第1話『出現』-5
「車、止めろ!」津島が叫ぶ。炎熱地獄の迫るゴールドラインで、二人を乗せたスカイラインはけたたましいブレーキ音を鳴らしながら停止した。
「…なんて事だ」
二人の視線が向けられた数メートル先の路肩に白い塊が見えた。川島は目を凝らす。それは横転してひしゃげた救急車両だった。先ほど山麓にて滑らかな白い輝きを放っていたはずの車両は無造作に叩き潰されたかのようにひしゃげ、物言わぬ鉄塊となり果てていた。
「川島、上に連絡を」
「ええ。…あの壊れ方、横転するだけでなるものかな」
川島は無線機で酸ヶ湯方面の機動隊へと連絡を試みる。呼びかけた後の返答を待つが、一向にスピーカーから声が返ってくる気配はない。周波数を微調整して呼び出しを繰り返す。やはり返答はない。
「無線機がおかしい。班長」
津島はポケットから取り出した無線機の小箱を操作したが、聞こえてくるのは砂嵐のようなノイズばかりだった。
「駄目だ。一体何が起こった?ついさっきまで問題なく使えてたはずだ」
「皆目見当もつかない。単に故障したのか、この山一帯で磁気嵐でも起きているのか」
「馬鹿を言え」
「まったくだ――やむを得ない。生存者の救出を急ぎます」
津島は車外に出た川島に続く。
救急車両の周りには、鋭利な破片が飛び散っていた。その中の一片を川島が気付かずに踏み、砕く。割れたガラス窓の中へとペンライトの光を向ける。潰れかけの車内で、衣服を汚した救急隊員がいた。呼びかけ、脈をとる。反応はなかった。体を起こすと津島班長が車両後部から出てきた。川島がどうかと訊ねたが、班長は無言で首を横に振った。
「…酸ヶ湯に戻るぞ。じきここにも火の手がまわる」
川島が頷き、車へと戻ろうとしたその時だった。周囲に異様な音が響いた。地の底から響いてくるかのような、重低音。
「この音は」津島班長が足を止めた。「…聞き覚えがある。山鳴りに近いな、以前に資料映像で見た」
「そんな馬鹿な。噴火するっていうんですか。この山が」
「先の震災以降、火山性地震は増えているらしいが」
荒々しい音が不意に途切れる。少しの間をおいて、別の音が聞こえ始めた。金属線をすり合わせるような、細かく硬質な響き。徐々にその音が迫ってくる。津島班長は無数の虫が這ってくる光景を想起させ、肌を粟立たせた。
「…山鳴りって、こんな短いものなんですか」
「そんなはずはない。…何か近づいてくる。ライトだ。左前方」
川島はペンライトを指示された方向へと向ける。照らし出された闇の向こう側で、青白い微かな光が見えた。光は徐々に近づき、やがて光源は全身を現した。
それは奇妙なオブジェだった。
闇の中で姿を現したそれは、全身を硬質な黒い輝きで包んでいた。全高2メートルほどの縦に潰れた紡錘形の下側には針金のように細い脚部が無数に蠢いていて、時折青白い輝線が表面で輝いていた。
ふたりから数メートルの地点まで近づいたところで、不意に動きが止まる。直後に脚部の輝線の輝きが増した。青白い輝きは脚部の付け根のあたりに集中したかと思うと、紡錘形の上部へと向かって勢いよく走り抜けた。輝線が軌跡を描いた箇所が、焼き切られたかのように消滅した。上部がばかりと開き、ゆっくりと外側に倒れ始める。輝線は複数本走ったらしく、上部はいくつかのパーツに分かれて外側へと倒れる格好となっていた。川島はパーツの形状から、紡錘形の物体が殻のような構造になっているのに気づいた。紡錘形の上部が完全に倒れ、かしゃんと静かな音を鳴らす。現れたその姿を見て川島は戦慄しながら、一言だけ口にした。
「……花だ」
――ごぉおおおぉん。
