第95節 シンプル・フェイバー



 4月の終わりほど、昭和の日から始まるゴールデンウィークになって、世間は連休になった。


 そんなわけで、高校を卒業後に千葉ちばけんの会社に就職し社会人として独り暮らしをしている、俺たち三人さんにん姉兄妹きょうだいと昔から親しくしてくれていた明日香あすかねえちゃんの幼馴染おさななじみであるお姉さんがに遊びに来た。


 ねえちゃんとは東京とうきょうでちょくちょく会っていたらしいが、このタワーマンションビル最上階にある、宝くじが当たってから引っ越した豪邸ごうていに来るのは初めてであった。


 昼下がりのしこむ窓側にある俺とあおいが座っているソファーの隣、コの字型に並んだ三つのレザーブラックソファーの真ん中にて、気味ぎみの黒髪を両側からふたつ長く伸ばして先で巻いているその怠惰たいだな感じのお姉さんが、美登里みどりと一緒に座っている。


 そして、明日香あすかねえちゃんがここから見て向かい側のソファーに、この場を支配する女帝じょていのように堂々どうどう陣取じんどっている。


 見知らぬ女の人がいる様子に、俺のすぐ隣に座っている従妹いとこあおいが、小声で尋ねてくる。


けぃにぃちゃん、この人ってどんな人なん?」


「ああ、元々の家の近くに住んでた明日香あすかねえちゃんの幼馴染おさななじみ摩耶佳まやかさんだよ。俺も美登里みどりも両親の帰りが遅くなる日には、子供の頃から何かとお世話になってたんだ」


 姉ちゃんと同い年である、ダウナー系長髪お姉さんの金田かなだ摩耶佳まやかさんが、美登里みどり接客嬢せっきゃくじょうみたいにとなりにしてソファーに座ったまま高い天井を仰いで、こんな声をだるげに漏らす。


「あぁ~、いいなぁ~。めぇちゃんたなからぼたもちで、こ~んなおしろみたいなうちめるちょう大金持おおがねもちになっちゃって~。あたしもこのうち子供こどもになりたいな~」


 すると、摩耶佳まやかさんのすぐ隣に座っている美登里みどりが、こんな反応を返す。


「……摩耶佳まやかさん、深月みつきさんと同じこと言ってる」


「ん~、深月みつきさんて誰~? 美登里みどりちゃん、もしかして友達できたの~?」

 

 すると、向こう側に座っている明日香あすかねえちゃんが、昔から付き合いのある幼馴染おさななじみ同士どうしらしく、両腕を大きく広げて胸を張り背中をソファーに預けたまま、気安い感じで元気に応える。


「そうだよー! 摩耶まやちゃんに前電話で言ったじゃーん! みどり、声優さんとの握手会で知り合った大学生の友達できたってー!」


「お~、よかったじゃ~ん。美登里みどりちゃん、めぇちゃんと違ってあんまり元気ない方だからさ~、摩耶佳まやかお姉ちゃん心配してたんだよ~」


 摩耶佳まやかさんはそんなことを言って、同じソファーですぐ近くに座っている美登里みどりの肩を抱き寄せて慣れた手つきでわしゃわしゃと猫みたいに撫でる。そして、自然な流れでサイドテーブルに置いてあったリラクゼーションドリンク缶を手に持ち、ストローで中身を吸い出し自堕落じだらくな感じで飲む。


 そんな子供の頃からの見慣れた様子に、あおいと一緒に大人しくソファーに座っていた俺は、こんなことを思う。


――変わってないなー、摩耶佳まやかさん。


 退廃的たいはいてき昔馴染むかしなじみの雰囲気に、俺はそこはかとない日常感を覚えていた。


 摩耶佳まやかさんが、左の目元に泣き黒子のあるその顔をこっちに向け、襟元えりもとに青いマフラーを巻いた俺と、そのすぐ隣にいる頭に青い宝石の髪飾りを付けたあおいを交互に見て、冗談じょうだんめいた口調でこんなことを尋ねかけてくる。


「で~、そっちの啓太けぇたくんの隣にいる仲良さそうな可愛い女の子は知らない顔だけど、どちらさま~? もしかして~、ちょう金持かねもちになってからゲットした啓太けぇたくんのおよめさん~?」


 暴君ぼうくんみたいな性格せいかくあおいがすぐ脇にいる状況で、俺は遠慮えんりょがちに応える。


「あ……いえ、とんでもない。このっさいのははるから一緒に暮らすことになった俺の従妹いとこです」


「このっさいのってうな!」


 俺より頭一つ分背丈が低いあおいがそう大阪おおさかべんで突っ込むと、摩耶佳まやか姉ちゃんはダウナー系らしく顔をトロンと緩ませ、悪戯いたずらっぽくニヒヒと笑う。


「あ~、そうだよね~。啓太けぇたくん高校2年生で~まだ誕生日来てないから16歳だもんね~。18歳にならないと結婚はできないか~。でも~、ゴールデンウィーク明けたらすぐ誕生日来るからもう17歳でしょ確か~」


