第94節 ベスト・キッド



 一学期が始まったばかりの四月しがつ、ある日の夕方に俺と美登里みどりは、タワーマンションビルのワンフロアを占めていてプールも併設へいせつされている最新さいしん機器ききそろったフィットネスジムにて、兄妹きょうだいそろってエクササイズをしていた。


 黄色きいろみじかめのジャケットを羽織はおってそのしたには交差こうさせん模様もようはいったしろいスポーツブラをけて、女子じょし中学生ちゅうがくせいなりにくびれたほそはらまわりとへそを出し、下半身かはんしんくろいトレーニングパンツを穿くろいシューズをいて、そのながかみをいつもみたくロングツインテールにしている美登里みどりが、スポーツウェアを着ている俺と並んでトレッドミルの上を走っていた。


 タッタッタ

 ゴィィィィン


 中学生の美登里みどりと高校生の俺、二人分のテンポの良い足音と、ふたつのトレッドミルのモーター音が、フィットネスジムの広い空間に響く。


 俺たちの他には、おそらくマンションビル関係者かんけいしゃとしての特権なのであろうが、いつも出入り口に立って警備をしてくれている高身長こうしんちょう筋肉きんにくがムキムキの男性だんせい警備員けいびいんさんが、器具に備え付けられた重いウェイトを何回も持ち上げて筋力トレーニングをしているのがわかる。


 このフィットネスジムにあるトレーニングマシーンは、手首に付けている貸し出しのスマートウォッチと連動れんどうして、脈拍みゃくはく消費しょうひカロリーなどを常にモニターしてくれる仕様しようとなっている。


 近くの台の上に置いてある美登里みどり私物しぶつとして持ち込んだスマートフォンからの無線むせん電波でんぱで、美登里みどりはアニメだか何だかの音楽を無線むせんイヤフォンで聴きながらトレッドミルの上を走っている様子だ。注意力ちゅういりょく散漫さんまん美登里みどりは、音楽おんがくきながらトレーニングができるかどうかで、続くかどうかが全然違うらしい。


 平日の夕方にこのスポーツジムに通うことになったのは、美登里みどりが新しい中学校に転校したのをきっかけとして、一年間に渡っての引きこもりによる運動不足を解消かいしょうする目的のため、俺が提案ていあんしたものである。


 その代わり、妹に中学三年生のお小遣こづかいとしては多めの毎月5万円を渡すことになったが、美登里みどり適度てきど運動うんどう習慣しゅうかんをつけて健康体けんこうたいになってくれるなら安いもんだ。


――可憐かれんも、身の安全と健康にはいくらでもお金を使った方がいいって言ってたしな。


 幼馴染おさななじみ親友しんゆうである金髪お嬢様ギャルの可憐かれんも、契約けいやくしているジムには夕方にほぼ毎日のように通って、適度てきど運動うんどうを続けているらしい。


 お嬢様じょうさま学校がっこうかよっていた女子じょし小学生しょうがくせいであったのにスポーツ少年しょうねんのふりをしててもなにも違和感いわかんかった可憐レンのあの体幹たいかんがしっかりとした身体しんたい能力のうりょくは、子供の頃から続けていたストイックな運動とバランスの取れた食事、そして充分じゅうぶんな睡眠という日々の習慣によって育ったものだったらしい。


――お金持ちは、ほぼ例外なく身体からだ健康けんこう維持いじにお金をかけ、そしてなにより継続けいぞくした運動うんどうのために労力ろうりょくそそぐ。


 お金持ちが暴飲ぼういん暴食ぼうしょくおぼれて、だらしなく脂肪しぼうがついて太った不健康ふけんこうな体をしているイメージというのは、昔のメディアや漫画まんがなどがつくした虚像きょぞうなのであるらしい。


 ピッピピピピ


 トレッドミルの上を走っている美登里みどりの手首につけているスマートウォッチから電子音が鳴った。事前に設定していた時間が経過した、という意味だ。


 美登里みどりが乗っているトレッドミルの速度がだんだん落ちていき、美登里みどりも足の進みが遅くなる。身体からだ休憩きゅうけいにならすダウンタイムに入り、そしてトレッドミルが止まる。


 タイミングを見計みはからって、隣で走っていた俺も自分の乗っているトレッドミルのストップボタンを押していたので、フィットネスマシーンから美登里みどりに遅れて降りる。


 いもうと美登里みどりは台の上に置いていたスマートフォンを回収してフィットネスジムの休憩所にある合成ごうせい皮革ひかくの張られたベンチに座ったので、俺は近くのウォーターサーバーにて天然水を紙コップに注ぎ、無線イヤフォンを耳から外しハァハァと肩で息をしているいもうとに手渡してやる。


「ほらよ、水だぞ」


「……はぁ、はぁー……あ、ありがと。お兄ちゃん」


 そんな感じで荒く息をしている美登里みどりにお礼を言われたところで、俺も隣に座る。


 美登里みどりが紙コップの水を飲んで一息ついたところで、俺はいつものようにねぎらいの声をかけてやる。


「今日の分の運動も終わったな。エクササイズ投げ出さずに続いてるのは偉いぞ」


「……ふぅ……ふぅー……まあね、本気を出せばこんなもん。わたし明日香あすかねえちゃんのいもうとだし」


 新しい中学校に通い始めても、小生意気こなまいきいもうとの減らず口は相変わらずであった。


 俺は、呼吸のリズムが段々と普段通りに戻ってきたいもうとに尋ねる。


「それで、新しい学校ではどんな感じなんだ?」


 すると、いもうとがぼそぼそっとした感じで喋り出す。


「……まあ、普通かな。わりと仲良くしてくれる女の子もいる……けど、どこか違う。みんな女子中学生らしくコスメとかファッションとかに夢中で、アニメとかゲームとかのディープな話ができる女の子がいない」


