07:メリエル・スチュワートの転機

 あの日、私は手を引かれ、夜も明けない内に家を出た。お父さんに聞いても、お母さんの顔を見詰めても、早く静かに歩きなさいと急かされ、車に乗せられるのみだった。三列目の後部座席を見てみれば最低限の荷物が積まれていて、私が知らなかっただけでこれは予め計画されていたものなのだと悟った。私は座席の背に捕まりながら、見慣れた景色が小さくなっていくのをいつまでも見送っていた。

 街を抜け、高速に乗り、山の中を走って行って、到着したのは母方の実家だった。其処はたまにゴブリンが出てくるような山奥の田舎で、耳を澄ませば鳥たちが囀り羽ばたく音まで聞こえるほどの自然豊かなところだった。

 石畳の小さな階段を登り、花々が咲き乱れ草木の茂る庭を抜け、木造の一軒家に入る。お母さんが鍵を回すと逆に扉が閉まってしまい、もう一度開け直していた。空は未だ暗さが残っており、朝日の射す頃ではなかったが、母方のお祖父ちゃんが起きて出迎えてくれた。

 お祖父ちゃんは全てを知っているようで、何も言わずに私たちを受け入れてくれた。久し振りだな、と私の頭に置かれた手は固く乾燥していて、その当時の私は本か何かを置かれたのかと思っていた。


 私は其処で新生活を始めた。幼児クラスには通わず、お父さんに字を教えてもらったり、お母さんに植物の名前を教えてもらったりしていた。両親共に相手をしてもらえない時は、お祖父ちゃんと山に山菜を採りに行ったり、川で魚を観察したりしていたが、あの黒スーツの人影は何処にも見なかった。私と同じ年頃の子供も居なかったが。

 そして遅生まれの私は五歳になった。流石に小学校に入学しないなんてことが出来る筈もなく、私はお母さんに送り迎えされて山の麓の小学校に通うことになった。私は、久し振りに同い年の子に会えると、これからの生活への期待に胸を膨らませていた。

 しかしそんな期待も、風船の空気が抜けるようにすぐに萎んでいくこととなる。狭い田舎では、私たち家族のことは噂になっているようだった。私たちが人目を避けるようにこの集落へ来たこと、お父さんが毎日朝早くから夜遅くまで働いていること、私が盗みの能力を持っていること。家では家族がその話をしているのだろう、まるで大人のように厭らしい悪意を以て、同級生たちもこれ見よがしにその話をした。

 幼稚舎では受け入れてもらえたのだから、私が悪い人間ではないことを交流して分かってもらえれば、きっと此処でも友達が出来る筈だ、当時の私はそんな風に考えていた。今考えれば、自分を悪し様に罵る相手と友好的に渡り合おうという方が不自然極まりないのだが、そのことに私は気付かなかった。友達を作ろうとして、中々足を踏み出せずにいた。どうにも人見知りの私は、初対面の人に話しかけるのに並々ならぬ勇気が必要らしかった。漸く勇気を振り絞って同級生に話しかけた頃には、


「は? きも」


 その一言で、幼かった私の心は木っ端微塵に砕け散った。私はまた一人になったのだ。学年混ぜこぜのクラスになるほど少子化極まっていた田舎では、私は一人ぼっちの地位を脱せなかった。私の学校生活に、年度の変わり目など何の関係も無かったのだから。


 小学校に入って一年ほど経つと、あの黒スーツの男たちが再びやってくるようになった。学校の行き帰りはお母さんに送ってもらっていたお陰で誘拐されかけることこそ無かったが、その人たちは以前よりもあからさまに私のことを監視していた。自宅の斜向かい、学校の校庭傍、通学路の路傍、その人たちはいつでも何処にでも居た。

 警察に訴えてもそれが聞き入れられることは無く、弁護士に話を聞いてもらえたと思っても翌日には断りの電話を入れられる。明らかに、何か強大な力が裏で働いていた。

 中学校に入ると同時に、お父さんは仕事を解雇された。それから業種問わず新しい職場を探したが、何処も雇ってはくれなかったらしい。お母さんも日銭を稼ぐために職を探したが、此方も似たような結果に終わったようだ。結局、お父さんは日雇いの肉体労働、お母さんは古紙回収のパートをすることになった。

 お父さんとお母さんは確実に肉体と精神を蝕まれていた。肉体を酷使することによる肉体的疲労と、慣れない仕事に従事する精神的疲労とが、二人を日に日に窶れさせていった。

 中学生にもなれば、私は何も知らない子供ではなくなった。以前にも増して家へやってくるその人たちに、経済的に困窮しているだろうと匂わせてくるその語り口に、全てはその人たちが裏で糸を引いているのであろうと察するのも難くはなかった。

 私がお父さんとお母さんを苦しめているという事実は、私の胸を切り裂いた。私が盗みの超能力を持ったばかりにこんなことになっているのだろうか、私が居なければお父さんもお母さんも心健やかに暮らしていたのだろうか。何がいけなかったのだろう、何処で間違ったのだろう。いつしか私は楽しかった幼稚舎での出来事に想いを馳せ、またあの頃に戻りたいと何度も夢想した。けれどそれは叶わぬ願いだとも知っていた。


 だったら。どうせ戻れないなら、せめて。


「もうウチに付き纏うのはやめてください。以前から申し上げている通り、娘を貴方たちにやる気はありませ……」

「お母さん」


 それは、中学校も後一年と少しで卒業する時期だった。その人たちは、いつものように家の前で待ち構えていた。お母さんがその人たちと話をしている時は決して口を出すなと言われていたが、その日はお母さんの言葉を遮った。


「私、その人たちのところに行くよ」

「ちょっと、何言ってるのメリエル……」

「もういいの」


「もういいのお母さん、十分だよ」


 そう言った私を見て、お母さんは泣きながらその場に崩れ落ちた。私にはお母さんが、悔恨しつつも何処かほっとしているような表情に見えた。


 私はその人たちに導かれるまま黒塗りの高級車に乗り込み、恭しくシートベルトを差される。此処に来た時とは違い、その場から車が走り去る時も、私は後ろを振り返りはしなかった。


「私たちの元に来てくれてありがとう、メリエル・スチュワートちゃん。これからは私たちを、君の家族だと思ってくれ」

「私の家族は、お父さんとお母さんとお祖父ちゃんだけだから」


 にべもなくそう返した私を、その人は一笑してバックミラー越しに見た。


「君の要望は出来る限り叶えよう。だから、君も私たちのために働いてくれ」


 そう言われることは予想していた。だから私は、流れる窓外の景色を眺めながら、ぽつりと告げた。


「お父さんとお母さんが、元の生活を送れるようにして欲しい」

「それは勿論」

「……私、またあの幼稚舎に通いたい」

「それは無理だ。君はもう、十年生だろう?」


 知っていた。知っていたが、言ってみただけだ。得体の知れないその人たちなら、何か不思議な力でそれを実現出来るんじゃないかと思ったから。


「君は幼稚舎の何が恋しいんだ?」

「……友達」

「友達とまた遊びたいのか」


 私は答えなかった。何も言わなくても、幼稚舎の時から今まで四六時中私を見ていたその人たちなら、きっと推し測れるだろうと察していたからだ。


「君を過去に戻すことは出来ないが、その友達が通っているだろう学区の中学校に一年だけ通わせてあげることは出来る」


 私は初めてその人を見た。


「但し、高校は私たちの指定する学校に通ってもらう。それでもいいかな?」


 私は何度も頷いた。

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