「あーっと……5月14日に17歳になりますね」


「もうすぐ17さいで~、数百すうひゃく億円おくえんちか~。いやぁ~王子様おうじさまだね~、啓太けぇたくん。なんだったら~、会社かいしゃ設立せつりつして摩耶佳まやかねぇちゃんをやとってよ~」


 本気ほんきだか冗談じょうだんだかわからない、ふくみのあるおねがいを摩耶佳まやかさんにもとめられたので、俺はつかってひかえめな態度たいどかえす。


「えーっと……とりあえず今のところは会社かいしゃ設立せつりつとかは考えてませんね。まだ未成年ですし、社会のことなんにも知らないので」


「あ~、そっか~。会社かいしゃとか経営けいえいするのなんてめんどくさいもんね~。じゃ~、来年の誕生日に啓太けぇたくんがオトナになってからの愛人枠でもいいよ~。摩耶佳まやかお姉ちゃんね~、こないだまで付き合ってた彼氏と別れちゃっていまフリーなの~」


 昔からよく知っている年上のお姉さんである摩耶佳まやかさんのそんな、男女が肉体関係となることを包み隠さず表したただれた言葉に、なんだか隣に座っているあおいがキッと俺をにらんだかのような気がした。


「あーっと……それはちょっと……倫理的りんりてきに問題がありますし」


 俺がそう返すと、明日香あすかねえちゃんが両腕を広げたまま、豪快な声を出す。


「あははー! 摩耶まやちゃん、啓太郎けいたろうはそういうの無理だってばー! お父さんに似ててわりと女の子相手に一途だし、真面目だしさー! 体目当てに愛人なんかつくらないってー!」


 そして、妹の美登里みどりが言葉を連ねる。


「……いくら300億円持ってるお金持ちだからって、お兄ちゃんに愛人囲えるだけの度胸どきょうとか、精神せいしん強靭きょうじんさとかない。そもそもからしてヘタレだし」


 姉と妹の二人とも、俺に対する評価は正反対だが俺の性格はよくわかってるようであった。


 すると、摩耶佳まやかさんが納得した顔でこんなことを言う。


「ま~、啓太けぇたくんならそう返すかな~って思ってたけどね~。じゃぁさぁ~、めぇちゃんの付き人になろっかな~。そっちの方が合ってそう~」


 すると、明日香あすかねえちゃんが笑顔のままほがらかにこたえる。


「あー、あたしはそれでもいいよー!? じゃーさー、啓太郎けいたろうじゃなくてあたしと一緒いっしょ会社かいしゃつくってスポーツジムでも経営けいえいするー!? もちろん啓太郎けいたろう出資しゅっししてもらってー!」


「お~、いいねぇ~。経理けいりとかの事務じむ作業さぎょうなら任せて~」


「じゃーあたし社長やるー! スポーツジムじゃなくってヨガもできるフィットネスジムの方がいいかもしんないねー!」


 明日香あすかねえちゃんと摩耶佳まやかさんの二人は、俺の出資しゅっしでどんな会社をつくるか、どんな事業を経営するかなどの話で盛り上がっているようであった。


「勝手に話を進めないでくれよな……」


 俺がそう文句を言うも、二人とも聞こえていない様子であった。


――明日香あすかねえちゃんが会社経営なんかしたら、赤字あかじふくれ上がりまくって手が付けられなくなるっつーの。


 あきらめをもって姉ちゃんら二人が会話をしている状況をはたから眺めていたところ、後ろに長い亜麻色あまいろの髪を伸ばした両三つ編みお下げメイド少女のかなでさんがリビングにやってきた。そして、明日香あすかねえちゃんのかたわらひかえてしとやかにこう告げる。


明日香あすか嬢様じょうさま……ちちの運転するお嬢様じょうさまのお車が下に到着いたしました……」


「あー、ご苦労様ー! じゃー摩耶まやちゃん行こっかー」


 そんなことを言って、明日香あすかねえちゃんはソファーから立ち上がりつつ、脇に置いてあったカードるいはいったポーチを手にして、摩耶佳まやかさんと一緒に大広間から出ようとする。そして、こっちに振り返って俺に話しかける。


「ほら、何やってんの啓太郎けいたろうー!? あんたも一緒に来なよー!」

「あー……やっぱ乗らなきゃいけないの? 俺も? 姉ちゃんの運転する車に」


「あったりまえじゃーん! せっかくの免許取ってからの初運転なんだからさー!」

「初運転だから怖いんだけどな」


 そんなことを言いながら俺がソファーから立ち上がると、サイドテーブルのリラクゼーションドリンク缶を片付けてくれているメイドのかなでさんにこんな言葉をかけられた。


「えーっと……啓太郎けいたろうさん……なんと言っていいかわかりませんが、ご武運ぶうんを……」

「あーっと……ありがと、かなでさん」


 ちなみに美登里みどり危険きけん察知さっちしたのか、何も言わずにそそくさと上階にある自分の部屋に戻ってしまったようであった。


 俺が明日香あすかねえちゃんの初運転に付き合うためにリビングを出ようとすると、あおいが後ろからピッタリついてくるのに気づいたので、振り返って言葉をかける。


あおい、お前はついてこなくていいんだぞ」

「ええわ、ウチもけぃにぃちゃんのこと下くらいまでなら見送ったる」


 なんだかあおいが頬を赤らめているようであったが、まあいつものことなので気にしないことにした。


 姉ちゃんと摩耶佳まやかさんとあおいと一緒にエレベーターで下に降り、俺たちがエントランスで目にしたのは、かなでさんの父親であり雇っている運転手さんである楽保よしやすさんが塗装とそう業者ぎょうしゃから引き渡しを受けて、ここまで運転してくれた赤いセダンのハイブリッド自動車であった。