 ちなみに、美登里みどりには兄である俺が買った宝くじが当たったことにより、超大金持ちの家の子供になっていることは中学校の誰にも伝えさせてはいない。送り迎えをしてくれている楽保よしやすさんも、雇っている運転手さんであるということは誰にも言わないようにさせている。


 急に幸運のみで超大金持ちになった家の子供だと中学校で知れわたるとロクなことがないと、年上の利発りはつ大学生だいがくせいである深月みつきさんからさとされたからだ。


 俺が美登里みどりのいないところで深月みつきさんから直接話を聞いたところ、コミュニケーション能力に若干じゃっかんなんのある美登里みどりに対して、下心を抱かずに友達になってくれた子を大切にして欲しいのだという。


 俺は美登里みどりに尋ねる。


「でもまあ、そのうち仲のいい子ができるんじゃないか? 自分から話しかけたりとかはしてるのか?」


「……してない。わたし、リアルで同い年の友達作るの苦手。年上や年下ならなんとかなるんだけど、対等な立場だと何を言っていいかわからなくなる」


――美登里みどりって、こういうところあるんだよな。


――コスプレイヤーの天羽てぃえんゆぅさんや声優せいゆうのすももさんは年上だし、円彦かずひこくんは年下だしな。


 そんなことが心に浮かんだ後、ねえちゃんの友達の紹介で得た美登里みどりの新しい年下の友達について尋ねる。


潤子じゅんこさんのいもうと霧穂きりほちゃんとはどうなんだ? 潤子じゅんこさんにアカウント教えてもらって、オンラインでのゲームメイトになったんだろ?」


 すると、美登里みどりがくぐもった声で返す。


「……あれはクソガキ。ゲームで躊躇ちゅうちょなく卑怯ひきょうな手を使ってくるし、向こうが勝ったらすぐ『ざぁこざぁ~こ』ってあおってくるし。東北とうほくに住んでなかったら、ほぼ確実にぶん殴ってる」


――クソガキって。


 明日香あすかねえちゃんの友達である潤子じゅんこさんの提案で、潤子じゅんこさんのいもうとであるゲームが好きな東北とうほく在住ざいじゅうの子と、美登里みどりはネット上のゲームメイトになったのである。


 名前は伊達だて霧穂きりほちゃんといって、小学五年生の女の子であるらしい。


 宮城みやぎけん過疎化かそかが進んだ田舎の村に住んでいるので、実家の近くにはこの春に小学生になったばかりの子供が一人いるだけらしく、せっかくだから年上の中学生である美登里みどりと友達になって欲しいと潤子じゅんこさんに紹介されたのである。


 美登里みどりが言葉を続ける。


「……そもそも、年上に対する敬意けいいが欠けている。近くに住んでるのが豆菜まなっていうちっちゃな子だけらしいんで、年下の子を手下か道具のように扱ってて調子に乗っているに違いない」


「いや、まあ何というか……我慢がまんして頑張がんばってくれ。それも美登里みどりが他人との関係を改めて構築こうちくしていくための練習れんしゅうだからな」


 俺があにとしていもうとにそう道筋みちすじしめしてやると、美登里みどりは若干暗い口調でこんなことを言う。


「……うん、わかってる。これもわたしが一年間家族に甘えて学校から逃げてきたツケなんだと思う。でも、そう考えると少し気分が落ち込む」


「お兄ちゃんは、美登里みどりくさらずにちゃんとこれからもベストを尽くして頑張ってくれるって信じているからな。エクササイズをさぼらずに健康のために続けられてるってのもめてるし。ほら、落ち込んでないで元気出せ」


 俺がそう、あにとしていもうと背中せなかを軽く叩いて発奮はっぷんしてやると、美登里みどりは俺に紙コップを渡してベンチから立ち上がりファイティングポーズを取って、その長いツインテール髪を揺らしてシャドーボクシングを始める。


 シュッシュッシュ


 美登里みどりはなにもない空間を殴りつつ、こんなことをつぶやく。


「……東北とうほくのメスガキが……わからせてやる、絶対にわからせてやるからな」


 黄色きいろみじかめのジャケットと、くびれたおなかへそえるしろいスポーツブラにくろいトレーニングパンツを身につけた美登里みどり小柄こがら華奢きゃしゃな体が左右に動き、二つのちいさなこぶしがボクシング選手せんしゅのように次々つぎつぎされくうを切る様子を、ベンチに座っている俺は冷めた目で眺めていた。


――俺は、美登里みどりに中学校に通い続けるのを頑張ってもらいたいって言ったつもりだったんだけどな。


――ま、美登里みどりが元気を出してくれたのでいいか。


――でも。


――メスガキとか、美登里みどりかえりみずに他人たにんに使っていい言葉じゃねーな。


 小癪こしゃく小生意気こなまいき美登里みどりが、シャドーボクシングで虚空こくうてきに対してパンチを繰り出してる様子を見て、ベンチに座っている俺はいもうと性格せいかくをよくよくわかっているあにとしてそんなことを思わざるをえなかった。

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