第3話 日常

「…………はぁ」


 外に出るなり俺は溜息をついた。安堵の息だった。

 この世界で唯一安らげる場所があるとするならそれは自室だが、この世界でもっとも恐ろしい場所は自室以外の家の中だった。あそこは一歩進むごとに嫌なものがある。何十年もそうだったせいで、もう麻痺してきていたが。


 無意味に大きい門を抜けて街道に出る。振り返ればそこには巨大な洋館がそびえ立っていた。これが俺の家で、生まれ育った場所だった。

 両親は実業家というやつだった。何代も続く由緒ある家柄で、父はその何代目かの当主。母の家柄も誰も文句をつけない程のものらしく、誰から見ても完全なる成功者たちだった。

 そんな彼らの唯一の汚点が俺だ。別に陰気だからというわけじゃない。


 子供の頃から俺は、そういう一族の例に洩れず英才教育というものを受けた。教養や知恵を体得するために必要であろう全てを与えられた。最高の教師に最高の教材、完璧な管理。まるでベルトコンベアに乗せられたように、俺には教育という名の加工作業が行われた。

 だが、それは失敗した。どれだけ金を費やしてどんなことをしても、俺にはなにかしら教養と呼べるものが備わらなかった。


 両親の失望ときたらかなりのものだっただろう。なにせこういった家柄を気にするところは、長男が普通は後継ぎだ。それが大失敗に終わったのだから同情する。


 そこで両親は苦肉の策に出た。後継ぎを俺ではなく妹に期待したのだ。俺に今まで行っていた最高の英才教育を妹に施し始めた。そしてこれが大成功した。もともと頭も良くて要領も良い妹は優秀だったが両親が集中して時間と金をかけたことで、今では妹はどこに紹介しても見劣りしないぐらいの才女となった。


 ──俺は妹が苦手だった。負い目があったのだ。妹がいることで両親も後継ぎが決まり、全てが丸く収まった。だが俺が無能なせいで妹に後継ぎというものを押し付けてしまった。それがどのぐらいの重圧なのかは、それこそ身を持って知っている。だから、俺は妹を避けるようになった。そういった意味では食事がひとりになったのは良かった。


 人生を振り返ってる場合じゃなかった。さっさと学校に行こう。

 学校までの道は平坦で、これといって語るところもない。住宅街を抜けて商店街を通り、軽い坂道を登っていけば学校だ。

 俺は通学路というものが好きだった。道を歩いているときは皆が通行人だ。俺のことは誰も見ちゃいないが、俺は“通行人”というものの一部になれる。ひとりでありながら、ひとりでない気分が味わえる。


 十数分後、俺は学校に到着した。それなりの家柄が集まる学校──ではない。共学制の市立学校だ。

 この学校に入る頃には俺はもう両親に見放されていた。将来のない人間にかける金はないということだ。両親の判断は正しいと思う。

 校門からは続々と生徒たちが校内へと入っていき、そのうち数人に教師が挨拶をしていた。それらの間を縫うようにして俺も中へ入った。今まで教師に声をかけられたことはないし、今日もかけられなかった。


 靴を履き替えて真っ直ぐに教室へ。鞄を置いて、中身を取り出す。次の授業の準備に二分もかからない。俺に声をかける人は居ないので授業までは外を見て過ごす。こういうとき、窓際の席は都合が良かった。

 通学路は好きだったが学校というものは嫌いだった。この中で確かに俺は“生徒”というものの一部だし誰も声をかけてこないからひとりだが、誰でも誰かしらと話し、関係性を持っている。誰にも見られないのは俺ぐらいだろう。


 この中で俺はひとりで──完全にひとりだった。ある日居なくなったところで、誰も気がつかないだろう。

 始業を知らせる電子音がスピーカーから響く。授業も大して好きではないが、義務なのでこなすことにした。

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