 豪華ごうか客船きゃくせんでバカンス中の父さんから貰ったトヨダTOYODA社の白い国産乗用車を、明日香あすかねえちゃんが好きな色である赤色に塗り替えてもらったのである。


 楽保よしやすさんからかぎもらい、車に乗り込んで運転席に座った姉ちゃんが、ウキウキした陽気な声を放つ。


「よーっし! かっとばすぞー!」


 左後ろの席に座ってシートベルトを締めた俺は、斜め前の運転席に座っている姉ちゃんに忠言する。


明日香あすかねえちゃん、免許取ったばかりの初心者しょしんしゃだってこと忘れんなよ。っつーか、これで事故起こしたら大惨事だいさんじなんだからな」


 すると、助手席に座った摩耶佳まやかさんが気楽というか、極めて平静な感じでこんなことを言う。


「ま~、だいじょーぶっしょ~。めぇちゃん、スポーツ万能で運動うんどう神経しんけいは昔っから良かったし~」


――運動うんどう神経しんけい、関係あるのか?


 そんなことを思って不安になっていると、外に立っているあおいが俺の近くの窓を叩くので、俺はそのパワーウィンドウを開けて尋ねる。


「どうした? あおい?」


 すると、なんだかあおいがいつもの暴君ぶりとはうってかわって、心なしかその丸い瞳を潤ませて、活力のない心配そうな声色になり、シンプルな言葉で願いかけてくる。


けぃにぃちゃん、死なんといてや」

「あー……精一杯努める。っつーか、ちゃんと帰ってくるから元気になっといてくれ」


 そんな感じで従妹いとこに軽く返答した俺は、窓を閉めてから覚悟を決めてこんな風に考える。


――ま、この前、マフィアに誘拐されたときの緊張感に比べれば軽い軽い。


――何も姉ちゃんは、俺を殺そうとしてるわけじゃないんだからな。


 俺はこのとき、確かにそう思ってた。


 姉ちゃんがエンジンをかけ、レバーを操作し、ペダルを踏んで車が発進する加速度が俺の身体にかかった。


――まあ一応、多国籍マフィアの手による誘拐と生還という死線をくぐりぬけたんだから、俺にとってはこれくらい朝飯前あさめしまえだろ。


 そんな風に、真剣に考えもせず俺は思い上がってしまっていたのだ。





 

 5時間後。


 夕方になってから、我が家のある大宮おおみや駅前えきまえのタワーマンションビルにて、姉ちゃんの運転する赤くカラーリングされたセダンの乗用自動車がエントランスに入り、停車した。


 そして俺は後ろのドアを開け出て、フラフラになってその場で顔や腹などを下に向け、両腕を枕にして突っ伏した。


 事態を軽く見ていたことによる激しい後悔と、なんとか命が無事だったことによる安堵の入り混じった感情が、せった俺におそかる。


――明日香あすかねえちゃん、俺を殺す気か。


――マフィアの誘拐の方がまだましだった。


――初運転で首都高速まで行って時速100km超で飛ばすか!? 普通!?


 俺はタワーマンションエントランスの固い地面に突っ伏しながら、いまこの場で命があること、そして事故も起こさず無事に家に帰ってこれたことをただただ天に感謝していた。


 運転席のドアを開けて降りた姉ちゃんが、ツヤツヤした声でこんなことを言う。


「いやー! 楽しかった楽しかったー! 車の運転ってこんなに楽しいんだねー!」


 そして、助手席から降りた摩耶佳まやかさんもいつものように気だるげな感じで、往々おうおうにしていのち無事ぶじたもてなくてもおかしくなかった先ほどまでの状況をものともせず、ダウナー系っぽく落ち着き払った声を出す。


めぇちゃんのステアリングさばき、見事だったな~。ジェットコースターより、よっぽどスリルあったね~」


「……そりゃ、ジェットコースターはいのち保障ほしょうがあるからな……」


 両腕をひたいき、うつせにした俺がそんなことを小声で言うも、ハイテンションとローテンションなでこぼこコンビである、姉ちゃんと摩耶佳まやかさんの耳には届いてないようであった。


「……俺は、必ず自分で免許を取って、自分で運転しよう……」


 姉ちゃんと摩耶佳まやかさんとの死のドライブをて、この場で誰にも聞いてもらえないそんな密かな誓いを、俺は一人冷たいタイルに向かってつぶやいていた。

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