繊細に風を切るかのような鋭い響きの混じる、地の底から響く重低音。先ほど微かに聞こえた異音と同じだった。音量の大きさで鼓膜がびりびりと震える。異音は目の前の物体――黒い花から発せられていた。川島はとっさに耳を手でふさいだ。無防備になった脇腹に、何かが高速で打ち付けられたような鈍い感触を覚える。足が地面から離れたのは痛覚信号が脳に到達するよりも早かった。蹴り飛ばされた空き缶のように体が軽々と宙を舞う。重力から解放される奇妙な感覚に襲われた川島は、程なくして路肩の草むらに叩きつけられる。
「――っ、ぁ」
衝撃で肺の中の空気が追い出され、せき込む。遅れてやってきた全身の激しい痛みが呼吸を詰まらせた。先ほどまで立っていた場所に視線を向けると、花の内側から伸びた触手のようなものが、しなりながら大気のなかを泳いでいた。
闇の中で黒く輝く花はかしゃかしゃと音を立てながら脚を駆動させ、倒れ込んだ川島へと少しずつ近付いていく。その様を遠巻きに見ていた津島班長は躊躇なく拳銃を抜き、正確にその脚部を狙って数発発砲した。弾丸は怪物の甲殻に全弾命中し、硬い金属音を短い間隔で続けて鳴らした。弾かれた弾丸が小石のように草むらに落ちる。津島班長はすぐに銃を構え直し、続けて二発を胴体下部に向けて発砲した。やはり効果はない。花の怪物が触手を高速で延伸させた。津島は右手に鋭い痛みを感じ、拳銃を取り落とす。手の甲が大きく引き裂かれ、血を流していた。さらに触手がしなる。勢いが増していた。津島は強張る体を奮い立たせて横に跳ぶ。触手の一撃は津島の立っていた地面をえぐりながら、救急車両の残骸、その中ほどに叩きつけられる。既にぼろぼろだった車体は中央部分から思い切りねじ曲がった。堰を切ったようにガソリンが漏れ始める。
「…化け物め」津島班長は焦りの混じる声色で呻いた。
「川島、逃げろ!敵う相手じゃない!」
班長の叫び声は、激痛に呻く川島の耳には届いていない。半ばパニックになりながら、じわじわと距離を縮めてくる黒い花を見開いた眼に映すばかりだ。津島は右手を抑えながら救出に向かおうとしたが、違和感を覚えて足が止まる。
視界の隅の夜空、何かが動いたように見えた。飛行機のランプや山鳥とは印象が異なる。輝く星々の間に、明らかに異質な影が見えたのだ。津島は徐々に大きさを増す影を見つめ続け、やがてその輪郭を捉えた。
「…何だと?」
津島班長が困惑の声を上げて間もなくして、影の正体はふたりの眼前に落着した。
轟音とともに、大風が巻いた。川島は思わず顔を腕で隠す。薄く開いた瞼の隙間から、黒い花が飛来した『何か』に弾き飛ばされるのが見えた。外殻を大きく凹ませた花が遠方に吹き飛び、山の木々の陰に隠れる。その直後、重量物の落着を思わせる鈍い音が響いた。
「川島!」
呆気にとられていた川島は、津島班長の呼びかけで我に返る。振り向くと、左手で拳銃を構えた津島が前方の一点を見据えて狙いを定めていた。津島の銃口が狙うものを川島は確かめる。
闇の中、それは身じろぎもせずに立っていた。
先ほどまで二人を襲っていたものとは全く形状を異にするそれは、二本の脚で地に立っていた。脚部の付け根には、皮膜のように薄い器官がはためいている。頭部と思われる部位から伸びた細長い一対の影が、大気に乗ってさらさらと揺れていた。川島はその姿を確かめて驚愕する。……『あれ』が、花の怪物を吹き飛ばしたのか?
「…そんな馬鹿な」
「川島、…報告しろ」津島が銃口を影から外さぬまま呼びかける。顔中に汗が噴き出ていた。
「お前にはあれが――何に見える」
川島の思考は目の前で立て続けに起きたことに追随できていなかった。
「何って…見ての通りだ。見てわからないのか、班長」
「あれは――」
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