ちでスマホを開いても、文面は決まって何も書かれていないのだった。

彼女は何も言わない。

僕が何を言おうと彼女は何も言わない。

僕が何も言わなくても彼女は何も言わない。

僕がいくら苛まれても彼女は何も言わない。

多分僕が死んでも彼女は何も言わない。

それなのに彼女は僕を苛む!



差し込む光で目が覚めた。

またうなされていた。

空は快晴。

真っ青の空に、似合わない灰色の墓石が目に入った。

彼女の色は灰色。

だからきっと、


まだ空に溶けられないんだ。


夢中だった。

僕は夢中でペンキを買ってきて、墓石の前に立った。

そのペンキで、僕は彼女の墓石を真っ青に塗っていく。

青く、青く、目が覚めるほどの青に。


君が溶けられるように。


僕は気づいたんだ。

君は何も言わない。

そりゃあそうだ。

君は空になったんだから。

僕がうつむいても君は何も言わない。

それなら、めいっぱい君を見ていよう。



暑い。

汗がしたたり落ちる。

セミの声が聞こえる。

入道雲が上っている。

新しい夏が来る。

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